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 その日、閑古鳥が鳴くリットンの店にひとりの少女が飛び込んできた。

「お願い、助けて!」


 ―――リットンは衣類の洗濯と配送を副業として請け負う中堅の仕立て屋だ。もちろん顧客は様々だが、一番の受注品と言えば、なんと言ってもあのカスティエル家―――の下級女中―――の中でもさらに下っ端の、名入りの制服を持てない者たちのための共用お仕着せだった。

 カスティエル家ともなれば侍女服は全て家紋の入った支給品であり、リットンの仕事はその仕立てと、住み込みで働く女中たちのために週に一度カスティエル家の離れの寮まで赴いて使用済みのお仕着せと洗濯したものを交換するというものだった。



「朝起きたら服がなかったの!きっとマチルダがやったのよ!」

 話を聞くと、どうやら少女はカスティエル家の住み込み女中のようだった。

「配属は?」

 引き出しから取り出した名簿を捲りながらリットンは訊ねた。カスティエル家に関わらず、こうやって女中が予備の侍女服を求めにリットンの店まで足を運ぶことは珍しくない。―――特に、若い娘の多い住み込み寮では。お茶を掛けられたり切り裂かれたりとその理由は様々で、ある種の通過儀礼のようなものだと思って同情している。それでも形ばかりに配属と名前は確認するようにしていたが。

「洗濯女中よ」

 けれど返ってきた意外な答えに名簿を持つ手がとまった。洗濯女中は長続きしない。若い娘は三日続けばいい方だ。古参以外はすぐに入れ替わるので書き換えが面倒になり、もうずいぶん前から記載していなかった。

 まあ、いいか。

 リットンは頭を掻きながら棚から紺地の制服を選び出すと手渡した。少女が顔を綻ばせて礼を言う。


 榛の髪に若草色の瞳の、どこにでもいるような平凡な顔の娘だった。


◇◇◇


 ヴァネッサは絞り機に掛け終った皺くちゃのリネンを熱した鉄製のアイロンで伸ばしていた。アイロンは熱いし重たいし、ちょっとでも気を抜くとすぐに焦げる。なので腰を屈めたままずっと気を張っていないといけない。そうして酷使された腰はぼろぼろで、近頃は立ち上がるのにも響いて痛む。それでもヴァネッサの娘時代には、皆、懸命に技術を磨こうとしたものだ。―――最近の若い娘は三日どころか三刻程度で音を上げるが。


 カラコロリンとベルが鳴り、仕上がったリネンを取りに来たのは見覚えのない娘だった。よくあることだ。洗濯女中は続かない。わかっていたが、ヴァネッサは苛立ちを抑えきれずに声を張り上げた。

「キャシーはどうしたんだい!」

 がっこんがっこんと絞り機が姦しく音を出す。大声を出さないと会話もできない。洗濯女中が続かない理由の二つ目だ。

「頭が痛いそうです!」

「はっ、頭が悪いの間違いだろう!」

 最近の若い子はすぐに仮病を使いたがる。ぶつくさ言いながら籠に入った折り目正しいリネンの山を手渡した。思ったよりも重量があったのだろう、娘が籠を抱えたままふらふらと一、二歩下がる。

「ちょっと!落としでもしたら承知しないよ!」

 ヴァネッサはたまらず怒鳴りつけた。そんなことになったらまた一からやり直しだ。

「はいっ!」

 小柄な体から威勢のいい声が出る。返事だけはなかなかに立派だった。しかし、そういう娘もよくいるものだ。

「いいかい、洗濯女中の心得その一!埃は立てずに誇りを持つべし!」

「イエッサー!」

 やはり返事だけは立派だった。ならば問題は三日―――いや三刻持つかどうかだ。ヴァネッサは改めて少女を見た。


 榛の髪に若草色の瞳。見れば見るほど、どこにでもいるような平凡な顔の娘だった。


◇◇◇


 コンスタンス・グレイルは籠を抱えたまま二階の渡り廊下をひたすらに突き進んでいた。恐ろしいことに長すぎて先が見えない。どうなっているんだ、この屋敷―――いやもう城でいい。

 しばらく進むと光が漏れ、階下からはしゃぐような声が聞こえてきた。吹き抜けになっているそこは円筒形の広間で、視線を落とせば年配の紳士が顔を真っ赤にしながら年若い女性たちと戯れている。


『あらやだ。鼻つまみのジャレッドだわ』

 スカーレットがまるで虫けらでも見るような表情で告げた。コニーが首を傾げると、その美しいかんばせに慈愛に満ちた微笑を貼りつける。

『放蕩ものの叔父よ。私が生きていた頃もたまに来ていたけれど、まだご健在だったのね。―――さっさと腐り落ちてしまえばいいのに』

 なにが、とは恐くて訊けなかった。スカーレットは何事もなかったようにすました顔でコニーに指示を出していく。


『そこの角を左に曲がって』

『次は右』

『階段を上がって』

『まっすぐよ、まっすぐ』


 そうしてたどり着いたのは歩廊型の美術展示室ロング・ギャラリーだ。白い漆喰の天井には聖画が描かれ、側壁には見事な装飾の鏡面や絵画が所狭しと飾られている。台座には宝飾品や装身具、はたまた偉人を象った彫刻もあった。

