5-6
子爵令嬢Cの衝撃から、さらに数日がたったある日のことである。
その日、コンスタンス・グレイルはセシリア妃からの招待を受けてエルダバイド宮殿に赴く手筈となっていた。
―――爽やかなライムグリーンのドレスに召し替え、自室へと続く階段を昇り切ったところだった。
コニーは、そこで、何とも挙動不審な侍女長の姿を発見した。
マルタはコニーの部屋の扉の前に陣取ると、今まさにノックをしようかという姿勢で固まっている。その視線は手元にある白い封筒に落ちていた。しばらくすると意を決したように拳を握りしめ―――しかし、やはり迷いがあるのかそのままゆっくりと振り下ろす。そうしてまた封筒をじっと見つめてしまうのだった。
「……なにやってるの?」
放っておくと永遠と同じ動作を繰り返しそうだったので、恐る恐る声を掛けてみる。するとマルタはぎくりと肩を強張らせ、焦った表情でコニーの方を振り返ってきた。
「お嬢さま!い、いえ、これは……!」
「抗議表明?」
ひょい、とマルタが手にしていた封筒を取り上げてみれば、まるで警告文のように赤いインクでそう記載されている。その送り主は―――
「……ええと、市民団体すみれの……会……?」
読み上げながら次第に眉が寄っていく。まるで聞き覚えがない。訝しがるコニーに、マルタが諦めたようにため息をついた。それから言葉を濁しながら教えてくれた。すみれの会とは、平民が中心となって活動を行っている非営利団体のことだという。
「私が幼い頃からありましたし、一応、本人たちは人道主義を主張しているようなんですが……」
やっていることもよくわからないし、何となく得体が知れないので、渡していいものか躊躇していたのだという。
コニーは首を捻った。
「でも、なんでうちに抗議文が?またお父様が何かやったの?」
「いえ、ご当主様ではなく、今回は、その、コンスタンスお嬢さまに―――」
「私!?」
予想外の答えに、思わず情けない悲鳴が飛び出した。いや、正直、まったく心当たりがないのだが。まさか例の子爵令嬢Cがコンスタンス・グレイルのことだと噂になっているわけでもあるまいし―――
「……実は十年前に、公開処刑などというものは野蛮で非人道的な行為であると非難して廃止させたのがすみれの会なのです。もちろん発端となったのはあのスカーレット・カスティエルの斬首でした。ほらお嬢様、先日ゴシップ記事に載りましたでしょう?あれでちらっとスカーレット・カスティエルについても触れられていたので、もしかしたらその辺りで―――」
「バレてる―――!」
コニーは叫んだ。赤毛の記者に捏造されたイカサマ記事の内容がぶわりと脳裏に蘇った。
主に乱交とか乱交とか、あとは乱交とかである。
「ち、違うのマルタ……!あれはぜんぶ嘘っぱちでね……!」
必死の体で詰めよれば、今度はマルタが驚いたように目を見開いた。そして見る見るうちにその形相を幼い頃から見慣れた鬼のようなものに変えていく。
「当たり前じゃないですか……!ここ数日お元気がないと思ったら、そんなことを心配されていたんですか……!」
コニーは思わずぱちくりと目を瞬かせた。マルタは恰幅の良い体を怒りで膨らませながら、「例の三流出版社にはこのマルタがしっかりと怒りの投書を送っておきましたからね!」そう憤然と告げると、安心させるように思い切り胸を叩いた。
「う、うん……」
「それより、すみれの会は噂ではかなり過激な手段も取ると言われている団体です。万一、外で声を掛けられても知らない振りをなさってくださいませ」
真剣な顔で告げられて、コニーも神妙に頷いた。
「わかった。気をつけるわ」
からりとした初夏の日差しが往来に降り注ぎ、街路樹の葉の隙間を縫うようにして地面に影を落としていく。チリチリと
「わたくし、キンバリー・スミスと申しますわ」
コニーの目の前にいるのは、やや小太りの中年女性だった。デビュタントのご令嬢が好んで着るような飾り
彼女はキンキンと響く甲高い声でこう告げた。
「これでも市民団体すみれの会の婦人部代表を務めておりますのよ―――コンスタンス・グレイルさん?」
コニーは静かに頭を抱えた。
―――どうしてこうなった。
◇◇◇
それは、あと半刻ほどでセシリアの用意した迎えが王城から来るかという頃合だった。
仕度を終えたコンスタンスは、しかし、クローゼットの奥から引っ張り出してきた
けれどコニーが生まれたての小鹿のような足取りで正門付近までたどり着いた時、運悪く屋敷の様子を窺っていたひとりの女性と目が合ってしまったのである。
「こちらからのお手紙は読んだ?スカーレット・カスティエルに憧れているお嬢さんって、あなたのことよね?」
門の向こうからキンキンと喚かれては致し方なく、コニーはげんなりとしながら往来に出てキンバリー・スミスと対峙した。
「人違いです」
一応否定しておくが、もちろん聞き入れられることはなかった。
「いいかしら、スカーレットはね、数多くの非人道的な行いを先導してきたのよ。彼女が粛清されてやっと物事が正しい方面に進もうとしていたのに、あなたの幼稚な行為のせいで多くの人の苦労が水の泡なの。言っている意味がわかるかしら?」
―――うん、何だか。
コニーは心を遠くに飛ばした。
何だか、つい最近も同じような目にあった気がする。
アメリア・ホッブスといい、キンバリー・スミスといい、どうやらこの頃コニーに絡んでくる人間は、揃いも揃って難聴傾向にあるらしい。季節の変わり目だからだろうか。
「それに、幻覚剤を使うなんて―――」
キンバリーが汚らわしいものでも見るように目を細めた。
「まさか
―――ジャッカルの楽園?
