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 閣下の様子がおかしい―――気がする。


 カスティエル邸に向かう馬車の車中で向い合せに座りながら、コニーはちらちらと婚約者の姿を窺っていた。表情がないのは相変わらずだが、どことなく雰囲気が固い。何かを考え込むような仕草をしている。

 スカーレットもいつもと比べれば口数が少なかった。彼女は平気だと笑っていたが、以前に忍び込んだ時にマクシミリアンと出会ったのは不意打ちのようなものだった。今回とはまるきり状況が違う。


「そういえば」

 ランドルフが口を開いた。

「ジョン・ドゥ伯爵の夜会で君が助けた女性だが、調べてみたら領地が海沿いにあり、いくつかの港を所有していることがわかった。薔薇十字通りに流通していた幻覚剤の密輸に関わっていたのではないかと見ている」

「……それは、ジャッカルの楽園ですか?」

 あの女性はジェーン―――つまり、ジャッカルの楽園を使用していた。密輸していた幻覚剤とは、つまり、そのことではないだろうか。スカーレットは副作用が少なく、安全なものだと言っていたが―――

 ランドルフはあっさりと肯定した。

「おそらくは。ただし、幻覚剤としての強さは当時のものとは比べ物にならない。こちらの錬金班の報告によれば、十年前の【ジャッカルの楽園】から、より強力な生理活性を持つ物質のみを分離して精製されたものだということだ。いわゆる改良版だな。依存性も強く、身体的にも精神的にも影響を受けやすい。―――もともとジャッカルの楽園は、純度が高ければ神経毒にもなり得た代物だった。それが、十年前に禁止された理由のひとつだ」

 恐ろしい話だった。

 コニーは、その流れでふと思いついたことを口にしていた。

「それは、この前の、太陽の入れ墨と何か関係しているんですか?」

 途端、ランドルフの目が牽制するように細くなる。けれどコニーは構わず疑問をぶつけた。

「私を襲った人も、ケイトを攫った誘拐犯も―――みんな、その組織の人たちなんでしょう?あの人たちはいったい何者なんですか?何が、目的なんですか?」

 そう言い切ると、逃がさないぞと言うようにじいっと紺碧の双眸を見つめた。ランドルフは困ったように視線を彷徨わせたが、コニーがちっとも引かないことに気づくと小さく溜息をついた。


「―――彼らは【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】。ファリス帝国の頃から存在している巨大な犯罪組織で、俺が入局する前から代々憲兵総局の天敵だ。末端は捕まえられても、上層部にはたどり着かない。雲のような奴らだ。殺人、誘拐、人身売買に武器売買、麻薬密輸―――国には属さず、金次第でどんなこともやる。一説によればファリス滅亡の裏には彼らの暗躍があったとも言われている。組織の人間は体のどこかに太陽の入れ墨があるのが特徴だ。あとは特定の任務下では仲間内での()()があるらしいが―――」


 ―――()()? コニーは、はっと息を呑んだ。


「……キリキ・キリクク」

「うん?」

「悪い奴らを見破る呪文です。じゃあ、たぶん、あれがその符丁だったんだ……」

 コニーが事情を説明すれば、ランドルフの表情が険しくなっていく。「―――ということは」その声はどことなく張り詰めていた。


「今この国で、何らかの工作活動が行われているというわけだ」




◇◇◇




 カスティエル邸に到着すると、豪華な応接間に通された。マクシミリアンの姿はなかった。急な来客があり、その対応で遅れているらしい。そう言って頭を下げたのはロイという名の年嵩の従者だった。彼は続けて、主人からランドルフ宛ての言付けを預かってきていると告げた。

「書斎にてアルスター伯がご所望されていたミシェリヌス時代の所領目録を用意してあるそうです」

 それを聞いたランドルフが、すまなそうにこちらの顔色を窺ってくる。コニーは明るく頷いた。

「どうぞ、行ってきてください」

 閣下は「すぐ戻る」と言ってロイと共に邸内の書斎へと向かっていった。

 ひとりぽつんと残されたコニーを見かねてか、部屋の隅で控えていた老執事が声を掛けてくる。ちょうど庭のサルビアが見頃なので如何でしょうか―――と。





 青空の下に、深紅の小径が広がっていた。雫を模った緋色の花びらが茎に沿うようにしていくつも重なり合って揺れている。


『前は白いアナベルだったはずだけど。植え替えたのね』

「そうなんだ」

 スカーレットとのんびり会話でもしようと付き添いは断った。人の好さそうな老執事は中庭の入口付近で待ってくれているはずだ。

『クロードは父の執事なのよ。優しそうに見えて食えない奴だから気をつけた方がいいわ』

「そ、そうなんだ……」

 取り留めもない会話をしながら庭を散策していると、ふいに脇道から子供が飛び出してきた。黄色のドレスを纏ったその子はコニーの前をとてとてと走っていたかと思うと、小石に蹴躓き、ずべんと地面と盛大に接吻してしまう。コニーは思わずスカーレットと顔を見合わせた。

「……知ってる子?」

『いいえ、全く』

 来客があったというから、その関係だろうか。とりあえず近づいて、声を掛ける。

「大丈夫?」

 しゃがみ込んで手を伸ばせば、小さな手のひらに掴まれた。ばっと上げられた顔は強張っていたが、それでもひどく愛らしい。女の子はコニーにつかまると、まるで生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えながら起き上がった。それから毅然として胸を張る。