『一番奥に張り出し窓があるでしょう。その手前の板金鎧プレートアーマーの像まで行って』

 確かにうすぼんやりと甲冑が見えた。そこを目指せばいいのか、と籠を抱え直して気合を入れ直す―――その時だった。


「―――お前、何をしている?」


 威圧的な声に弾かれるように振り向けば、部屋の入口に人影があった。

 淡い金の髪に、赤みがかった紫の瞳。冷徹な美貌の男性。

『……おにいさま』

 スカーレットが呆然と呟いた。

 お兄様―――ということは彼が次期当主のマクシミリアン・カスティエル、なのだろうか。噂には聞いている。妹とは似ても似つかぬ品行方正な方なのだと。確か奥方はファリスの大貴族だったはずだ。

 マクシミリアンはまるで不審者を見るような表情を浮かべていた。スカーレットがすぐさまコニーの方に向き直る。『―――ジャレッドに呼ばれたと言いなさい』

「……ジャレッド様に、呼ばれまして」

「なに?」

 マクシミリアンがすっと目を細めた。

「ここに、来るように、と」

「―――あの、豚が。また悪い虫でもでたか。次に屋敷の者に手を出したら去勢すると言っておいたはずだがな。……それにしてもだいぶ……趣味が……変わったようだな……」

 カスティエル家の人間は、何か凡人の心を抉る術でも心得ているのだろうか。悪意のないしみじみとした口調にそこはかとなく傷つきながら、コニーは頭を下げた。

「そ、そういうことなのでお目こぼしを―――」

「は?馬鹿か、お前は。いいからさっさと持ち場に戻りなさい。私が話をつけてくる」

 そう端的に命じるとコニーの答えを聞くこともなくそのまま踵を返してしまう。小さくなっていく背中を見送りながらコニーはほっと胸を撫でおろした。



 時代を切り取ったような美術品の海の間を歩いていると、スカーレットが呟いた。

『―――似てないでしょう?』

 うん?と思って視線を向ける。

『正直におっしゃい。髪の色?顔立ち?ああ、それとも性格かしら?』

 その言葉でやっと合点がいった。マクシミリアンのことか。同時に口がつるっと滑る。

「え、おふたり似てません?」

『は?』

「え?」

 スカーレットが目を見開いて驚いた。その反応にコニーの方が驚いてしまう。

『……どこが?』

「その……人に命令するときの人を人とも思わない態度というか」

 あと当然のように人のことお前って言うところとか。もうそっくりである。

 スカーレットは虚を突かれたような顔して、それから思わずというように噴き出した。

『そんなこと、初めて言われたわ』

「そうですか?」

『そうよ。だってお兄様は金髪だし、瞳は確かに王家の色だけど、わたくしとはちょっと色合いが違うし、頭が良いし、真面目だし』

 すらすらと口から出てくるのは、以前からそう思っていたということなのだろう。少しだけ意外だった。あのスカーレット・カスティエルがこんなことを言うなんて、と。

『それに母親だって違うもの』

 コニーは思わず足を止めた。

『あら知らないの?わたくしたちの時代では、暗黙の了解だったけど』

 ―――十年って思ったよりも長いのね。冷えた歩廊にどこか寂しそうな彼女の声がぽつんと落ちる。

『星冠のコーネリアは知っていて?』

 コニーは頷いた。それは隣国ファリスがまだ巨大な帝国だった頃の―――そして滅亡していった時代の最後の皇女の名だ。

 当時のファリスは侵略した地の部族長や国の王族を積極的に娶り、帝国の血脈に組み込むことで属州を間接的に支配しようとしていた。もちろん皇族は純血のファリス人でなればならなかったので、受け皿に選ばれたのは帝国に忠誠を誓う高位貴族たちのいずれかだった。選ばれた家は穢れた血と呼ばれ忌避されていたが、その発言力は大きかったという。

 コーネリアの父は当時の皇帝の末息子にあたり、穢れた血の令嬢と恋に落ちると駆け落ち同然に婚姻を結んだ。そして生まれたコーネリア・ファリスは、その身に星の数ほどの冠を抱く帝国史上初の皇位継承権を持つ者という意味で【星冠】と呼ばれるようになったのだ。

 それから属州の反乱により帝国は解体され、次々と皇族が処刑されていったが、コーネリア・ファリスは当時中立を保っていたソルディタ共和国に留学していたため無事だった。彼女はそのまま亡命し、その後の消息は明らかではない。一説によればそのまま共和国に留まり元首の息子と婚姻を結んだと言われている。


 鈍く輝く鋼で出来た板金鎧はもう目の前だった。スカーレットが甲冑の頭部を指さした。『その中よ』

 首を外すのにさほど力は必要なかった。どうやら胴体部と連結されているわけでなく、中に人を模した支えがあって、そこに被せられているだけのようだ。

 がちゃん、という金属音とともに中から蝋製の人形の顔が現れる。コニーはぎょっと目を見開いた。のっぺりとした顔の上半分―――その窪んだ目から鼻にかけてを黒い仮面が覆っていたのだ。

 材質は星のない夜空にも似た―――黒玉ジェット、だろうか。


『ソルディタ共和国の片田舎にね、星冠のコーネリアの血を引くと言われた娘がいたのですって。それが真実で、世が世だったならば、きっと大陸中の覇者たちが彼女に跪いて忠誠を誓ったことでしょうね』 


 ぽつりとスカーレットが呟いた。



『冠なきアリエノール。―――それが、わたくしの母親よ』 




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