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 王都がアマデウス通りの西端にある王立憲兵総局。その駄々広い施設の一角で、ランドルフ・アルスターは分厚い資料を捲っていた。黒紐で綴られ所々黄ばんでいるそれは数十年ほど前のものだ。表紙に記載されている文字は【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】。ランドルフが長年追いかけている案件でもある。

 資料に目を通していると、がらり、とスライド式の扉が開いた。顔を出したのは、ひどく不機嫌そうな美形の青年だ。アルスターの指揮する捜査班の副班であるカイル・ヒューズである。



「―――ガイナの野郎、糞使えねーんだけど」


 カイルは凍えるように低い声で吐き棄てると、どさどさどさっと山のような紙の束をランドルフの眼前に落とした。予期せぬ重量に大理石の天板が悲鳴を上げる。ランドルフはゆっくりと顔を上げた。


「なんなのあのオッサン……!頭に蛆でも沸いてんの……!?」


 血走った目の下に隈を拵え無精ひげを生やしたカイルは、普段の色男っぷりをどこかに忘れてきたらしく、悪鬼のような形相で怒りに任せて頭を掻きむしっている。

「こちとらメルヴィナの武器商人のケツ追っかけて丸三日は寝てねーんだぞ!?あの馬鹿ほいほい国境線越えようとしやがるから……!そもそもうちは国境警備隊と折り合いが悪いんだっつーの!もちろん背中向けた瞬間にケツに何発かぶち込んでやったけどな!でもそのせいでけっきょく昨日なんざ夜通し馬のケツ引っ叩いて戻ってくる羽目に―――ってちくしょうケツばっかじゃねーかよ!それでこっちは死ぬほど疲れてんのに戻って早々ガイナの糞ハゲが偉そうにふんぞり返って手柄自慢して来やがるし……!仕方ねーから話聞いてやったらどうにもその奴隷のガキ共がソルディタの少数民族っぽいし……!別件で追ってる奴か確認したくて七面倒な手続き踏んで面会しようとしたらそいつ牢獄で服毒死してるしもう……!もう…………!」

「服毒死?」

 ランドルフが思わず訊き返すと、カイルが乱暴に自席の椅子を引いた。完全に目が据わっている。

「おうよ。南方系の組織の人間は捕まるとすぐ自害しやがるから四肢拘束に轡が基本だっつーのにそこらの窃盗犯と同じ扱いしやがってあの無能……!あんまり頭に来たからバルト大佐に告げぐ……報告して捜査権その場で奪い取ってやったわざまあみやがれあの糞ハゲェェェ!―――ってなわけでこれ、うちのヤマになったから」

 そう言って山積みになった捜査資料を指さすと、周囲で作業をしていた部下たちが「ちょ、何考えてんのあの顔だけ悪魔……!」「無理……!これ以上の案件は物理的に無理……!」と滂沱の如く涙を流し始めたが、ランドルフはあっさりと受け入れると資料に手を伸ばした。

「毒の種類は?」

「錬金班に調べさせてる。モリ―は遺体の状況からおそらく神経毒の一種じゃないかって」

「……こちらの身体検査をすり抜けたということはかなり微量だったはずだ。それでも致死量となる神経毒か」

 粗悪品ならともかく、そこまで純度の高いものはまず市場には出回っていないだろう。

「―――()()()()()()は?」

「もちろん、ケツの穴まで確認したけどなかったぜ。正直目が腐り落ちそうだから今すぐ薔薇十字通りの【豊穣の館(フォールクヴァング)】に駆け込んでミリアムちゃんのおっぱいに癒されて来たいんだけど経費で落ちる?あ、うん、ごめん冗談。冗談だからそのきょとんとした顔するのやめてつらい」

 よくわからないがカイルがさめざめと顔を両手で覆ってしまったので、ランドルフは神妙に頷いておいた。

「となると、【暁の鶏(ダェグ・ガルス)】とは関係ないか、それとも事情も知らないただの捨て駒だったのか。……まあ、後者だろうな」

 神経毒は()()が好む手口だ。

「―――夜会では、ジャッカルの楽園が使用された形跡はなかったんだな?」

「少なくとも資料を読む限りではな。そう言った催しもなかったようだし、常用している奴もいなかったって話だ。……でもガイナ班だからなあ。どーにも信用が」

 カイルはぽりぽりと頭を掻いた。ゲオルグ・ガイナは侯爵家の嫡男だ。階級は大尉ではあるものの、絵に描いたような貴族のお坊ちゃんだったため、出張所で取り扱うような軽犯罪しかこれまで担当したことがない。

「デボラ・ダルキアンはどうした?」

「あのババアがこの程度で口を割るかよ」

 はっとカイルは口元を歪めた。―――デボラ。デボラ・ダルキアン公爵夫人。様々な組織犯罪でその名が浮上するものの決して尻尾を掴ませない食わせ者でもある。

「そもそも今回ガイナに情報を流したのがデボラなんだと。しかも名指しで。異国の舞いを提供してくれる手筈になっている楽団がどうも怪しい―――ってな。ガイナの野郎、デボラに捜査協力感謝するって礼まで言ったらしいぞ。あのデボラに!感謝!俺もうあんなお花畑と同僚とか恥ずかしくて死にそうってか今度会ったら問答無用であの禿散らかした側頭部に回転拳銃リボルバーぶち込みそう。だいたい旦那じゃなくて王立憲兵こっちに話を持ってくる時点でおかしいだろ」

