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 エミリア・ゴードウィンは上機嫌だった。


 広間は心地良い喧噪で包まれている。訪れた客人は口々にエミリアを称賛した。理由はもちろん、コンスタンス・グレイルである。話題の当人がグラン・メリル=アンでの騒動後、初めて公に姿を現したのだ。それも、エミリア・ゴードウィンの夜会に。伯爵でも子爵でもなく、男爵夫人であるエミリアの夜会を選んだ。その事実はエミリアの自尊心を大いに擽った。

 それだけではない。どこからか噂を聞きつけたのか、あの人(・・・)まで夜会に参加したいと言ってきたのだ。言葉を交わすのはおそらく十年ぶりだっただろう。エミリアの心は踊った。常に公平で、下級貴族だからと他者を見下すことのなかったあの人は、エミリアの密かな憧れだった。


 どれもこれもコンスタンス・グレイルのお陰だった。だから実際に挨拶にやってきた少女を見て、エミリアは目をぱちくりと瞬かせた。拍子抜けしたのだ。確かに以前目にした時よりも多少垢ぬけてはいたが、それでもどこにでもいるような平凡な子には違いなかった。

 ただドレスや首飾りのセンスは悪くない。それに所作だってなかなか美しい。もちろんあのスカーレットには遠く及ばないが―――。そこまで考えて、いつの間にか自分がこの取るに足らない娘をスカーレットと比較していることに気づいて固まった。いったいどうして。動揺するエミリアを前にして、コンスタンス・グレイルが淑女の礼を取ってくる。思わず目を見開いた。

 似ている、のだ。

 裾をつまむときの指の形。まっすぐ伸びた背筋。足を引くタイミング。視線を落とし、顔を上げた時に浮かべる表情。そのすべてが、スカーレット・カスティエルと瓜二つだった。あの女の本性は毒婦だったけれど、その佇まいは誰よりも気品があった。


 ―――ごきげんよう、エミリア・カロリング。


 声は常に鈴を転がしたように軽やかで。そして、最初に掛けられる言葉はいつだって決まっていた。


 ―――今日もすてきなドレスね。あなたのひまわりのような髪によく似合っているわ。


 それはまるでドレス()()素敵じゃないというように聞こえたし、金髪というより黄色いペンキのような髪の色はエミリアのコンプレックスだった。だからエミリアはスカーレットのこの挨拶が大嫌いだったのだ。大嫌いで、身が竦むほど恐ろしかった。


「本日はお招きありがとうございます、ゴードウィン夫人」

 嫌なことを、思い出した。エミリアは唇を噛む。腹いせに目の前の小娘を甚振って鬱憤でも晴らそうと手管を巡らせる。もともと、そのつもりで呼んだのだ。出る杭は打たれる。打たれてもびくともしない者だけが生き残るのだ。果たしてこの娘は、どちらか。パメラ・フランシスのように壊れるのか、それとも―――




「―――今日もすてきなドレスですね。夫人のひまわりのような髪によくお似合いです」


 はっとしてコンスタンス・グレイルを見れば、彼女は、かつてのスカーレット・カスティエルのようにそれはそれは無邪気な微笑を浮かべていた。



◇◇◇



 なにか失敗でもやらかしたのだろうか。コニーは首を捻っていた。

 淑女の礼や所作はスカーレットの猛特訓のおかげで何とか見られるものになったと思うし、ゴードウィン夫人が昔から一番喜んだという挨拶も完璧だった。

 だというのに、夫人は真っ青になると、何も言わずにその場を立ち去ってしまったのだ。その様子を見たスカーレットは噴き出していた。

『あの子ったら相変わらず気が小さいのねえ』

 言い方に含みを感じて思わず半眼になって視線をやると、当の本人は肩を竦めてしれっと答えた。

『わたくしはあの子から話を聞きやすくしただけよ』

 そのせいで逃げられてしまっていれば本末転倒ではないのだろうか―――もちろん面と向かって言えるはずもないが。



 それからしばらくは見世物小屋の珍獣のような扱いを受けた。挨拶に来てくれればまだ良い。背後でひそひそと囁き合う者や、すれ違い様にさり気なく嫌味を言ってくる者が後を絶たない。スカーレットがいなければ心が折れていたかも知れなかった。打ち合わせ通り、コニーはスカーレットの人形に徹した。陰口に対する牽制、嫌味への切り返し方、笑顔を見せるタイミング―――。

