5-11
いかにも気の弱そうな、優しそうな顔立ち。手入れのされていないぼさぼさの髪に、丸まった猫背。赤毛の同僚に振り回されていた、しょぼくれた印象の男。
それが、コニーがグラン・メリル=アンで出会ったメイフラワー社の記者―――オルダス・クレイトンだった。
「えっオルダスさん!?」
コニーが驚いて声を上げれば、スカーレットは、ええ、と頷いた。
『間違いなくてよ。わたくし、一度見た顔は忘れないもの。でも、案外男前だったのねえ』
そう言われて改めて
緊張感を孕んだ沈黙が落ちる。―――先に口を開いたのはオルダスだった。
「―――ああ、畜生。気づかなきゃ放っておいたっつーのに」
面倒なことになった、とわずかに歪むその顔に書いてある。はっ、とコニーは口元を押さえた。この迂闊な口にはおそらく蓋がついていないに違いない。もういっそのことこのまま縫いつけてしまおうか。だってつい最近もどこかの離宮で同じようなことが―――あった気がする。
冷たい双眸に、こちらを探るような色が滲んだ。相手は平然と人を殺せる輩である。コニーは床に尻をつけながら、一歩、また二歩と後退していった。そしてそのまま勢いあまって壁に頭を打ちつける。ごん、と良く響く音がした。不意打ちに、目から星が飛び出そうだ。もはや色んな意味で涙目である。
ちらりと相手を伺えば、オルダス・クレイトンは、まるでぐらぐらと煮立つ鍋の中で華麗なステップを披露する陸亀でも見つけたような奇妙な表情を浮かべていた。
「……どう見たって間抜けそうな面してんのになぁ」
片手で頭を掻きながら、空いたもう片方の手でぽっかりと口の空いた銃口を向けてくる。コニーは思わず天を仰いだ。
ええもちろん―――おっしゃる通りの大マヌケです。
拳銃を突きつけられてしまえば拒否権など存在しない。
馬車に乗せられ連れて来られたのは、王都随一の歓楽街と名高い薔薇十字通りだった。陽はとうに暮れているが、いくつかの店はぼんやりと柔らかな光をこぼし、往来には人が行き交っている。闇の中に色とりどりの
命じられるがまま、恐る恐る馬車から降りる。
目の前には金の飾り彫りが施された乳白色の門扉。その奥に聳え立つのは
間違いない。あれは噂に名高い高級娼館―――【
その事実に気づいた瞬間、コニーは愕然として膝から崩れ落ちた。
「う、売られる―――!?」
◇◇◇
光沢のある深紅の絨毯が敷かれた煌びやかな一室で、ひとりの女性が苦しそうに笑い転げていた。
「それで、正体がバレてびっくりして連れてきちゃったの?だって、たいして変装もしてないのに?それはまたよっぽどの自信が―――駄目だ、お、お腹が痛い。あなたってたまに可愛いことやらかすわよね、ルディ……!」
女性は呼吸を整えながら、目尻に溜まった涙を拭う。笑われたオルダスは仏頂面だった。ちなみにコニーは間抜けにもあんぐりと口を開けていた。
ゆるく編み込まれ、ひとつにまとめ上げられた太陽のような金髪。
夏空のように澄んだ青い目。
美人ではないが、魅力的な笑顔。
「鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてどうしたの、コニー」
そう言って首を傾げ、どこかお
◇◇◇
「あまり公にはしてないのだけれど」
金細工のテーブルに瑞々しい果物や一口で摘まめる焼き菓子が手際よく並べられていく。給仕をしてくれているふたりの女性は館の娼婦だろうか。おっとりとした雰囲気の垂れ目がちな美婦と、どことなく勝気な印象のすらりとした淑女だった。その整った外見はもちろん、仕草ひとつにも艶やかな色気が滲み出ている。
垂れ目の方の美女が、陶器の冠水瓶を抱えながら、コニーのグラスにとろりとした琥珀色の液体を注いでくれる。大きく開いた襟ぐりからは、たわわに実った胸がその存在感を存分に主張していた。白くて柔らかそうで、今にもこぼれ落ちてしまいそうである。
「この薔薇十字通り一帯はね、もともとオブライエンのものだったのよ。時代とともに権利が移り変わって今はこの一画だけだけれど」
アビゲイルが説明すると、飲み物を注ぎ終えた美女が口を挟んできた。
「アビーはこの館の女主人なの。ね、レベッカ?」
ふんわりと微笑みながら、近くで果物を取り分けていた切れ長の瞳の美人―――レベッカと言うらしい―――に同意を求めると、彼女は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「オーナーっていうのよ、ミリアムはバカね」
「ええー?」
