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「保管庫に入れる者、か。本部の捜査官であれば基本的に出入りは自由だな。入退出時に記録はつけるが」


 木漏れ日の差し込むカフェテラスで軽食を取りながら、ランドルフ・アルスターは至極あっさりとそう告げた。


 話は、数時間前に遡る。



◇◇◇



 ランドルフから遠出の誘いを受けたのは先日のことだった。

 どうやら「デートの予定も立てられない男なんて甲斐性なしだと周囲に宣言しているようなものだ」とカイルから忠言を受けたらしい。生真面目な謝罪文が綴られた手紙にコニーは思わず口元を緩めた。

 とはいえ遠出といっても親交を深める目的ではなく、本題はアビゲイルから頼まれていたケヴィン・ジェニングスの件についての経過報告と、十年前の王太子妃毒殺未遂事件の詳細を教えてもらうことだ。色気も何もあったものじゃない。まあ仮初の婚約者同士なんてそんなものだろう。コニーも特に気にしてはいなかった。


 ただ、ふと脳裏を過ぎったのは―――そういえばこういう名目で二人きりで出掛けるのは初めてだな、ということ。


 たいしたことではない。ただ、それだけのことだ。



◇◇◇



「へ、変じゃないかな、この恰好……!」


 姿見の前に立ったコニーは、檸檬れもん色のワンピースを着た己をまじまじと観察した。白い襟付きで腰回りには生地と同じ色の細身のリボンがついている。デザインは可愛いと思うが、地味でパッとしないコンスタンス・グレイルなんかが着たら浮いてしまうのではないだろうか。

 スカーレットはわずかに眉を吊り上げると、ぴしゃりと告げた。

『似合ってるわよ。だってわたくしが決めたんだもの』

 そうか、とコニーは胸を撫でおろした。

 ―――別に浮かれているわけではない。決してない。ただランドルフは由緒正しき公爵家の生まれで、今は伯爵位を持つやんごとなき身分の青年である。コニーがみっともない恰好をして恥をかかせてはいけない。そう思っただけなのだ。本当にそれだけである。


 姿見に視線を戻せば、そこには、ひどく自信のなさそうな平凡な顔が映っていた。髪はきれいに編み込んでひとつにまとめられ、小さな真珠が連なった髪飾りで留められている。うっすらとした化粧も施され、その唇は熟れた果実のように色づいていた。

 弟のレイリも「姉さま可愛い!」と褒めてくれた。それでもコニーはおろおろと狼狽えながらスカーレットの方を振り向いた。

「は、派手じゃないかな、この口紅……!」

 スカーレットはさらに眉を吊り上げると、ぴしゃりと告げた。

『似合ってるわよ。だってわたくしが決めたんだもの』

 そうか、そうだな、と頷いて、コニーはもう一度全身をしっかりと確認した。そこにいるのは、いつもより手入れをされ、多少見られる姿になっている少女だ。

 けれど、やはり、どこかおかしい気がする。どこか間が抜けている気がする。

 コニーは泣きそうな声で助けを求めた。


「す、スカーレット―――」


 その埒の明かない態度にスカーレットはとうとう眉を顰めると、

『いい加減になさい! わたくしの見立てに間違いがあるわけないでしょう!? お前はただ胸を張っていればいいのよ!』

 真夏の風物詩のような特大の雷を落としたのである。






 定刻通り迎えに来た死神閣下がコニーを連れてやってきたのは、景色の良い畔でも流行はやりの観劇でもお洒落な店が立ち並ぶ目抜き通りでもなく―――サンマルクス広場にある市庁舎に隣接された歴史資料館だった。


『斜め上過ぎる……』

 スカーレットは頭痛を堪えるように眉間に指を押し当てていた。

「で、でも、観劇とかだと寝ちゃうから、だから、その……!」

『まったくもう、こんなことなら最初から広場には来たくないと言えばよかったわ』

 実は馬車に乗り込む前に、ランドルフから質問を受けていたのだ。

 スカーレットは処刑時の記憶がないと言っていたが、これからサンマルクス広場に向かっても大丈夫だろうか―――と。

 スカーレットは本当に何でもなさそうな表情で頷いて、コニーの方も問題ないと伝えたのである。


『こんなかびでも生えそうな場所をデートに選ぶなんて、一体どういう神経なのかしら。わたくしなら黙って馬車に戻るわね』

「で、でも建物自体は新しいから……!かびとか生える感じじゃないから……!」

『そういう意味じゃなくてよ、ばかコニー』

 この資料館が出来たのは比較的新しく、数年ほど前のことだ。

 スカーレットが処刑された日、市庁舎は落雷による火災に見舞われた。幸い大事には至らなかったが、それでも被害を免れることはできず、いくつかの文献が消失した。中には歴史的価値のあるものも含まれていたという。その再興の意味も込めて建設されたのがこの歴史資料館なのである。


