7-2
「それはずいぶんと面白いことになっていたのねえ」
コニーと向かい合わせになるように臙脂のソファに腰掛けたアビゲイルは、頬に手を添えながらおっとりと微笑んだ。その隣には愛らしい妖精がちょこんと座っている。一方でサーベル脚のアームチェアに腰を下ろしたオルダス・クレイトンは、疲れたように肘をつき眉間に指を押し当てていた。
「スカーレット・カスティエルが地獄の底から戻ってきたっていう例の噂もあながち間違っていないじゃない。ねえスカーレット、聞こえているかしら? 言葉を交わしたのは数回程度だけれど、私、あなたの処刑にはずいぶんと心を痛めたのよ?」
『冗談は潰れた蛙のような顔だけにしておいてくださる?』
その皮肉が届いているはずもないのに、アビゲイルは、くふふ、と笑みをこぼした。
「きっと憎まれ口でも叩いているんでしょう?」
途端、図星を指されたスカーレットの顔が苦虫を嚙み潰したようになる。アビゲイルは年長者の貫禄を見せたまま、隣に座る幼い少女に視線を落とした。
「でも珍しいわね、ルチア」
「ええ。いつもはここまではっきりと見えないのですわ。……でもアビー、この方、とってもきれいね」
少女は後者の台詞をアビゲイルにだけこっそり囁くと、藍色の瞳をきらきらと輝かせてスカーレットを眺めていた。
ルチアには、やはりスカーレットが見えていた。アビゲイルが言うには、昔から死者の姿を見ることができたらしい。
「ただ段々と力が弱くなっているらしくて、今はぼんやりとしかわからないんですって。―――死んでいても目立つだなんて、さすがスカーレット・カスティエルね」
茶化すでもなくしみじみと呟かれたその言葉に、スカーレットは不満そうに眉をつり上げた。
◇◇◇
ルチア・オブライエンは、不思議そうに室内を覗き込むアビゲイルに気がつくと「アビーのお客さまがお姫さまを連れてきたのよ!」と嬉しそうに飛びついていった。
さすがにこれは誤魔化し切れず、コンスタンスはスカーレットと出会ってからこれまでのことを説明する羽目になってしまったのだ。詳細は省いたとはいえ、内容としては眉唾物だろう。それでもルチアと言う存在があったためか、アビゲイルもオルダスもコニーの話をすんなりと受け入れたようだった。
それにしても、この子はいったい何者だろうか。
コニーは内心首を傾げていた。オブライエンと名乗っていたこともあり、最初はアビゲイルの娘かと思っていたのだが、母ではなく『アビー』と呼んでいる。それに、正直に言って顔立ちはあまり似ていない。アビゲイルは魅力的な女性だが、決して美人ではないのだ。同じく面影はないが、整っているという意味ではオルダス・クレイトンには共通点がある―――そこまで考えて、コニーは慌てて頭を振った。
何を考えているのだ、何を。
けれど、オルダスはこの謎の子供のことを『ルゥ』と親し気に呼んでいたし、オブライエン邸にも当たり前のようにいるし、そもそもアビゲイルとの関係は本当にただの主人と被用者なのか―――
『考えてることがぜんぶ顔に出ているわよ、ばかコニー』
呆れたようにスカーレットが言えば、ルチアが屈託のない笑顔を見せた。
「残念ながらルチアは、ルディとアビーの愛の結晶ではありませんの」
その瞬間、咽るような音がして視線を向ければ、オルダス・クレイトンが盛大に紅茶を噴き出していた。彼は袖で乱暴に口を拭うと、絞り出すように低く呻いた。
「この……ませガキ……!」
ごめんなさい、私のせいです。そう思ってコニーが顔を引き攣らせていると、からからと明るい笑い声が降ってきた。アビゲイルだ。
「そうね、普通は勘違いしてしまうわよね。でも私とルディはそういう関係ではないのよ。この子は私の可愛い飼い犬。一応屋敷内ではお気に入りの情夫ということにしているけれど、古くから仕える者はルディが私の犬だと知っているわ」
『なら、そこの小娘はいったいどちら様なのかしら? まさか公爵の子ではないでしょう? だってセオドア・オブライエンは同性愛者ですもの』
スカーレットの突然の発言にコニーは目を剥いた。
「ちょ、ちょっとスカーレットさん、急に何を……」
『あら、有名な話よ。知らないの?』
知るわけがない。思わず言葉を失っていると、ルチアが困ったように眉を下げた。
「テディは男女わけへだてなく優しいのですわ」
それで会話の内容に見当がついたのか、アビゲイルがわずかに苦笑した。
「確かにセオドア―――我が家ではテディと呼んでいるからテディでいいかしら? テディは女性を抱くことができないわね。でも、だからといってそのことが人間としての欠陥になるわけではないのよ。残念なことに、今の風潮はそうではないけれど。でも私は家族としてテディを愛しているし、テディも同じ気持ちでいるわ。ね、ルディ?」
