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 その晩セシリアは城を抜け出し、サンマルクス広場へと向かっていた。例の人質たちの様子を見に行くことにしたのだ。もちろん、ショシャンナの訴えを聞いて囚われの姫君たちを哀れに思ったからではない。


 ルチア・オブライエンは数年前まで暴力と薬の蔓延はびこる世界で生きていた。否、生き残っていた。手を差し伸べてくれる者はほとんどいなかったようだから、幼いながら賢い子供だったに違いない。

 ただの貴族の小娘であれば震えていることしかできないだろうが、ルチア・オブライエンはそうではない。セシリアの勘が正しければ、今この瞬間にも逃げ出す機会を伺っているはずだった。



◇◇◇



 わずかな明かりを目印にひんやりとした地下通路を進んでいく。これでも夜目は利く方だ。

 鉄柵の手前には新しい見張り役がいた。まだ若い男だ。セシリアはおもむろにフードを上げて顔を見せると、仲間であることを示す符牒を伝えた。


「しばらく下がっていてちょうだい」


 そう告げれば、突然の上役の登場に動揺した男は目を白黒させながら頷いた。それから、慌てた様子でその場を去っていく。

 牢屋内に目をやれば、ユリシーズは毛布に包まって寝息を立てていた。あどけない表情だ。そして、子猫を守る母猫のように王子に寄り添っているのは金髪の少女だった。


「……ルチアたちに、なにか、ご用かしら?」

 生憎、少女ルチアは起きていたらしい。それとも物音で目を覚ましたのか。

 松明が照らす洞窟内は薄暗い。それに城を抜け出すにあたってセシリアは粗末な身なりをしていた。この外貌では王太子妃だと気づかれることはまずないだろう。


「忠告をしにきたのよ」

「忠告?」

「そう―――死にたくなければ余計なことはしないことね」

 牽制するように低い声で告げれば、少女はきょとんと目を丸くした。それから、可笑しそうに頬を緩める。

「やさしいんですわね」

「やさしい?」

 思ってもみない言葉に、セシリアは眉を顰めた。

「ええ。ショシャンナも、あなたも」

 確かにあの小娘は甘い。それは同意する。けれど、己は違う。目的のためならばこの手を血に染めることに躊躇いはないのだから。

「私は、命じられればお前を殺すわよ」

 軟弱者のサルバドルと違って子どもであろうと抵抗はない。すると少女はまた微笑んだ。

「だから、来てくださったんでしょう? そんな命令がくだされないように」

 その言葉に、セシリアの顔から表情が抜け落ちる。畳みかけるように幼い声が洞窟内に反響した。


「―――ルチアが、殺されないように」



◇◇◇



 良く晴れた昼下がり。アナスタシア通りにあるカフェテラスに、ミレーヌとケイトはいた。


「しんっじらんない……!」

 ミレーヌは低い声で呻くと、手にしていた果実水をだんっとテーブルに置いた。膝の上には握りつぶされた新聞のなれの果てがある。


 有り得ない記事だった。あのコンスタンス・グレイルがファリスの王子誘拐に関わっている、というものだ。よりにもよってコンスタンス・グレイルが? あのミス・お人好しが?  


 信じられないことに、コンスタンス・グレイルは現在投獄されているらしい。もちろん何かの間違いでなければ嵌められたに違いない。だって相手はあの【誠実のグレイル】のご令嬢なのだ。どこの三流記者か知らないが、その事実にも言及すべきだろう。それに―――


「処刑って、どういうことよ……!」


 先ほど目にした物騒な単語に思わず眉が寄る。記事によれば、処刑が実行されるのは十日後だという。すべてがあまりにも急だった。まるで、何者かが書いた陳腐な筋書きに沿うかのように。腹立たしい気持ちが先に立ってミレーヌは思わず舌打ちをした。

 ミレーヌが憤っている間、ケイト・ロレーヌは一言も発しなかった。ただ目の前に置かれた湯気の立つティーカップをじっと見つめ、青ざめた顔で俯いていた。ケイトは思いつめたような表情を浮かべていたが、ややあってから、はっとしたように顔を上げた。


「スカーレット・カスティエルが処刑された後、公開処刑が廃止になったでしょう? あれはどうしてか知っている?」

「へ? あ、ああ、確か、市民団体が動いたんじゃなかったかしら。すみれの会とかいう……」

 ミレーヌの言葉に、栗色の瞳が何かを考え込むように深い色合いを見せた。

「ねえ、ミレーヌ。その団体の本部がある住所はわかる?」

「私は知らないけど、そういうのはだいたい役所に行けば―――」

 言い終える前に、がたん、と勢いのある物音が聞こえた。見上げれば、いつものほほんと笑っている友人が親の仇でも見つけたような形相で席を立っている。

「えっと、その……ケイト、さん……?」

「ありがとう、ミレーヌ」

「ど、どういたしまして……? ええと、それで、ケイトは今からどこに行くの……?」

「もちろん、コニーを、助けに」

「……うん?」

「だって、ここで愚痴っていてもあの子の処刑が中止になるわけじゃないでしょう? 少しでも可能性があるならそこに賭けたい。……私は、ぜったいに諦めないんだから…………!」