垂れ目の美女―――ミリアムは、こてんと首を傾げる。それからコニーをじっと見つめると、「アビーはね、わたしたちの恩人なのよ」と言って誇らしげに微笑んだ。
「わたしとレベッカはね、数年前まで最下層の娼館で奴隷みたいな扱いを受けてたの。王都じゃないわよ。もっと北の田舎の方。座敷牢みたいな部屋で食事もまともに食べさせてもらえないから、いつもひもじい思いをしてたわ。でもね、それって別段違法じゃなかったのよね。一応、契約書があったから。だから逃げることも訴えることもできなかったの。まさしく飼い殺しってやつね。まあ、もっとも、あそこにいた娼婦でまともに文字が読める人間なんていなかったけど」
レベッカが素っ気ない口調で「私は読めたわよ」と訂正した。
「そのうち急に経営が悪化してね。いよいよ主人の男が夜逃げの算段を立て始めた頃合になって、突然、王都に娼館を持っているという女性が現れたの。彼女は娼婦を探していて、店を畳むならその場でわたしたち全員を買い取ると言ったわ。それがアビー。もちろん館主は大喜びでわたしたちを二束三文で売り払った。―――後から聞いたんだけど、あの店がうまくいかなくなったのはアビーが裏で手を回してくれていたからなんですって」
ミリアムはくすりと笑みをこぼした。
「ここで働く人間はね、皆そうやってアビーに助けられてきたの。もちろんたまに逆恨みする奴らが襲って来ることもあるけど、そういう時は、いつもオルダスさんが助けてくれて―――」
言いながら、ミリアムはオルダス・クレイトンにちらりと視線を流し、ぱっと頬を赤らめた。レベッカが「けっ」と吐き捨てる。
「それにね、オルダスさんが勤めているメイフラワー社だってアビーのものなのよ?」
メイフラワー社と言えば、歴史は浅いが新聞から大衆小説まで幅広く手掛ける国内有数の出版社である。驚いてアビゲイルを見ると、彼女はにっこり笑って否定した。
「正確には出資者の一人ね。―――といっても女性が表に出ることを嫌がる人もいるから、夫の名前を借りているけれど」
レベッカがほらごらんと言わんばかりにミリアムをせせら笑った。「やっぱりミリアムはバカね」
ミリアムは「ええー?」と言いながら、少々不満そうに首を傾げる。
そんな二人を横目に、アビゲイルがふと思い出したように、ぽん、と手を打った。それからすぐにコニーへと向き直る。
「ああ、そうだわ。うちの駄犬がごめんなさいね。勝手に連れて来られて怖かったでしょう?」
心底申し訳なさそうな声音に、オルダス・クレイトンの顔がぴくりと引き攣る。しかしアビゲイルはまるきり気にした様子もなく、そのまま言葉を続けた。
「実は最近ここいらで
途端、オルダスは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……足撃っても平気な面してんだぞ?あれはもう売人じゃなくて訓練された兵隊だ。言っとくけどな、俺があいつを撃ってなきゃお前の未来の妹とやらは今頃蜂の巣だったんだからな……!」
「もちろん感謝してるわ、ルディ。さすが私の犬ね。だからあんまり―――拗ねないのよ?」
ぐっとオルダスが言葉を呑みこんだ。
「でも、なるほどねえ」
アビゲイルは頬に手を添え、上品に首を傾ける。
「―――背後に何かありそうね」
話に全くついていけないコニーはこれまでの流れをゆっくりと振り返ってみた。
これはつまり―――この得体の知れないオルダス・クレイトン氏が、やはり得体の知れない売人の素性を確かめるために尾行していたら、そいつがたまたまコンスタンス・グレイルを襲おうとしていた、ということらしい。
まず最初に浮かんだのは純粋な疑問だった。
「……え、なんで?」
どうして薔薇十字通りの売人がコニーを襲うのだろう。しかも、そいつはリリィ・オーラミュンデの呪文を知っていた。ちょっと意味が分からない。
小首を捻っていると、ふいに廊下が慌ただしくなった。どうやら誰かがこの部屋に入るかどうかで押し問答しているらしい。
だめです、と追い縋る声を無視して扉が開く。そのまま無遠慮に入ってきた人物を見て、コニーは目を丸くした。あら、とアビゲイルの声が弾む。
―――黒い軍服に黒い髪。均整の取れた体躯。唯一、瞳だけが刷毛で瑠璃を溶いたように青かった。相変わらずの無表情だけれど、その顔にはどことなく疲労の色が見て取れる。
半日振りに会うランドルフ・アルスターは室内の好奇の視線に晒されると、あっさりと肩を竦め、悪びれもせずにこう告げた。
「―――失礼。うちのコンスタンス・グレイルがこちらにお邪魔していると伺ったので」