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カスティエル家から持ち出した仮面は大き過ぎず小さ過ぎず、コニーの顔にぴたりと嵌まった。
もともと
旧モントローズ邸は王都郊外に位置する広大な敷地面積を持つ豪邸である。モントローズそのものは百年ほど前に謀反の疑いをかけられお取り潰しになった伯爵家で、これまでに何度も屋敷の解体が試みられたが、その度に関係者が不審死を遂げるため今では誰も近寄らなくなってしまった―――という逸話を持つ曰くつきの館である。
「招待状は?」
道化の笑みを貼りつけた顔全体を覆う仮面。すっぽりと体を包む漆黒の外套に身を包んだ男が事務的な口調とともに白い手袋をはめた手を差し出してくる。それをちらりと一瞥すると、コンスタンスは顔色を変えることなく男の問いに答えを返した。
「―――ジョン・ドゥ伯爵の帽子の中に」
一拍の沈黙の後、案内役の男は大袈裟な仕草で胸元に手を当てる。それから舞台役者のように優雅な一礼をした。
「ようこそ、招かれざる客人よ」
ぎぃ、と錆びた音を立てて門が開かれる。コニーは背筋を伸ばすと、魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿へと足を一歩踏み出した。
異国の香辛料を思わせる香炉が焚かれ、広間内にはいくつかの天幕が設置されていた。とはいえその覆いは透けるほどに薄い絹で、中からは時折嬌声が上がっている。睦み合う男女の姿が
広間の片隅では聞き慣れない神秘的な音楽に合わせて、見目麗しい異国の子どもたちがくるくると踊っている。その様子を、仮面を被った年齢どころか性別すら不詳の者たちが食い入るように見つめていた。スカーレットが鼻を鳴らす。『―――結構なご趣味だこと』
どういう意味かと振り返れば、肩を竦めてさっさと主催者に挨拶に行きましょうとせっつかれる。
『あら、今回はデボラの持ち回りだったのね。当たりだわ』
スカーレットが面白そうに言う。どうやら知己のようだ。
妖艶な女主人―――デボラは、ふと気づいたようにこちらに顔を向けると、ゆったりと微笑んだ。
「あなた、お名前は?」
その言葉に、スカーレットが口の端を緩やかに吊り上げた。コニーのよく知る、ひどく傲慢で魅力的な微笑みだ。
いつの間にか周囲には人だかりができていた。仮面越しにへばりつくような好奇の視線がコニーに向けられている。普段であればそれだけで委縮していただろう。けれど、コニーの心は不思議なほどに凪いでいた。
なかなか返事をしない相手に、デボラの灰色の瞳が冷たく細められる。コニーはその視線を受けとめたまま、逸らすことなく口を開いた。
「―――エリス、とお呼びくださいませ」
視界の端ではスカーレットが頬に手を当て楽しそうな表情を浮かべている。これは、彼女の使っていたもう一つの名前。そしてリリィ・オーラミュンデの遺した言葉の片割れ。
ざわめきが、ぴたりとやんだ。静寂が辺りを支配する。
「まあ、懐かしいわね」
沈黙を破ったのはやはりデボラだった。
「十年前にも、そういう名前の方がいらしたのよ」
いつの間にか広げた黒檀の扇子でその口元を隠しながら、楽しい思い出でも語るように弾んだ声で言葉を紡ぐ。
「でもその方、うっかり者でね。あっという間に首と胴体がわかれてしまったようだけど―――」
ぱしん、という音とともに扇子が閉じた。
「あなたのその首は、きちんとつながっていらっしゃるのかしら?」
舞うように優雅な仕草で、その先端がすっとコニーに向けられる。指し示すのは、黒い生地できっちりと覆われた首元だ。誰かがひっと悲鳴を上げる。詰襟のドレス。今宵の夜会ではそれが相応しいと言ったのは―――
そういう、ことか。
張り詰めた空気の中で、スカーレットが満足そうに笑い声をあげた。
◇◇◇
ひそひそと囁き合う声がする。もちろん話題はコニーについてだろう。
とはいえ今のところ正面だって近づいてくる者はいない。手持無沙汰になったコニーは壁際に用意された軽食を摘まみに移動した。その隅には古めかしいベルが備え付けられている。よく見ればここだけでなく、広間の四隅にそれぞれ設置されているようだった。首を傾げていると、スカーレットの呆れたようなため息が聞こえてきた。
『こんな時間によく食べられるわね』
言い訳をさせてもらえば、緊張のあまり夕食がろくに咽喉を通らなかったのである。小串に刺さった一口大の魚や肉を吟味していると、ふわりと甘ったるい香りがした。視線を彷徨わせれば、女性が極彩色のカクテルを飲んでいる。背中の大きく開いた薔薇色のドレスを纏った、コニーよりもいくつか年上だと思われる年若い婦人だ。スカーレットが呟いた。
『あら懐かしい。ジェーンだわ』
ジェーン?仮面を被っているので顔立ちはわからないが、すっと通った鼻筋とぷっくりとした艶やかな唇がひどく蠱惑的だった。
そして、ここでコニーはひとつ重大な問題に気がついた。今は皆、仮面を被っているためその正体はわからない。だから怪しい人物は見た目で覚えておくしかないだろう。けれどいざ仮面を外した相手にここ以外で出会ったとしても、それはそれで誰だかわからない、気がする。
「エリス嬢、とおっしゃいましたか」
ふいに声を掛けられぎくりと肩を強張らせる。気合を入れて振り返ったコニーは、相手の姿を見てかくんと力を落とした。
なぜなら、そのでっぷりと肥えた巨体はどこをどう見ても―――あのハームズワース子爵だったからだ。
「全く、ふたつとない美しい仮面ですな。けれど、偽りから解き放たれた素顔のあなたはもっと美しいのでしょう。それを思うとこの出会いは僥倖であり、また口惜しくもあります」
「は、はあ……」
「しかし、これもまた一興。かく言う私とて今宵は真実の姿を隠し、つかの間の自由を楽しんでおるのですから」
いや隠れてない。子爵に関しては全然隠れていない。むしろ子爵でしかない。コニーの生温かい目線に気づくと、もはやその正体を疑いようもない相手は、ああ、と鷹揚に頷いた。
「名乗らずに失礼を。どうぞ私のことは月隠れの―――ハム、とでもお呼びください」
どうしてそうなった。
心の声がうっかり口を衝いて出そうになり慌てて口元を抑えたが、子爵は特に気にした様子はないようだった。
「―――ここまで盛大な宴は最近では珍しい」
ハームズワースはゆっくりと広間を見渡した。
「木の葉を隠すなら森に、とは昔からの格言ですが、今宵はまたいったいどんな腐木の葉を持ち込んだのやら」
談笑する仮面の人々。揺れる天幕。愛らしい異国の子どもたち―――
「
そう言って子爵がコニーを見る―――が、視線は合わなかった。彼の目線はどうしてかスカーレットのいる辺りに向いている。一瞬見えているのかとひやりとしたが、ただの偶然のようだった。その証拠に、子爵はそのまま何もなかったようにこちらに向き直る。
コニーが何か答えようとしたその時、広間の四隅に備え付けられていたベルが一斉にけたたましい声を上げた。
客たちが動きを止め、戸惑ったように顔を見合わせている。コニーも思わずスカーレットを見た。
「何の、音……?」
『これは―――』
スカーレットの顔が険しいものになっていく。入口付近で物騒な物音がする。甲高い悲鳴も。一体、これは―――
「―――憲兵だ!」
誰かが叫んだ。
「逃げろ!王立憲兵の摘発だ!」