6-5
ホセは王城の一角にある尋問室で拘束されていた。
小窓ひとつない殺風景な室内だ。幸いなことに尋問はまだ始まる前で、室内には誰もいない。しかしおそらく扉の外には警備がいるだろうし、そもそも手足に枷をつけられ椅子ごと縛り上げられた今の状態では自力で逃げ出すことは困難だった。
がちゃり、という音とともに鍵が外された。入ってきたのは侍女服を纏った若い女だ。ホセはそちらを一瞥すると、顔色を変えることなく呟いた。
「キリキ、キリクク」
すると足音も立てずに室内に入ってきた女もわずかに顔を上げ、無表情のまま淡々と応える。
「―――寝転んで治めよ」
そこでホセはようやっと、ふう、と息を吐いた。確かにこの状況下ではひとりで逃げることはまず不可能だ。ただし。
ただし、外部からの手助けがあれば話は別である。
ホセは声を潜めると扉付近に視線を向けた。
「……見張りはどうした」
「
さすが大陸屈指の組織力を誇る【
女が静かな声で訊ねた。
「―――どこまで話した?」
王宮にも組織の手の者が入り込んでいるとは聞いていた。噂では、かなり上層に食い込んでいるとも。おそらくこの侍女もその中のひとりなのだろう。
よく見れば整っているが、陰気そうで人間味のない顔立ちだった。ホセは苦虫を嚙み潰したような表情で首を振った。
「安心しろ、まだ何も喋っちゃいねえ。だが、俺を捕まえたのは当代のアルスターだろう?あいつらの尋問のやり口はよーく知ってるぜ。正直言って堪えられる自信はない。早く、助けてくれ」
アルスターは単なる従属爵位ではない。アデルバイドにおいてその称号は深淵の一端でもある。あの男はリュシュリュワを継がないのではなく、
ホセの必死の訴えにも、やはり女は淡々と言葉を返しただけだった。「わかった。力を抜け」
これで助かる―――安堵に気を緩めたその瞬間、ふいに口元を布で塞がれた。
「―――!?」
ふわりと鼻腔をくすぐる、甘い香り。
その正体に思い当たると一瞬にして血の気が引いた。死にたくない。首を振り、必死になって暴れるが、拘束された身ではガタガタと椅子を鳴らすことくらいしかできなかった。誰か気づいてくれ。誰か。途端、女の手の力が強くなった。思わず息を詰まらせていると、しーっと幼子を宥めるような音が耳元に落とされる。いやだ、とホセは思った。けれどゆっくりと視界から光が消えていく。手が震える。汗がとまらない。胸が苦しい。
息が、できない。
ふっと口元を覆っていた布が消えたが、もはや手遅れだった。ホセは陸に打ち上げられた魚のようにびくびくとその身を痙攣させていた。それでも気力を振り絞って相手の顔を睨みつける。
「お、まえ」
―――ホセが最期に目にしたのは、己を見下ろすひどく冷たい双眸だった。
◇◇◇
ホセを処分した女は部屋から出ると、何食わぬ顔をして廊下の端を進んでいった。この時間帯は警備も見回りもいない。そういう
「おい、そこで何をしている!?」
予想よりも早い衛兵の帰還に舌打ちが漏れそうになったが、騒ぎになるのも面倒だったので素直に立ち止まる。その代わり、懐に忍ばせていた短刀にそっと指を掛けた。
「ここは今、立ち入りを制限していて―――」
そのままゆっくりと振り返れば、相手が驚愕に目を見開き、はっと息を飲み込んだ。
「あなたは―――」
臙脂の制服は
「セシリア、王太子妃……!?」
「あら、バレちゃった?」
女―――セシリアは薔薇色の瞳を輝かせるとにっこりと微笑んだ。
「私用があって顔見知りに入れてもらったんだけど―――ずいぶんと物々しいのね。何かあったの?」
「凶悪犯を捕らえたばかりなんです。仲間が来るかもしれませんので、妃殿下は離宮に戻られてください」