「とぼけるつもり?」
さすがにコニーは眉を寄せてきっぱりと答えた。
「幻覚剤なんて見たことも使ったこともありません。信じて頂けないのは残念ですが」
「残念?あなたね、そもそも、どうして貴族の言い訳が平民に信じてもらえると思うの?あなた方なんて我々平民を人とも思わない差別主義者の集まりの癖に―――」
「―――なら、私の両親も差別主義者ですか?」
その声は、ふいに会話を割って入り込んできた。聞き慣れた声だ。はっとして振り返れば、ふわふわのマロンブラウンの髪に、同系色の瞳―――そこにいたのは、やはり、ケイト・ロレーヌだった。いつだって楽しそうに笑う料理上手な女の子は、しかし、今は感情の抜けた表情でキンバリー・スミスに向き合っている。
「私は男爵家の人間ですが、母はキッチン・メイドをしていました。それでも?」
まっすぐな視線に、キンバリーが困惑したように眉を寄せた。
「……あなた、ケイト・ロレーヌさんよね。もちろん、噂には聞いているわ。あなたのご両親は、そうね、違うわ。その―――そう、立派な方よ」
「なぜ?母が平民だから?父が平民を選んだから?その発想こそ差別だわ」
そう告げた声はひどく静かだった。思わずキンバリー・スミスが黙り込んだ。
ケイトは責めるでも嘆くでもなく、ただそこにあった事実を読み上げるように言葉を続けた。
「だって私はずっと、貴族の集まりでは平民の血を引く卑しい娘と蔑まれて、町に行けばお貴族さまの癖にと疎まれてきたんだもの。貴族であろうと平民であろうと、
とうとうキンバリーがたじろいだ。ケイトの声は大きくはないが、決して小さくもない。まだ陽は高く、往来には人通りがあった。そこでコンスタンスではなく、己に向けられる好奇の視線に気づいたのか、彼女は取り繕った笑みを浮かべた。
「お互いに、色々と誤解があるようですわね」
それからわずかに悔しそうな色を滲ませて、コニーを睨む。
「今日のところは、これで失礼致しますわ」
そう言ってそそくさと去っていく桃色の背中を眺めながら、ケイトがぽつりと呟いた。
「あんな三文記事を信じるなんてどうかしてる」
それからゆっくりとコニーに視線を寄越した。その顔には、まだ、いつもの笑顔はない。
「……アルスター伯爵と婚約したって本当?」
思わず息を飲み込んだ。その反応を見て、ケイトが傷ついたような表情になる。
「……本当なんだ。何も言ってくれないのね。最近はお屋敷にいることも少ないし。確かにコニーが話すのを待つって言ったし、その気持ちは今でも変わらないけど―――それでも、傷つかないわけじゃないのよ」
その言葉に、コニーは何も返すことができなかった。だって、何が言えるというのだ。何を言っても―――
根が生えたように立ち尽くしていると、ケイトが自嘲気味に微笑んだ。
「
「ケイト―――」
「もう、いい」
素っ気なくコニーの言葉を遮ると、くるりと背中を向けてしまう。
それからケイト・ロレーヌは、一言も発しないまま、今来た道を戻っていった。