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 それからほどなくてして、小さなレディはオルダス・クレイトンに連れられて応接間を出て行った。どうやらお作法の時間らしい。入れ代わりに執事が新しい小菓子と紅茶を持ってくる。コニーを案内してくれたロマンスグレーの老紳士である。


「あの子は今、ああやって笑っているけれど」

 オルダスとじゃれ合いながら去っていく小さな背中を目で追いながら、アビゲイルはぽつりと呟いた。

「離れで見つけた時は本当にひどい状態だったの。ろくに食事も与えられずに虐待されていたんだから当然よね。この屋敷に連れて来てからひと月ほどは泣きもせず、笑いもせず、ただの一言も喋らなかったわ。きっと過酷な日々を生き抜くためには感情を捨てるしかなかったんでしょうね」

 ―――コニーの出会ったルチア・オブライエンは、笑顔が可愛くてちょっとおしゃまな普通の女の子だった。

「屋敷の人間は、ほとんどがひどい中毒者だったわ。特に重篤だったナサニエルと愛人は、今も後遺症に苦しんで更生施設での療養を余儀なくされている。後になってその薬が禁止されていた幻覚剤だとわかったの。……でも散々手を尽くしたけれど、とうとう入手先はわからなかった」

 アビゲイルは過去を悔いるように視線を伏せた。それからゆっくりと顔を上げる。紺碧の双眸の奥に凍てつく炎が見えた気がした。

「だから、今度は逃がさない」

 放たれた声は鋭かった。そして強い意思が込められていた。

「ナサニエルたちを壊した幻覚剤は【ジャッカルの楽園】だった。だいぶ性質タチが悪くなっていたけれど、薔薇十字で売られていたのも同じものよ。何が目的だか知れないけど、こんなものを蔓延させようだなんてどうせ碌でもないことに違いないわ。―――誰であろうと、私の庭で勝手な真似はさせない」

 そうきっぱりと言い切ると、そこで一端、言葉を止める。ふっと口の端を緩めてから、アビゲイル・オブライエンはコンスタンスの方に向き直った。

「ずっと不思議に思っていたんだけど、これまでの騒ぎもスカーレットがいたなら納得ね。あの子は昔から台風の目のようなものだったから」

『―――どういう意味かしら?』

 眦をつり上げいきり立つスカーレットを目にしたコニーは慌てて立ち上がり、両手でどうどうと落ち着かせる。アビゲイルが噴き出した。


「でも、あなた達の出会いがハームズワース子爵の夜会で良かったわね」

「……ん?」

 なぜそこで子爵ハムの名前が出てくるのだろう。

「だってそうでしょう? あれだけ欲にまみれた男が聖職者でいられるのは何故だと思うの? 莫大な寄付金のため? まあ確かに否定はしないけれど、教会はね、子爵に聖職者でいてもらいたい理由があるのよ」

「理由、ですか?」

「ええ。ドミニク・ハームズワースは女神の寵愛を受けているから」

「女神の、寵愛……?」

 そう言われても、コニーの脳裏に浮かぶのは神聖なる教会で歩く酒樽のようになっていた姿だ。あれはどう考えても堕落の象徴である。悪魔の囁きに全面降伏している。疑問が顔に出ていたのだろう、アビゲイルが笑いながら教えてくれた。

「子爵はね、人ならざるものが見えるんですって。ルチアと同じよ。心当たりはない? 私はてっきり、それでニール・ブロンソンとの婚約破棄の手続きを進めたのだと思ったのだけど。だってスカーレット・カスティエルが命じたなら、あの男は何に代えても行動に移すはずだもの」

 コニーさらに首を深く傾げた。アビゲイルが声を顰める。

「だってほら―――子爵って()()()()()()()()っていう歪んだ被虐趣味の持ち主でしょう?」

 なるほど、とコニーは無表情のまま新しく淹れられた紅茶を口にした。さすがの薫り高さである。ほろほろと崩れるクッキーとの相性も抜群だ。うん、なるほど。

『ああ、成金豚ね。何を言っても這いつくばって喜ぶから気持ちが悪くなって近づくのはやめたの。それはそれでご褒美になっていたみたいだけど、わたくしの知ったことではないわ』


 コニーだって、そんなこと知りたくなかった。


 意識を遠くに飛ばすコニーの前で、アビゲイルが首を捻る。

「でもやっぱりあれはあくまで噂で、実際は違ったのかしら?」

「……子爵とは何度かお会いしましたが、そういう素振りはなかったと―――ん?」

 ふと違和感を覚えて眉を寄せる。その瞬間、埃をかぶった記憶が転がり落ちてきた。

 ジョン・ドゥ伯爵の夜会での子爵の目線。教会での宣誓後に言われた言葉。


 ―――()()()()に神のご加護がありますように。


 あれは、てっきりランドルフとコニーのことだと思っていたのだが―――。

 いずれにせよ、どういうつもりで言ったのかはハームズワース子爵にしかわからない。今後お近づきになる予定もないので、真実は闇の中である。


「あと夜会と言えば―――エミリア・ゴードウィンの屋敷で起きた騒動を覚えている?」

「テレサ・ジェニン��スと、マーゴット・テューダーの?」

「ええ。テレサの夫は今、療養中なの。原因は何かの薬物だそうだけれど、おそらく【ジャッカルの楽園】ね。ケヴィンはここの所ずっと薔薇十字の娼館に入り浸っていたそうだけど、その時の態度がまるきり一緒なのよ、うちで暴れた依存者とね」