厳しい態度にセシリアはしゅんと項垂れて見せた。
「そうだったの。久しぶりに城下に行こうかと思ったんだけど……それじゃあ仕方ないわね」
エンリケには内緒にしてね、といたずらっぽく片目を瞑った。王太子妃が気晴らしに侍女服に着替え城下に出るというのはもはや公然の秘密である。衛兵は納得したように頷いた。
「ええ、誰か護衛を―――」
遠くで誰かの叫び声が聞こえてきた。瞬く間に火をつけたような騒ぎになっていく。「おい、見張りはどうした!?」���それよりも早く医療班を呼べ!」「だめだ、もう死んでる!ちくしょう―――服毒だ!」
◇◇◇
「やっほー」
エルバイト宮に戻る途中で、木陰からひょろりとした若者が出てきた。セシリアは薔薇色の瞳で青年を一瞥すると、そのまま背を向けてさっさと歩いていく。
「え、え、無視!?セスってばー!」
そう言いながら追いかけてくる相手の肌は白かった。セシリアの贔屓にしていた商人は褐色の肌だし、顔を隠すように頭に深く布を巻いていた。同一人物だとわかる人間は少ないだろう。
そのまま警備の死角に入ると、くるりと体を反転させた。へらへらと笑みを浮かべる青年に凍りつくように冷ややかな視線を向ける。
「機嫌悪ぃね。あ、生理?」
「死ね三流商人」
「こっわ!なに、まだ堕胎薬のことで拗ねてんの?」
セシリアはその鮮やかな双眸に静かな怒りを湛えると口を開いた。
「―――味も匂いもほとんどないものだから心配はないと言ったのはどこのどいつ?」
「俺だねえ。でも普通は気づかないんだけどなー。それこそどこの野生児よ?」
「コンスタンス・グレイル」
「またあの子かー」
サルバドルは銅の双眸を皮肉気に歪めると、「邪魔だな」そう、小さく呟いた。
それから何でもないように明るい声を上げる。
「ま、いい機会だからさー王子さまの子種でも仕込んじゃえば?本当はガキ作れって上からもせっつかれてたんでしょ?今までよく無視できたねー」
「……腹が塞がってたら身動きが取りにくいじゃない」
あっけらかんと告げられた内容に不意打ちを食らって、思わず反応が遅れてしまった。わずかに間を置いての返答に、サルバドルはおどけるように肩を竦める。
「ま、いーけどね。俺もガキ利用すんの嫌いだから」
セシリアは答えず、話題を変えた。
「―――ジャッカルの楽園はどうなってる?」
「依頼主はもっと蔓延させたいみたいだけど難しいだろうね。薔薇十字通りはアビゲイル・オブライエンが目を光らせているし。―――ほんと大違いだな、十年前とは」
その通りだ、とセシリアは思った。
本当に、すべてにおいて、勝手が違う。すべての計画が狂ってしまったのだ。あの時から。
―――あの愚かなスカーレット・カスティエルが処刑されてしまった、十年前の、あの日から。
「あ、そうだ。殺す前にホセのおっさんから聞いた?いやあれ実はけっこう前に言われてたんだけどさー。セスに言おうと思ってたんだけど、ほら、俺、例の堕胎薬の一件で宮殿出禁になっちゃったじゃん?つーか出禁にしたのはセスだけど」
「侍女や護衛が控えてるっていうのに、ぽんぽん薬のことを喋られたんだからしょうがないじゃない」
「……ねえ、その子ほんとに貴族?どこかの猿じゃなくて?」
確かに貴族らしからぬ腹芸のできない娘だった。さほど脅威には思えなかったが、あのバカみたいに真っすぐな若草色の瞳だけが、なぜだか頭から離れないでいる。
「―――さあね。あと、あの能無しは喋る前に殺したわ」
「だろうね。アンタ、せっかちだから。んじゃ、改めて本部からの伝令だ」
サルバドルは常のようにへらりと笑うと、その双眸をわずかに細めて囁くように低く告げた。
「―――