 スカーレットはぶつくさと文句を言っていたが、建物内に入る直前になって押し黙った。そして、そのままゆっくりと振り返る。


 彼女は、かつて己が処刑された広���をぐるりと見渡した。


『―――やっぱり、別に何も感じないわね。何も思い出さないし。本当にここでわたくしは処刑されたのかしら?』


 スカーレットの記憶がなくともコニーは覚えている。十年前、彼女の首が落とされた瞬間を。あの血の色を。匂いを。そして、狂気を。


 けれど、そうはっきりと告げることはどうしても憚られ、コニーはただ曖昧に頷いた。



◇◇◇



 真夏だというのに館内は薄暗く、ひんやりとしていた。どうやら歴史的価値があるものとは、得てして光や熱に弱いものらしい。

 欠伸を噛み殺しながら、陳列された古めかしい兜や剣、虫食い状態の書物の類に興味がある()()をしていると、ランドルフが思い出したように口を開いた。


「カイルが教えてくれたんだ。婚約者と会うなら、静かで、自然が多く、普段は行かないような場所を選ぶのがいいと。ここならば全ての条件に当て嵌まっているからな」

『―――なるほど、わかったわ。この男には壊滅的にセンスがないのね』

 スカーレットが真顔のまま両断した。奇妙な沈黙が落ちる。

 何とも言えない婚約者の表情に気づいたのか、ランドルフはきょとんと首を傾げた。

「もしかして、来たことがあったか?」


 どうしてそうなる。


 コニーは困ったように眉を下げると、「いいえ」と首を振った。

「閣下も初めてですか?」

「いや、一度だけある。ここにはオーラミュンデ家の寄贈品があるんだ。館長に招待されてリリィと一緒に回った」

 その答えに、コニーは一瞬、言葉に詰まった。舌打ちとともに『バカ』という呆れたような声が聞こえてくる。


 ―――別に、何も不思議なことではないだろう。コニーは自分にそう言い聞かせた。だって二人は実際に結婚していたのだから。リリィ・オーラミュンデは正真正銘ランドルフの妻だった。だから、そういうこともあるだろう。当然のことだ。

 だというのに、なぜかコニーの胸はちくりと痛んだ。頭の片隅で誰かが呟く。


 そうか、この人は彼女のことを―――リリィと呼んでいたのか。


 足が重い。まるで履いていた靴が突然鉛にでもなってしまったかのようだ。


「あそこに見えるのが、聖女アナスタシアが女神の使者から授かったと言われる聖典のひとつだ。数代前のオーラミュンデ当主が闇競売で競り落としたと言われている。原典はかなり傷みがひどく、滅多なことでは外気に晒せないらしい。ガラスケースに入っているのがそうだな。その手前に置いてあるのが内容を複写したものなんだが―――どうした?」

 婚約者がついてこないことに気がついたのか、前を歩いていたランドルフが驚いたように振り返る。足を止めていたコニーは思わず顔を伏せた。どうしてか、今の表情を見られたくなかった。


 ランドルフはしばらくコニーを見つめていたが、やがて合点が言ったように、ああ、と頷いた。


「朝からたくさん歩いたからな―――小腹でも減ったか? 何か食べに行くとしよう」




 ◇◇◇




 外に出ると、太陽が燦々と降り注いでいた。陽の光を受けて世界がきらきらと輝いている。資料館に併設されていたのは意外にもお洒落な雰囲気のカフェテラスだった。


 コニーが果実水を注文すると、ランドルフからアビゲイルの依頼はもうしばらく時間がかかりそうだと告げられた。

「ケヴィンの入院先が少々厄介なのと、ファリスに帰国したはずのライナス・テューダーの行方が掴めないでいる」

 コニーは神妙に頷いた。やはり何か裏がありそうだ。

 それから話題は十年前に移った。例のスカーレットの耳飾りがすり替えられていた件についてだ。



「―――保管庫に入れる者、か。本部の捜査官であれば基本的に出入りは自由だな。入退出時に記録はつけるが」

「そうなんですね……」

 それだと犯人を特定するのは厄介だ。ううむ、と唸っていると、果実水が運ばれてきた。ランドルフは紅茶とサンドイッチのセットを注文したようだ。焼き目のついたふかふかのパンにはソースをたっぷりつけた分厚いビフテキが挟まれており、食欲をそそるいい匂いがする。思わず凝視していると、食べるといい、と皿を寄せられた。解せぬ。

「スカーレット・カスティエルがリュゼ邸で落としたとされる耳飾りの記録を確認してみたんだが―――」

 柑橘系の果実水はよく冷えていた。甘酸っぱい、すっきりとした飲み口だ。

「贋物と判定された方は、正確には月虹石ではなかったようだ。白銀貝と呼ばれる貝の一種だな。こちらも産出は稀少で値は張るが月虹石ほどではない。見た目は似ているが、白銀貝の方は脆く、加工にはあまり向かないと言われている」

 くれると言うので、遠慮せずにサンドイッチにかぶりつく。肉汁が口の中でじゅわりとあふれた。

『デザインは?』

 あまりに美味しくて口いっぱいに頬張っていると、スカーレットが痺れを切らしたように口を開く。コニーは慌ててサンドイッチを飲み込み―――次の瞬間、肉の塊が咽喉につかえて盛大に噎せた。ランドルフが無言のまま立ち上がり、背中をさすってくれる。涙目になりながら果実水を流し込むと、ようやっと人心地ついた。

 ふう、と気を取り直して訊ねる。

「……デザインはどうでした?」

「ああ、スカーレットのものと瓜二つだった」

 言いながら、ナプキンを手渡された。どうやら口元にソースがついていたらしい。有難く受け取っておく。

「資料はそこで終わっていたが、白銀貝の流通経路は限られている。こちらの方で当時の購入者を調べてみたんだ。すると一件だけ聞き覚えのある家名があった」

 ランドルフはそこで一端言葉を切った。それから周囲を警戒するように低く告げる。

「スペンサー伯爵家だ」

 スペンサー?

 聞き覚えはある。けれど誰だかすぐには思い出せない。コニーが眉を寄せていると、その横でスカーレットが小さく息を呑んだ。


『……アイシャ・スペンサー』


 ―――囁くようなその声は、凪いだ水面に雫が落ちるようにぽつりと響いて消えていった。


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