6-3
※2話連続更新しています。6-2の方が最初になります。
頬が痛い。じくじくと熱を持っている。気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうで、ケイトは床に倒れ込んだまま唇を噛みしめていた。
ケイトを攫った男にはどうやら部下がいるようだった。小屋の周辺と、おそらくグレイル家を見張らせている。定期的に報告をしているようで、異常なし、というやり取りを何度か耳にした。
ここに連れて来られてから一昼夜は経っただろうか。時間の感覚が薄れるとともに、ゆっくりと体力が奪われていく。
ふいに、表で何か揉めるような騒ぎが聴こえてきた。なんだろう。ケイトはわずかに視線を動かした。男が警戒するように懐から銃を取り出す。
しばらくすると何もなかったかのような静けさが生まれ―――次の瞬間、ぎい、という音を立てて扉が開いた。
銃を構えた男が、引き金に指を掛ける。
緊迫した空気を物ともせずに入ってきたのは、褐色の肌にひょろりとした背格好の若い青年だった。
「ホセのおっさんさー、こんなとこで一体何やってんの?」
発せられたのは場違いに軽い口調。しかし男―――ホセと言うらしい――は明らかに動揺したように声を上擦らせた。
「サルバドル!?どうして、ここが……!」
青年は答えず、あっさりと室内に入ってくる。それから倒れたままのケイトに視線を寄越すと、はあ、と芝居がかった溜息をついた。
「あーあーこの子攫ってきちゃったの?ほっぺた腫れちゃってんじゃん。殴ったの?うわー引くわー。つーか、まーた勝手なことしてくれちゃって。あんたらの仕事は
「……薔薇十字はもう駄目だ。アビゲイル・オブライエンが動いた。あの女に目をつけられてまで
「いや別にあそこはオブライエンだけが牛耳ってるわけじゃないんだからね?色々とやりようがあるでしょーが。俺もそんな賢かないけどさー、あんたはもっと頭使えって」
呆れたような物言いに、ホセ、という名の男が激昂した様子を見せた。
「ギュンターがっ……!相棒が、殺されたんだぞ……!」
穏やかでない言葉だった。ホセは憤懣やるかたないと言う風に肩を怒らせている。室内に再び緊張が走った。
「―――んで?」
けれど青年は、そう首を傾げるとへらりと笑ってみせた。そこに挑発も驚愕も哀悼もない。心の底から「だからどうした?」と思っているのがわかる態度に、ケイトはぞっとして背筋を震わせた。
「あんただって知ってるだろう!?あいつのもう一つの仕事はリリィ・オーラミュンデの例の鍵について探ることだった!その件でコンスタンス・グレイルに近づこうとしたら殺されたんだ……!ギュンターの阿呆は何も情報を残さないまま逝っちまったが、あのガキが何か掴んでるに決まってる……!」
「……あー。それで、こんなことしでかしたってわけね」
「ギュンターはやられちまうし、
必死の形相で詰め寄る相手に、青年はひどく冷めた視線を向けた。
「ま、結果が出るなら好きなようにすりゃあいいけど。あんたの場合はやり方がなー」
咎めているようだが、やはりその口調は軽薄だった。
「外のもそうだけど、あんた適当な
心当たりがあるのか、ホセはぐっと言葉に詰まった。
「とりあえず忠告はしたからね。後はてめーでケツ拭いとけよー、おっさん」
最終的に青年はどうでも良さそうに肩を竦めた。それから、ふと思い出したようにもう一度ケイトを見下ろす。ぎくり、とケイトの身体が強張った。
「あんたも可哀想にねえ。とんだとばっちりだ」
さっと顔を逸らしたにも関わらず、青年はわざわざしゃがみ込んでケイトと視線を合わせてきた。光の加減で赤にも茶にも見える銅色の瞳が楽しそうに揺れている。
「―――コンスタンス・グレイルが恨めしい?」
「……いいえ」
聞き捨てならない言葉に、ケイトは弾かれたように顔を上げた。
「いいえ、ちっとも。あの子に出会ったことは私の人生で一番の幸運だし、あの子の友人であることは私の人生で最も誇るべきことよ。恨むなんて冗談じゃない」
そう言って睨みつければ、サルバドルと呼ばれた青年は一瞬目を見開いて、それから、可笑しそうに咽喉を鳴らした。
◇◇◇
よく晴れた日だった。
なだらかな丘陵の一面を覆うようにして薄紫色の花穂が揺れている。風に乗ってやってくるのは柔らかな甘みのある匂いだ。ベルナディアの湖畔と言えば、ラベンダーの群生地として有名だった。とりわけ今のような開花時期には幻想的な景観が広がるが、一般人の立ち入りは禁止されている。それは美しいラベンダーに紛れるようにしてマンクスフドという毒花が混ざっているからだ。花、茎、葉、根―――さらには���粉にまで毒があると言われており、過去幾人もの死者を出して規制に至った。そんな経緯もあり、今では訪れる人など滅多にいない。
要求通り、コニーはひとりでやってきた。いつもは口やかましいスカーレットも、この時ばかりは静かだった。
しばらく待っていると、どこからともなく武装した屈強な体つきの男たちが現れ、そのうちのひとりがコニーの首筋にナイフを押し当てた。込み上げてくる悲鳴を飲み込み、そのまま連れて来られたのは木々の立ち並ぶ先の小屋の前だ。武装した男が小屋の前で何事かを告げる。すると後ろ手を縄で縛られた少女が人相の悪い男に銃を突きつけられながら出てきた。