 デボラの夫であるサイモン・ダルキアンは陸軍局出身の財務監督官だ。次期財務総監との呼び声も高い。その伝手を使えば事を荒立てず秘密裏に処理することも可能だったはずだ。

「しかし、彼女はわざわざ()()()()()()という形を取った。噂になるのは確実だ。デボラの評判にも傷がつく。それでも構わない、となると―――」

 ランドルフはわずかに目を眇めた。

「―――わざと、騒ぎを起こしたかったのか」

 その目的は何だったのか。旧モンテローザ邸での一件に関しては洗い直しが必要だろう。ランドルフはゆっくりと考えを巡らせた。

 幾分か激情が落ち着いたらしいカイルが、そういえば、と思い出しように口を開く。

「またあの子がいたんだってよ」

「誰だ?」

()()()()()()()()()()。グラン・メリル=アンと言い、この前のテレサ・ジェニングスの件と言い、ほんっとよく出てくるねえ、この子。どうする?まだ微妙な線だけど、そろそろ任意で事情でも聴きに行く?」

「必要ない」

 ランドルフは資料をざっと検分しながらきっぱりと否定した。「……うん?」という間の抜けた声が聞こえたが、顔を上げることなく端的に答える。

「事情なら把握している」

 すると何か驚いたような気配があり―――

「……え、聴取したの?お前が?犯罪者にも疑わしき者にも容赦ないけど、要観察対象にはあくまで紳士的対応をとるお前が?」

 カイルはよほど混乱しているのか椅子から身を乗り出している。

「ああ、確かお前がメルヴィナとの国境地帯に行くのと入れ違いだったと思うが―――」

 あの時は泳がしておいた死の商人が急に姿を眩ませたため個人的な話をするどころではなかった。

「婚約したんだ」

 奇妙な沈黙が落ちた。

「は?」

 カイル・ヒューズは軽薄で短気だが馬鹿ではない。今の会話の流れから答えを導き出すのはおそらく容易だったはずだ。


「………………誰と!?」


 ―――だから、その悲鳴のような問いかけは、おそらく()()()()()()という気持ちの方が強かったせいだろう。


 ランドルフはそこでようやっと顔を上げると、まるで何でもないことのように事実を述べた。



「もちろん、コンスタンス・グレイルだ」





◇◇◇




 今日も今日とてコンスタンス・グレイルは人気者だった。マルタが両腕に抱えて持ってきた山のような封筒の束をぱらぱらと眺めていたコニーは、その中にくっきりとした黒枠を見つけて目を瞬かせた。印章は見慣れぬものだが、その封蝋も黒い。となれば、間違いなく訃報を告げるものだろう。

 中に入っていたのは、黒枠で縁取られた便箋だった。そこにはやはり、星のない夜空よりも黒いインクで簡潔にこう記されていた。



【査問のため貴嬢をグラン・メリル=アンの星の間に召喚する】



「……なにこれ。召喚、状?」

 威圧的な文言に声が掠れる。正直心当たりなど()()()()()わからない。


『―――ダルキアンの、紋章』 

 スカーレットが忌々し気に呟いた。―――ダルキアン?

 コニーの表情がよほど強張っていたのか、スカーレットが呆れたようにため息を吐く。

『よく見てごらんなさい。司法省の署名捺印もないでしょう。こんなものに法的な効力などないわ。ただのお遊びよ』

 きっぱりと言い切られて安堵する。

『だいたいその封蝋はダルキアンの―――ああ、お前は知らないのね。デボラの紋章よ。いやだわ、年増って本当に暇を持て余しているのね』

 デボラ。一瞬首を傾げたが、すぐに思い出した。【ジョン・ドゥ伯爵の夜会】の主催者だった、あの黒蝶の女性のことか。

『ほら、よく嫡男を産み終わった女主人が文化人を招いてサロンを開催したりするでしょう?あれだって言ってしまえばただの暇つぶしよ。真っ当な人間はそうやって気を紛らわせるんだけど―――』

 そこでスカーレットは不快そうに目を細めた。

『真っ当でない外道どもはね、()()をするのよ』

「狩り……?」

『もちろん、猟銃を担いで獣を撃つ狩りではないわよ。もっと醜悪な―――生贄を調達して、手足を捥ぎ取って気が済むまで甚振る品のない遊びよ。デボラ・ダルキアンの狩りは査問会という名目を取ることで有名だったわ。でも実際に行われるのはただの見せしめよ。……厭きもせずにまだこんなことやっていたのね、くだらないこと』

 軽蔑したような口調だった。

『それで何人も潰されたわ。でも、その会で何が起こったのか誰も知らない。誰も、何も、話さない。どうやらその場で起きたことは決して口外しないと宣誓させられるみたいね。ふざけた趣向だけど、だから、陰でこう呼ばれていたわ』


 紫水晶アメジストの瞳が死を連想させる黒枠の便箋を睨みつける。



『―――口なき貴婦人たちの茶会、と』




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