『及第点ね』

 スカーレットはそう言うとぐるりと広間を見渡した。まるで今日の情景をその目に焼きつけておくかのように。

 ―――以前から薄々思っていたことだが、スカーレット・カスティエルは記憶力が良い。それは今回の夜会で確信に変わった。おそらく彼女の頭の中には記憶をしまっておく宮殿のようなものあるに違いない。今日挨拶を交わしたほとんどが初対面であったが、スカーレットは彼らの顔や名前はもちろんのこと、領地や趣味など、会話のすべてを一言一句漏らさずに記憶していた。


 挨拶も一区切りつき、咽喉を潤すために冷やした果実水を飲んでいると、広間の隅にいるエミリア・ゴードウィンの姿が視界に入った。彼女はどこかの貴婦人と話をしているようだった。その顔に笑みはない。お互い扇子で口元を隠しながら、ちらちらとこちらに視線を寄越してくる。エミリアに至っては、まるで化け物でも見ているかのような目つきだ。解せぬ。

『……あれは、アイシャ・スペンサー?だいぶ様変わりしたこと』

 スカーレットが呟いた。

『でも意外ね。あのふたりに交流があるなんて。でもまあ、ちょうどいいわ。ふたりが揃ってるうちに話を訊きに行きましょう』

 気は進まないが、そう言われてしまえば仕方がない。足を踏み出したその時だった。


「―――なんですって?」

 強張った声が飛び込んできた。

「……もう一度、言って下さらないかしら」

「あら何度だって教えて差し上げるわ。テレサ、貴女の旦那様にはほとほと迷惑しているの。毎晩毎晩飽きもせずに娼館通いをされているそうじゃない。婦人会の方ではだいぶ噂になっているのよ?高潔なる騎士の精神に恥じるのではないかって。同僚である私の主人まで白い目で見られてしまうじゃない。なんとかしてちょうだいな」

 対峙しているのは、二人の貴婦人だ。引き攣った表情を浮かべているのはこれといった特徴のない月並な顔立ちの女性で、それに対して、彼女を責めているのはくっきりとした目鼻立ちの美女であった。

「あれは……?」

『テレサ・ジェニングスとマーゴット・テューダーね。さっき二人で挨拶に来ていたじゃない』

 スカーレットはさらりと告げた。確かに、見覚えは、ある。影の薄い女性と、気の強そうな美人の組み合わせは珍しかったからだ。さすがに名前までは憶えていなかったが。

 広間中に響き渡るほどではないが、その穏やかでないやり取りはコニーを含めた周囲の注目を集めてしまっている。

 美しいマーゴットが、凡庸なテレサを見下すように嘲笑した。

「でも、貴女が相手じゃ―――無理かしらね。もう少し、可愛がっていただけるように努力はできないの?」

 その言葉に、テレサの顔面が蝋のように白くなった。唇をわずかに震わせ、下を向いてしまう。ややあって、ぽつんと呟くように口を開いた。

「……ライナスは、お元気?」

 それは感情の読めない、ひどく静かな声だった。

「は?」

「最近、夜勤が、多いのではなくて?」

「……貴女のご主人が夜遊びばかりするからでしょう。その皺寄せがうちの人にも来ているのよ」

 俯いていたテレサがふいに顔を上げた。その表情は先程までとは違い―――どこか歪な明るさがある。

「―――ああ、そう言っているのね。なら、三日前の夜も夜勤だと言っていた?」

「……なにが、言いたいの?」

「彼は、ちゃんとエリンジウムの花束をあなたに渡してくれたのかしら?手土産を渡しておけば夜勤が続いてもご機嫌だと言っていたから、きっと、渡したんでしょうね。青くて棘のある、珍しい花だったでしょう?あなたのために、わざわざ取り寄せておいたのよ」

 マーゴットの顔から段々と色がなくなっていく。

「意味を教えてあげましょうか」

 テレサ・ジェニングスは勝ち誇ったように口の端をつり上げた。


「―――秘密の恋よ」


◇◇◇


 いやはや、まったく、恐ろしい世界である。コニーはぶるりと背筋を震わせた。さてエミリアの所に行くか―――そう思って視線を戻すと、コニーは「ぐげっ!」と淑女らしからぬ奇声を上げた。


 そこにはすでにアイシャの姿はなく、代わりにいつの間に現れたのか、エミリアと挨拶を交わす黒髪の男性がいた。堂々たる体躯に精悍な容貌。男が何かを訊ねると、エミリア・ゴードウィンがコニーのいる辺りを扇子で指した。


 紺碧の双眸がこちらを向く。刹那、男の―――ランドルフ・アルスターの射るような眼差しがコンスタンス・グレイルを貫いた。




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