「……な、泣かないわ!わたくしは強いもの……!もう六つになったんだもの……!」

 しかしそう言いながらも淡い菫色の瞳の縁にじわりと涙が滲んでいく。コニーはぽりぽりと頬をかいた。誰かに似ているような。でも、全然、似てないような。

 その時、背後から声を掛けられた。

「待たせてすまない、ミス・グレ―――」

 振り返った先にいたのはマクシミリアン・カスティエルだった。けれど、なぜか途中で言葉をとめて、驚いたように目を見開いている。それからぽつりと声を落とした。


「―――レティ?」


 その瞬間、スカーレットが息を呑んだ。そのまま凍りついたようにその場に固まってしまう。

 ()()()? コニーはきょとんと首を傾げ、それからはっと気がついた。レティ。聞き覚えのあるそれは、リリィ・オーラミュンデの屋敷に忍び込む際にスカーレットがコニーにつけた偽名だった。あの時、彼女はこう言ったのだ。お前にわたくしの幸運をあげるわ、と。今思えばあれは―――自身の愛称だったのではないだろうか。

 マクシミリアンはこちらに向かってレティと呼んだ。まさか、まさか―――

 動揺していると、先ほどまで半べそをかいていた少女がぱっと駆け出していく。


()()()()!」


 そのままほとんど飛び込むようにして、彼女はマクシミリアンに抱き着いた。


「転んだけど、泣かなかったのよ!レティは強いのよ!ほら目も濡れてな―――これは涙じゃないのよ!びっくりして出てきた汗なの!」

「そうだね、レティは強い子だ。それで、お客さまに挨拶はしたのかい?」

 まだ幼い少女は、はっとしたように口元に手を当てた。それから気まずそうにこちらを向くと、洗練された所作で頭を垂れた。

「おみぐるしいところをお見せしてしまい、失礼いたしました。わたくしはレティ―――レティシア・カスティエルと申します」

「……レティ、シア?」

 その名は決して偶然ではあるまい。なぜなら彼女が生まれた頃は、まだ、スカーレットの処刑は風化していなかったはずだ。十年経った今でこそヴァイオレットやコレットと言った「レティ」を愛称に持つ名前自体は珍しくなくなったが、その当時は倦厭されていただろうことは想像に難くない。


 ―――だってスカーレットという名は今でさえ禁忌タブーなのだから。


 けれどマクシミリアンは当たり前のように、レティ、と呼んでいた。少女もその名を忌避する様子は欠片もなかった。

 そのことに、彼の並々ならぬ意志を感じた。


「すてきな、お名前ですね」

 呆然と立ち尽くすスカーレットに聞かせるように、コニーは告げた。マクシミリアンがわずかに顔を歪める。それはまるで、突然胸に走った痛みを堪えるような表情だった。


「……ああ。私も―――そう思う」


 そう言って、どこか昔を懐かしむような眼差しを見せる相手に、コニーは馬車から降りる直前に聞いた言葉を思い起こしていた。「―――これは、後から聞いた話だが」降車のためにコニーの手を取ったランドルフ・アルスターは、ふと思い出したように言ったのだった。



 マクシミリアン・カスティエルは最後までスカーレットの処刑を止めようと奔走していたらしい、と。




◇◇◇



 カスティエル邸の書斎は応接間ほどの広さを持ち、その壁面は全て書架で埋め尽くされていた。ガラス張りのキャビネットには年代物の蔵書が陳列され、天井には歴代の当主の肖像画が掛けられている。室内はゆったりとした長椅子に黒革のソファ、猫脚のテーブルなどが置かれ、観賞目的と言うより団欒用としてくつろげるような作りだ。

 マクシミリアンからの()()()()、ランドルフの目的の人物はそこにいた。


「奇遇ですね、カスティエル公」

 そう声を掛ければ、長椅子カウチに腰掛け書物を読んでいた五十ほどの男が、ゆっくりとこちらに視線を寄越す。濃い紫の双眸がこちらを映した。―――アドルファス・カスティエル。マクシミリアンの父で、現カスティエル当主その人だ。

「……まったく、回りくどいことをする」

 鋭さのある整った容貌が、おどけるようにくしゃりと崩れた。

「わざわざマクシミリアンを使うとはな。お目付け役のロイまで巻き込んだ手腕は買うが」

「何の話かわかりかねます」

 しれっと返せば、アドルファスは大仰に嘆いて見せた。

「相変わらず可愛げの欠片もない。幼い頃は天使のようだったのに。君の父親はもっと愛嬌があったぞ。こう、わしゃわしゃと構い倒したくなるような」

 故人を引き合いに出されても困る。ランドルフは無表情のまま肩を竦めると、先手を打つように短く告げた。

「ところで―――エリスの聖杯をご存知ですか?」

「さて、何のことだろうな」

 アドルファスは動揺など微塵も見せなかった。

「用件はそれだけか?」

 それどころか口元をわずかに緩めて、ランドルフに訊ねる余裕さえある。

「ええ、今のところは。本も借りられたので帰りますよ。婚約者が待っているので」

 わかってはいたが、やはり、だめか。そのまま踵を返すと、その背中に落ち着いた声が掛けられた。

「老婆心ながらひとつ忠告しておこう」

 ―――娘を処刑で亡くしたはずの悲劇の男は、肚の底が読めない穏やかな口調でこう告げた。


「手札はきちんと揃えてから勝負に挑みなさい。それが、長生きの秘訣だ」

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