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 スカーレットは一面に黄色い花畑の間を無邪気に駆け回っていた。昨日の嵐などまるでなかったように、澄み渡った水色の空からはうららかな日差しがこぼれている。スカーレットの背丈ほどに伸びたフリージアの絨毯は、柔らかな風を受けて、さざなみのように揺れていた。

 待ちなさい、と後ろから制止の声が掛けられる。けれどスカーレットは気にもせず、はしゃいだ声を上げながら進んでいく。

「あ」

 ふいにぬかるみに足を取られてバランスを崩した。そのまま頭から飛び込んだ先は、運の悪いことに水溜まりだった。

「スカーレット!」

 焦ったような悲鳴とともに、足音が駆け寄ってくる。けれどスカーレットはそれどころではなかった。最悪だ。新調したばかりのドレスはぐちゃぐちゃだし、みんなが褒めてくれる愛らしい顔も泥だらけ。しかし無様に泣き出すことはプライドが許さず、ぶすっとした表情のまま顔だけを上げた。

 視界に飛び込んできたのは、淡い金色の髪に赤みがかった紫色の瞳。年の離れた兄が心配そうにこちらを覗き込んでいる。けれど泥の化粧を施したスカーレットを見るや、その口元がぴくりと震えた。すぐにわざとらしく眉を顰め平静を装っていたが、その肩は小刻みに揺れ―――やがて堪えられなくなったのか膝を折って笑い転げた。スカーレットは憮然としていた。

「ひどいわ」

「す、すまない。でも、私は待つように言っただろう?注意を聞かなかった悪い子はお前だよ―――レティ」

 眦に溜まった涙を指で拭うと、マクシミリアンはひどく優しい表情を浮かべてそう言った。それから手が差し伸べられる。スカーレットは少し躊躇ってから、おずおずとその手を握りしめた。


 レティ。兄はしばしば彼女のことをそう呼んだ。


 ありったけの、愛情を込めて。





 ぼんやりと瞼を開けると、心配そうな若草色の瞳に出迎えられた。思わずぱちくりと瞬きをする。コンスタンス・グレイルはますますこちらを案じるように眉を寄せた。

「スカーレット、大丈夫?その、姿は見えてるのに、目がちっとも開かなかったから―――」


 たぶん、夢を、見ていたのだ。あれはカスティエル領だろう。まだ五つかそこらの頃の出来事だ。


 ―――レティ。


 ひどく懐かしい声だった。胸の奥に生まれた感傷を払い除けるようにかぶりを振ると、スカーレットは素っ気なく肩を竦めた。

『なんでもないわよ』

 そう言って冷たく睥睨すれば、大抵の人間は彼女の不況を買うまいと、それ以上食い下がることはない。


 けれど、どうやら目の前の間抜け顔の少女は違ったようだ。


「ほんとに?ほんとに大丈夫?やっぱり()()はやめにしてもらう?」

 そう言いながら仔犬のようにキャンキャンと纏わりついてくる。その様子に、何だか一気に力が抜けた。スカーレットは小さく嘆息すると、仕方なく口を開いた。

『何を心配しているか知らないけれど別に平気よ。だって前にも帰ったじゃない。ほら、例の仮面を取りに』


 ランドルフ・アルスターからコンスタンス・グレイルに外出の誘いがあったのは先日のことだった。ランドルフの古い友人が婚約者に挨拶をしたいと言っているのだがどうだろうか、と。

 どこかで聞いたような話だが、気持ちはわかる。あの表情筋の死滅している斜め上男が、一回りも年の離れた少女と婚約したのだ。それだけでも充分面白いというのに、相手は最近話題のコンスタンス・グレイルである。誰だって事情を知りたいと思うだろう。

 そして難しいなら断ってくれて構わないと言って出された相手の名は―――マクシミリアン・カスティエル。


 カスティエル家の長子であり、己にとっては異母兄にあたるマクシミリアンだったのだ。


 スカーレットはわずかに目線を伏せた。おそらく、それであんな夢を見たのだろう。

『―――大丈夫よ』

 気を取り直すように、ふん、と鼻を鳴らす。それから心配性な相棒を見下ろすと、腰に手をあて唇を尖らした。


『わたくしを、誰だと思っているのよ!』




◇◇◇




 ファリスに潜らせていた間諜が帰還したとの知らせを受けて、ランドルフ・アルスターは王立騎士団本部から憲兵総局へと戻っていた。


 例の誘拐犯が服毒死したのはつい先週のことだ。捕らえてすぐの出来事で、ろくに実況見分もせずに自害だと結論づけられた。

 男の遺体には太陽の入れ墨があった。【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】だ。自死の可能性がないわけではないが、その心積もりであったのならば捕縛と同時に死んでいるだろう。口封じに殺害されたという方が確率としては高い。そう考えたランドルフは当時の警護体制などの資料を騎士団側に求めたのだが、門前払いを食らう日が続いている。噂によれば、セシリア王太子妃の姿も目撃されているらしいが―――




「何かわかったか?」

 ランドルフが訊ねると、先に報告を受けていたカイルが、ぴん、と何かを弾いてこちらに寄越した。片手で受け止め確認すれば、それは二枚の銀貨だった。表に勝利の女神の横顔、裏には盾と剣の図柄が刻まれている。アデルバ��ドではなく、ファリスのものだ。 

「それ、どー思う?」

 カイルがじっとりとした半眼でこちらを見てくる。

 一見した限りではさほど違いは認められない。そもそも製造年が違えば多少見た目も異なるものだ。だが―――ランドルフは目を細めると、懐から取り出したナイフの柄でそれぞれを小突いた。

 反響音が、わずかに、違う。

「……銀の含有率が下がっているのか?」

 おそらく片方は銀鍍金で、中身には青銅が混ぜられているのだろう。

「ご名答。今モリーに純度を調べさせてるけど、おそらく従来の三分の一以下にはなっているって話だ。あちらさんの経済状態が悪化しているって話はずいぶん前から聞いていたが、これはひどいな」

「通貨価値は?」

「もちろんそのままで押し通すつもりだろう。だが市民にとっちゃそうはいかない。報告によれば、すでに物価の上昇が始まっているらしい。ちなみに非正規での両替商との取り引きはすでに禁止されてるって話だ。となると国外との貿易関係はたぶん死んでんな。国内にしたって、この通貨の膨張で市民の生活は困窮し始めている」

 言いながら、分厚い資料を手渡された。ランドルフは無言のまま受け取ると、その場で視線を落としていく。

「ちなみにそれ、産業関連の報告ね。……だけど、妙な話がひとつある。ファリス国内の鋳造所なんだけど、ちょっと前まで火を吹く勢いだったっつーのに、ここに来て緩やかに―――通貨の製造量が停滞しているらしい」

 その言葉に、ページを捲る手がとまった。

「……ファリスは今、国債を発行しているのか?」

「あ?ああ、確かそう言う報告もあったな。まあ、不景気ってこともあるだろうが……」

「いや、これはおそらく―――」

 資料によれば、ほとんどの日用品の生産が下がっていく一方で、急激に伸び始めた数値がある。国債で得た費用はそこに充てられたのだろう。火薬。鉄。大型の荷馬車。川沿いの工場。


 ランドルフは紺碧の双眸をわずかに歪めた。



「―――戦争の準備だ」


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