「それは……」

「事情を訊きたくてもテレサは死んでいるし、愛人ライナスはファリスに帰っているみたいだし。何か裏がある気がするのよねえ。できれば総局の方で調べてもらいたいのだけれど、あなたの婚約者にお願いできるかしら」

 おそらくランドルフにとっても有益な情報となるだろう。コニーははやる気持ちを押さえて頷いた。アビゲイルがぱっと顔を輝かせる。

「ありがとう、コニー。アイシャ・ハクスリーの件はこちらで手配しておくわ。―――セバスチャン」

「ハクスリー卿にとびっきりの紹介状をご用意致しましょう」

 部屋の隅に控えていたロマンスグレーの執事は、心得たように胸に手を当て一礼すると、颯爽と応接間を後にした。

 アビゲイルは「うちのセバスチャンは優秀なんだから」と言うと、くふふ、と笑う。

「すぐにハクスリー家から接触があるはずよ」

 その表情を見たコニーは、あ、と間抜けな声を出す。

「どうしたの?」

 ぶんぶん、と勢いよく首を横に振った。別に大したことではないのだ。

 ただ、全く似ていないと思っていたルチアとアビゲイルは―――


 その陽だまりのような笑顔がとてもよく似ていた。




◇◇◇





 少女は空気だった。誰も彼女のことなど気にも留めない。誰かの視界に入っても、まるで見えないもののように振舞われる。空気なのだから当然だ。

 少女はきらきらしたものが好きだった。陰気で根暗な奴と影で嗤われているのは知っている。だから誰にも言ったことがない。きらきらしていて、みんなの視線を釘づけにするものは、少女とは無縁の世界のものだ。惹かれてやまないのはそれが理由かも知れない。とりわけ最近のお気に入りは、昨年デビュタントを迎えたばかりのスカーレット・カスティエルだった。

 デビュタントは一年に一度、モルダバイト宮殿で盛大に執り行われる。くしくも少女はスカーレット・カスティエルと同い年であり、同じ大広間にいた。燃えるような深紅のドレスに身を包んだスカーレットはその場にいる誰よりも美しかった。圧倒的な存在感は、主催者である国王夫妻も霞むほどだったのだ。


 その日から少女の瞳はスカーレットを追いかけていた。スカーレットばかり映していた。露骨な態度だったかも知れないが、問題ないのだ。だって少女は空気だったから。誰も彼女には気がつかないのだから。


 ―――そのはず、だったのに。


「あなた、アイシャ・スペンサーね。何かご用?」

 それは、デビュタントから何度目かの誰かの夜会でのことだった。いつものようにスカーレットを見つめていたら、ふいに彼女と目が合った。それから弓矢のように放たれたその言葉に、少女―――アイシャは射貫かれ、縮み上がった。

 艶やかに波打つ黒髪に、宝石のような紫水晶アメジストの瞳。陶器のような肌に瑞々しい唇。しなやかな肢体。

 気がつけば、スカーレット・カスティエルは空気であるはずのアイシャの目の前までやってきていた。

「わたくしを見ていたでしょう? さっきも、その前も、ここのところずっとよ。一体なにかしら?」

「あ、あの、な、なまえ……」

 ひっくり返った声でそう言うのが精一杯だった。スカーレットがわずかに眉を顰める。それだけで、アイシャの心臓はぎゅっと締めつけられた。

「だから、アイシャでしょう。アイシャ・スペンサー」

「なんで……」

 また名前を呼ばれた。顔が熱い。何が起きているのか、よくわからない。

「なんでって、挨拶したじゃないの。モルダバイト宮で行われたデビュタントで」

「お、覚え、て……」

 数カ月も前の話だ。それはアイシャにとっては永遠に等しかったが、スカーレットにしてみれば一瞬の出来事だったはずだ。どきどきと心臓が早鐘を打つ。

 苦しくなって胸に手を当てると、当然よ、という声が降ってきた。


「お前、わたくしを誰だと思っているの?」


 顎を逸らし、宝石のような瞳を細めてスカーレット・カスティエルはアイシャを睥睨した。その傲慢なまでの美しさに思わず息を呑む。そして気づいた。


 女神だ。


 彼女は女神なのだ。アイシャの―――女神。


 視界がぼやける。瞬きとともにぽろりと熱い雫が落ちてきて、アイシャは自分が泣いていることに気がついた。




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