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※流血描写があります。


 憲兵という単語を聞くなり、ハームズワース子爵はその樽のような体のどこに隠していたのかと思うほどの素早さで姿を消した。

 ぽかんとコニーは呆気に取られる。―――摘発?

 確かに仮面舞踏会は健全ではないが、それ自体は別に違法行為ではないはずだ。

『変だと思ったのよ』

 スカーレットが険しい表情のまま口を開いた。

『いくら異国をモチーフにした趣向とはいえ、あの子供たちは明らかに浮いていたもの。あれはきっと奴隷にするための商品ね』

 奴隷。大ファリス帝国時代では当然の如く瀰漫していたその制度はアデルバイド建国とともに廃止されたはずだ。

『さっき成金豚が言っていたでしょう。木の葉がどうのって。デボラがどこまで関わっているかわからないけれど、この宴はおそらく人身売買の隠れ蓑にされたんだわ』

 ―――愛らしい顔をした年端もゆかぬ子ら。ねぶるような視線を向けていた仮面の客たち。あれは、一種の競売だったのだろうか。

『さ、おしゃべりはおしまい。わたくしたちも早く逃げないと。幸いなことに、モントローズ邸には何度か来たことがあるわ。確か隠し通路があったはずよ』

 広間は騒然としていた。勘のいい者たちはすでに姿を消したようだ。憲兵隊はおそらく玄関付近で主催者側と一悶着あったのだろう。少しの猶予を経てから物騒な物音が段々と近づいてくる。―――その段階になってようやっと残りの者たちが事態を察し、血相を変えて逃げ出し始めた。コンスタンスもスカーレットの指示に従い足を速める。


 その時、視界の端でぐらりと揺れる何かが見えた。


 ぎくりと身体が強張り、足が凍りついたように動かなくなる。女性だ。まだ若い。コニーとさほど年の変わらぬ、女性。その女性が、噴水のように血を噴き零しながら、ゆっくりと床に倒れ込んでいく。コニーは目を見開いた。

 倒れた傍から血が絨毯に染み込んでいくのが見てとれる。なのに、誰ひとり彼女に近づこうとしない。まるで邪魔だと言わんばかりに避けていく。心臓が早鐘を打つ。誰も助けない。助けて、くれない。

 その光景を目にした瞬間、コニーは弾かれたように踵を返していた。

『コンスタンス!?』

 逃げ惑う人々の流れに逆らうようにして駆け抜けていく。

『ちょっと、お前、何やってるのよ!』

 スカーレットが何かを叫んだが、もはやコニーには聴こえなかった。それくらい必死だった。勢い込んで女性の元に膝をつくと、抱き起こす。その瞳孔は大きく見開かれ、焦点が合っていなかった。右腕から血が流れている。ぱっくり開いた真一文字のそれは、切り傷だろうか。どくどくと流れる血の勢いの割にはそこまでひどい深さには見えない。けれど、傷口はどす黒く変色していた。何故かそれがよくないものに思えて、テーブルの上にあった水差しをひっくり返してこびりついた血ごと洗い流す。それから喪服の裾を引き裂くと、彼女の腕のつけ根あたりを力いっぱいに縛り上げた。薔薇色のドレスは、よく見れば先ほどスカーレットが、ジェーン、と呼んだ女性のものだった。その胸元には太陽の入れ墨があり―――

『―――だから、わたくしの言うことが聞けないの!?コンスタンスの癖に生意気よ!』

 焦ったような叱責とともにコニーの耳に喧噪が戻ってきた。

『憲兵が来ると言っているでしょう!早く逃げなさい!そんな女、捨て置けばいいのよ!知り合いなの!?違うでしょう!?だったらお前にはこれっぽっちも関係ないじゃないの!』

「―――スカーレット」

『なによ!』

 女性の意識はまだ戻らない。けれど死んではいない。鼓動がある。助けられる。

 コニーはぐっと唇を噛みしめて顔を上げた。

「ごめん、見捨てられない……!」

 誠実もグレイルも関係ない。これは、ただのコンスタンスの我が侭だった。

 スカーレットが息を呑んで押し黙る。それから、くしゃりと、顔をゆがめた。


『ばかコニーっ……!』


 スカーレットは、まるで、今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべていた。


『どうなっても知らないから……!捕まったらそれで終りなんだから……!たとえお前が何もしてなくたって、捕まったら、あっという間に処刑されちゃうんだからっ……!』

 ―――その声に、表情に、コニーには痛いほどスカーレットの気持ちがわかってしまった。胸が詰まり、思わず泣きそうになる。けれど、それでもコニーにはこの女性を見捨てることなんてできなかった。だから涙を堪えて声を張り上げる。

「ごめんね、スカーレット、ごめんね……!」

『謝るくらいならさっさと逃げなさいよ!この分からず屋の頑固者……!』

 紺地の軍服を纏った憲兵たちが流れ込んで来る。逃げ遅れた客たちは抵抗も空しく仮面を剥がされ、次々と捕らえられていった。香炉は踏み砕かれ粉々になり、天幕は破かれ、悲鳴と怒号が飛び交っていく。

「貴様、何をやっている!?」

 いつの間にか背後に立っていた憲兵の一人がぐっとコニーの腕を掴みあげた。その容赦のない痛みに思わず悲鳴が口を衝いて出る。しかし男は構うことなく、コニーを無理矢理に立ち上がらせようとさらに力を込めていった。

「――――っ」

 みしみしと骨が音を立てる。息をつめたその刹那、ばちっと静電気のようなものが走って痛みが消えた。男が手を離したのだ。支えを失ったコニーはどすんとその場に尻もちをついた。

「なんだ……?」

 男は、自分の手とコニーを交互に見ながら眉を顰めている。

『……なにをやっているか、ですって?』

 その時、ゆらり、とコニーと憲兵の間に立ったのは、圧倒的な存在感をもつ声の主だった。


『―――それはこちらの台詞よ、この下郎が』


 ひどく美しい紫水晶アメジストの瞳が爛々と輝いている。ぞくりと皮膚が粟立った。広間の温度が急激に下がっていく。言いようもない怖気の走る感覚が、確かにあった。

「一体何なんだ、この娘―――」

 男が警戒するように腰に掃いたサーベルを抜いた。鈍く光る切っ先を向けられ息を呑む。ぎゅっと目を閉じたその瞬間、突然現れた低い声がその場を支配した。


「―――丸腰の令嬢相手に抜刀とは穏やかでないな。それとも、それが君らの班の流儀か?」


 心臓を鷲掴みにするような威圧感。耳朶を打つ、忘れもしない重低音。コニーは思わず閉じていた目を開けた。たぶん、これは―――

「アルスター少佐!?」

 憲兵が驚いたように敬礼を取る。

「なぜ、少佐がここに……」

「たまたま別件で近くにいたからな。別にガイナ班の手柄を横取りしようなどとは思っていないから安心してくれ。ただ私が君の上司であれば―――こんな立ち話よりも怪我人の治療を優先させるが」

 そう言ってランドルフが意識のない女性に視線を流せば、男は慌てた様子ですぐさま女性を抱え上げた。そしてどこか納得していないような表情をコニーに向けて―――しかし何も言わずに立ち去っていく。


 ランドルフ・アルスターはへたり込んだままのコニーを視界に収めると片眉を器用につり上げた。



「また君か、コンスタンス・グレイル」




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