同意を求められたオルダスは「俺に振るな」と素っ気ない口調で拒絶した。
「もう、照れちゃって」
アビゲイルがため息をつくと、すぐさま「照れてねえ!」と噛みつくような声が飛んでくる。しかし彼女はキャンキャン吠える駄犬をまるきり無視して、聖母のような微笑をこちらに浮かべた。
「私とテディとルディはね、いわゆる幼なじみだったのよ。私が貧民窟で死にかけていたルディを拾った頃だから―――もう、二十年以上も前の話ね。テディは熊のような外見の割に優しくて繊細な人なの。王都は空気が合わないみたいで、今頃領地でのんびり絵を描いているわ。それでこの子は―――」
アビゲイルがちらりと視線を落とすと、その先にいた少女は溌剌とした笑顔で宣言した。
「ルチアはテディの姪になるのです」
「……姪?」
「ええ。ちょっとした事情があって数年前に引き取ったのよ。私とテディの養子にしているの」
そこで一端言葉がとまる。続きを言おうか言うまいか、躊躇っているような態度だった。その様子に気づいたルチアが、顔を上げてアビゲイルと目を合わせる。
「大丈夫ですわ、アビー」
アビゲイルは無言のまま、ルチアの頭を優しく撫でた。それからコニーの方を向き直り、口を開く。
「―――この子の父親にあたる男はナサニエル・オブライエンと言ってね、テディのすぐ下の弟だったの」
ゆっくりと話し始めたアビゲイルに、コニーは神妙な表情を浮かべて耳を傾けた。
「私の知るナサニエルはね、気が弱くてすぐに人の顔色を窺ってくるような子だった。それでも周囲の期待に応えようと一生懸命だったわ。でも、結婚して王都で暮らすようになってから人が変わってしまったの。もしかしたら、それが彼の本来の性格だったのかも知れない。どちらにせよ、厳しいご両親の元を離れたせいで枷がなくなったんでしょうね。新婚当初から、愛人や遊び仲間を屋敷の離れに連れ込んでは夜な夜な騒ぎ明かすような爛れた生活を送るようになってしまったのよ。奥方は早々に愛想を尽かして実家に戻ったわ。離婚はしなかったみたいだけど、それも時間の問題だったはずよ。
次第に賭け事にも手を出すようになっていって、膨らんだ借金が返せなくなると領地に戻っては泣きついていたわ。当時のご当主―――お義父様が何度叱りつけても懲りた様子はなかった。その後も何度も同じことが繰り返されたの。テディが女性を受けつけないことはすでに周知の事実だったから、ゆくゆくは己が公爵を継げるとでも思っていたのでしょうね。少なくとも勘当されることはないと思っていたはずよ。実際その頃のテディは継承権を放棄するつもりだったから。私にも異論はなかったわ。別に、生きていくのに貴族である必要はないでしょう? 私ね、テディと結婚する前は船で諸国を巡る旅をしていたのよ。だから、またそんな生活に戻るのも悪くないと思っていたの」
本当よ? と普通なら裸足で歩いたこともないはずの身分である公爵夫人は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
『そう言えば、リュシュリュワ領のアビゲイルは舞踏会で踊るよりも野蛮な航海を好む跳ねっかえりだと有名だったわね』
確かにアビゲイルなら船旅を楽しむどころか、海賊にでもなれそうである。コニーが納得していると、わずかに強張った声が聞こえてきた。
「幼い頃のナサニエルを知っていたから、どこかで道を正してくれると思っていたのよ。でも、もっと目を配っておくべきだった。―――ナサニエルと愛人との間に子供が生まれていたと知ったのは、五年も経ってからだったわ」
そう言うと、アビゲイルは悔やむように目を伏せた。ルチアが慌てたようにその手をぎゅっと握りしめる。
「アビーのせいではありませんわ。だってナサニエルも自分に子がいることなんてほとんど忘れていましたもの。視界に入れば、気まぐれにぶったり蹴ったりするくらいで」
今度はコニーが言葉を失う番だった。そんなことがあっていいのだろうか。そんな非道なことが。
「……その頃のナサニエルと取り巻きたちは普通じゃなかった。薬を乱用していたのよ。ほとんど離れに引き篭もって狂乱とも呼べる騒ぎを起こしていたわ。薬物の過剰摂取で死人も出ていたと言われていたほどよ」
「ルチアも、もう少しでそのお仲間になるところでしたの」
あっけらかんと告げる少女に、なんと言葉をかけていいのかわからなくなる。コニーの表情を見て、小さな天使はにっこりと笑った。
「でも、アビーが助けてくれたのですわ」
「私だけじゃないでしょう?」
アビゲイルの問いかけに、ルチアは「もちろん!」と力強く頷いた。
「あのろくでなしどもを死ぬ手前までぶん殴ってくれたのはルディで、死ぬほど嫌だった当主という針の筵に進んで座ってくれたのはテディです。―――三人とも、ルチアの自慢の家族ですわ」