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 ケイト・ロレーヌは獅子の頭部の飾りがついた真鍮の輪を扉に向けてコツコツと叩いた。しばらくすると顔馴染みの侍女―――マルタが出迎えてくれる。さっそく用意していた手土産を差し出した。

「木苺パイを持ってきたの」

 六の月(マルス)の時期にしか作れないロレーヌ家特製の木苺パイは、婚約が破談になり落ち込んでいるであろう友人の好物だった。少しでも元気になって欲しい。そう思って朝から厨房に籠って焼き上げたのだ。するとマルタはきょとんした表情を浮かべて首を傾げた。

「木苺パイ、ですか?でも、先日もうちのお嬢様に作って頂いたんですよね?」

「はい?」

 沈黙が落ちる。マルタの顔が次第に怪訝なものへと変わっていく。ケイトは「ああ!」と叫ぶとぽんと手を打った。

「あ、ああああれね!先日のね!あれかーすっかり忘れてたわー!そうそう、コニーと一緒に家で作ったんだわー木苺パイ!」


◇◇◇


「―――で?」

 焼きたての木苺パイを持ってきてくれたケイトが、どことなく据わった目でコニーを見てくる。

「私、いつの間にコニーと木苺パイを作ったんだっけ?」

 バターたっぷりのパイ生地はさっくりとしていてほんのりと塩気があり、砂糖で煮詰めた甘酸っぱい木苺とよく合った。甘すぎず、重すぎず、いくらでも食べられてしまうものだから、最終的にはいつもホールごと平らげることになってしまう。そんな魅惑の焼き菓子を前にしてコニーはフォークを口元に運ぶ手をとめていた。

「い、いや、その……」

 視線が泳ぐ。ケイト・ロレーヌは呆れたように眉間に皺を寄せると、迂闊な友人を一喝した。

「相変わらず詰めが甘い!一応マルタには家に来てたって言っておいたけど、信じたかどうかはわからないわよ!」

「ありが―――」

「で、どういうことなの?人をダシに使ったんだからもちろん教えてくれるわよね?」

「う……」

 実は罪のない孤児院の人々を騙すために侍女服が必要だったのだ―――などと正直に答えられるはずもない。コニーは顔を引き攣らせながら必死になって言い訳を探した。

「ええと、その、ひ、ひとりになりたくて……!」 

 出てきたのは信じられないほどお粗末な釈明だった。これはひどい。コニーは絶望した。自分で自分の頬を殴ってやりたい。

「ふーん」

 ケイトが半眼になる。打たれた相槌には、恐ろしいほど感情がこもっていない。

「あ、あのねケイト……!」

 焦って口を開いたが、しかし、それきり言葉が続かない。どうしようどうしよう、と硬直していると、大きくため息をついたケイトがその沈黙を引き取った。

「いいよ、別に」

 それが思いのほか穏やかな声だったので瞳を瞬かせれば、ケイト・ロレーヌは困ったように眉を下げてこちらを見つめていた。ふわふわとしたマロンブラウンの髪と同じ色の瞳に浮かんでいるのは怒りでも追及でもなく、ただただこちらを案じる色だ。

「コニーが言いたくなるまで何も訊かない。だから、何か助けが必要な時はきちんと言うのよ」

「ケイト……」

 申し訳なさと温かさで胸がいっぱいになる。どう反応していいかわからず奥歯をぐっと噛みしめたコニーに、ケイトは悪戯っぽく口の端をつり上げると殊更に明るく告げたのだった。


「でも―――次は庇ってあげないからね!」



◇◇◇



 くすんだヘーゼルナッツの髪に、若草色の瞳。どこにでもいるような平凡な顔。


 コニーは姿見に映った己をじっくりと観察していく。髪を結い上げ、薄い化粧を施し、水色のドレスをまとったコンスタンス・グレイルは、それでもいつもよりずいぶんと華やかに見えた。

『なんとか見られるようになったわね』

 スカーレットが満足そうに笑った。彼女が屋敷中ひっくり返して見つけ出した衣装や宝飾品は、まるで誂えたようにコニーによく似合っていた。侍女に任せきりの化粧も今日はスカーレットに言われるがまま。花緑青の胡紛を瞼に乗せ、頬紅は普段より明るい色。そして、淡い口紅の上には蜂蜜を。これで支度は整った。


 ―――今宵、エミリア・ゴードウィンの夜会が開催される。




「おや、ずいぶんと愛らしくなったものだね」

 コニーが居間まで降りてくると、パーシヴァル=エセル・グレイルが開口一番そう発言し、その熊のような強面をだらしなく崩した。エセルはその後しばらく愛娘を誉めそやしていたが、ふいに思い出したように遠い目になると沁々と呟いた。

「……あんなに引っ込み思案だったお前が、ニール・ブロンソンに果敢にも立ち向かい、今度は率先して夜会に出たいなどと言って……。優しくもしなやかな強さを持った娘に育ってくれて私は……私は……」

 話の途中で感極まったのか、目頭を押さえてさっと俯いてしまう。いつの間にか傍にやってきた母がよしよしと大きな背中をさすってやっていた。

 コニーの母であるアリア・グレイルは、金の巻き髪に翠の瞳を持った美しい女性だった。こちらは普段と印象の違う娘を見ると、頬に手を添え、おっとりと首を傾げた。

「あらあら。()()()()()()()()()()()

 それは一体どういう意味だとコニーは肩を強張らせる。けれどもアリアは真意の読めない穏やかな微笑を浮かべるだけだ。


「―――姉さま!」

「ぐえっ!?」

 疾風のように腹に飛び込んできたのはパーシヴァル=レイリだった。母譲りの金の巻き毛と緑柱石の瞳を持つ、まるで天使のように愛らしいコニーの弟だ。

 今年で八つになるレイリはきらきらと瞳を輝かせてコニーを見上げてきた。

「わあ姉さま、今日はとってもお綺麗なんですね!」

 今日は(・・・)、とはどういう意味なのだろうか。ちょっと意味がわからなかった。もちろんコニーは淑女であるので、蛇がいるとわかっている藪をわざわざ突いたりはしない。

 ―――子供とは残酷な生き物なのである。


「聞きました、ニール・ブロンソンのこと。あんなひどい男、振ってやって大正解です!今度会ったら僕が殴ってやります!ぐーで殴ります!」

「お、おう……」

「あとね、借金のことは気にしないで。正しい行いをしていれば、きっと三女神さまが道を開いてくれるはずだから」

 その言葉にコニーはふと違和感を覚えて固まった。―――今までなら。

 今までのコニーなら、きっと、そうよねと同調していたはずだったのに。

「姉さま?」

 良い子のレイリ。誠実・・なレイリ。

 見慣れない姉の表情にレイリの顔に不安がよぎる。はっと我に返ったコニーは柔らかな巻き毛をくしゃりと乱すと「なんでもないよ」と笑って見せた。

 ほどなくしてマルタが馬車の到着を伝えに来た。





『準備はよくて、コンスタンス?』

 スカーレット・カスティエルが歌うように言葉を紡ぐ。開け放たれた扉の向こうには二輪馬車が待っていた。

 黒の油絵具で分厚く塗りつぶしたような暗く重たい空だった。夜風がドレスの裾をぱたぱたとはためかせていく。

 スカーレットが振り向いて、ひどく愉快そうに口の端をつり上げた。



『―――楽しい宴のはじまりだわ』


 紫水晶アメジストの双眸は、まるでその奥に金鉱床が沈みこんでいるかのように、光を弾いて瞬いていた。




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