「ケイトっ!」
無事な姿に安堵したのも一瞬だった。右の頬が青黒く腫れている。殴られたのだろうか。その痛ましい姿にコニーの心臓が押しつぶされそうになった。
コニーが言葉を失っていると、ケイトが怒ったような声を上げた。
「なんで来たのよ!バカ!」
「なんで、って」
「ちょっとは自分を心配しなさいよ!コニーの代わりに助かったって、ぜんぜん、嬉しくないんだからね!」
「ケイト……」
もう、と友人はいつものように唇を尖らせた。
「相変わらず、詰めが甘いんだから―――」
きっと、恨まれていると思った。巻き込んでしまったのはコニーだ。お前のせいで、と詰られると思った。けれど、ケイト・ロレーヌは全く変わらないままだった。その事実に胸が熱くなり、鼻の奥がつんとする。泣くな泣くなと唇を噛みしめた。今はそれよりも大事なことがある。
コニーは男に向き直った。
「……約束は守った。ケイトを、解放して」
―――ケイトだけは、助けなければ。
その後のことは、今は考えないようにする。
「わかってるさ」
男が歯を剝き出しにして笑った。「連れて行け」と手下らしき相手に向かって顎をしゃくると、銃口でケイトの背中を押した。ケイトがよろめく。その腕を手下が掴んだ。
「―――コンスタンス・グレイル!」
その瞬間、ケイトが声を張り上げた。驚くコニーに視線を合わせると、ふっと目尻を緩めて、優しく、微笑む。
「あなたの道を、進むのよ」
栗色の瞳はひどく穏やかだった。
「え……?」
まるで別れの言葉のようだった。怪訝に思っていると、男が嫌な笑い声を立てた。「ちゃんと始末しておけよ」そう言うと、手下のひとりに拳銃を手渡す。コニーは目を見開いた。
「なに、を」
「もちろん、口止めさ。―――死人に口はないだろう?」
命令を受けた相手がケイトを引きずるようにして森の奥に連れて行く。その言葉の意味に気づくとコニーは叫んだ。
「どうしてっ、約束が……!約束が違う!」
「そりゃあ悪かったな、嬢ちゃん。だが―――」
男が可哀想なものを見るような目を向けてくる。
「騙される方が、悪いんだ」
コニーは目を見開いて息を飲み込む。それから、震える声で懇願した。
「いやだ、やめて……!ぜんぶ話すから!なんでもっ、なんでもするから……!」
ケイトの姿が見る見るうちに小さくなり、やがて視界から消えてなくなる。どくどくと心臓が早鐘を打った。襲い来る嫌な予感に小さく首を振りながら男に縋りつく。
「お願い、やめて、やめさせて……!ねえ、お願いだから……!」
「―――あっちの嬢ちゃんの方が冷静だったな。あれはたぶん覚悟してたぜ。殺されるとわかっていたのに恨み言ひとつ言わないとはなァ。たいしたもんだ」
「――――――っ」
記憶の中のマロンブラウンの瞳の女の子が、ふわりと笑った。
いやだ。こんなのは、いやだ。だめだ。間違っている。踵を返して走り出そうとしたコニーの肩を誰かが掴んだ。振りほどこうとすれば、強引に地面に押さえつけられる。それでも必死になって暴れれば何発か頬を張られた。一瞬頭がぼうっとしたが、唇を噛みしめ、拘束から抜け出そうと懸命に手足を動かして―――
ぱん、という乾いた音が雲ひとつない青空に響き渡った。
気がつけば、言葉にならない悲鳴を上げていた。体中の血液が沸騰しそうだった。叫んで、叫んで、けれど叫んでもどうしようもならないことに気がつくと、糸が切れたように全身から力が抜ける。
男が唇を捲り上げながら近づいてくる。もはや抗う気力もなかった。冷たいものが頬を伝って地面に落ちる。コニーは何も考えることができずにそのまま目を瞑った。
その時だった。
「―――動くな」
駆け寄ってくるいくつもの足音。次々に撃鉄を起こしていく物々しい金属音。
そして何よりあまりに聞き覚えのあるその声に、コニーは顔を上げ、ゆっくりと後ろを振り返った。
待っていたのは、空を切り取ったような、紺碧の、双眸。
「……うそ」
コニーは信じられない気持ちで呟いた。
短銃の銃口を男に向けたランドルフ・アルスターの背後では、軍服姿の男たちが隙のない身のこなしで控えている。彼らが構えているのは長い銃身を持つ小銃だ。
男が舌打ちをし、援護を求めるように森の奥に視線を向けた。それを見たランドルフがひどく事務的な口調で男に告げる。
「残念だが、全員拘束済みだ」
途端、男が耳を覆いたくなるような汚い悪態をついた。それから憎悪に満ちた眼差しでコニーを睨みつけてくる。
「お前―――騙したのか!」
その時、誰かの噴き出すような声がした。鈴を転がしたような、愛らしい声。
今の今まで沈黙を貫いていた
『あらごめんなさいね。でも―――』
誰もが吐息を零すような精巧な美貌を持つ少女は、ちっとも悪びれずにそう謝罪する。
空は高く澄み渡り、太陽は目も眩むような力強い日差しを万人に降り注いでいく。
『―――騙される方が、悪いのよ』
そう言うと、スカーレット・カスティエルは頭上に広がる夏空のように晴れやかに笑った。