 ケイト・ロレーヌは目を丸くしているミレーヌに向かって「行ってくるわ」と告げると、まるで決闘に向かう紳士のように肩をいからせて颯爽とその場を去って行った。


 呆気に取られながら友人の後ろ姿を見送っていたミレーヌは、次の瞬間、我に返ったように目を瞬かせる。


 迷ったのは、一瞬だった。


「……よし」と頷き、気合を入れるように果実水を一気に煽る。ケイトはおそらく『すみれの会』に行って、十年前のように処刑の廃止運動をしてもらえるように訴えるつもりだろう。なら自分は――― 


「―――ペンは剣よりも強いってことを証明してやろうじゃないの!」




◇◇◇






 気味の悪い子だと言われて育った。


 六つの誕生日を迎える前に教会に預けられたのは、使い道のない五男坊だからというだけでなく、おそらくは外聞の悪い『悪魔憑き』などさっさと追い払いたかったのだろう。


「……悪魔? 悪魔ですって?」

 血の繋がった家族からの呼び名を伝えれば、老いた修道女シスターはひどく嘆いてくれた。

「悪魔だなんてとんでもない。あなたの力は、女神からの授かりものなのですよ。多くの人を救う光となるものです」

 厳しいけれど、温かい人だった。皺だらけのかさついた手のひらで頭を撫でられるのが好きだった。けれど、修道女シスターはそれからすぐにこの世を去った。肺炎をこじらせたのだ。

 ようやっと差し出された救いの手を呆気なく奪われて、子どもは悟った。


 この世界に、神などいない。



◇◇◇



 ―――祭壇にもたれかかっていたハームズワースは葉巻から口を離すとぷかぷかと煙を吐いた。もちろん教会内は禁煙だが、特に気にしてはいない。要は気づかれなければいいのだ。今日は忌み日なので誰かが祈りを捧げに来ることはない。


 この世に神がいないと知ってから、ハームズワースは人生を好きなように生きることに決めた。どれほど高潔と程遠く自由気ままに生きていても、教会はハームズワースを除籍しない。皮肉なことに、【女神からの授かりもの】を持つ者はなかなか貴重らしい。


 ドミニク・ハームズワースは基本的に神という存在を信じていない。けれど、限りなく()()に近い存在であれば知っている。もちろん、己の信仰の対象という意味で。


 ―――スカーレット・カスティエル。


 あれほどまでに苛烈で美しい魂を、ハームズワースはいまだかつて見たことがない。


 だから十年前、彼女が拘束されたと聞いて、呼ばれもしないのに司祭として面会を申し込んだのだ。

 驚くべきことに、どれほど絶望的な状況でもスカーレットの瞳の輝きはいつもと変わらなかった。逸る気持ちを抑えながら、ハームズワースは彼女に訊ねたものだ。


「おお、なんとおいたわしい……。貴女の下僕に何かお手助いできることはありますかな?」

 返事は、ひどく素っ気なかった。

「目障りよ、失せなさい」

「ああ、残念です。気が向いたらいつでも何なりとこの下僕めにお申し付けください」

「ええ、気が向いたらね。だからお前はとっとと消えなさい」

 それが、ハームズワースが彼女と交わした最期の言葉となったのだ。




 ふいに風が吹いた。カーテンがはためいている。ハームズワースはゆっくりと顔を上げた。もちろん、そこには誰もいない。

『そういう小芝居はけっこうよ』


 ―――()()()()()()()()


『見えているんでしょう? 初めから―――そうね、きっとグラン・メリル=アンで会った時から、お前は、わたくしの存在に気がついていたはずよ。でなきゃ、見ず知らずの小娘の婚約破棄なんかのために手を煩わせるわけがないもの』

 鈴が鳴るように軽やかで、毒のように体を蝕んでいく甘い声。

『ねえ、知っていて? わたくし、とっても記憶力がいいの』

 陶器のような肌。瑞々しい唇。蠱惑的な肢体。女神が地上に降り立てば、きっと彼女の姿を取るのだろうとずっとずっと思っていた。


『十年かかったけれど、やっと()()()()()()()。だから―――お前の力を貸しなさい』


 決して輝きを失わない紫水晶アメジストの瞳がハームズワースを捉えた。ぞくりと背筋が震え、ハームズワースは湧き上がる恍惚感に口の端を吊り上げた。

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