9-1
慈善活動のために下町の孤児院を訪れていると、護衛の目を盗んで【世話役】の少女がセシリアに声を掛けてきた。周囲を警戒しながら耳を貸せば、見張り役の男を変えて欲しいという。
「なぜ?」
「乱暴だから」
ぶっきらぼうな口調だったが、
「だとしても、ずいぶんな好待遇ね」
「……人質に何かあったら困るのはそっちじゃないの?」
【
セシリアは無表情のままショシャンナを見下ろした。幼くとも整った顔立ちに、すらりと伸びたしなやか手足。その蕾のような瑞々しい魅力によこしまな考えを持つ者がいなかったわけではなかったが、ショシャンナにちょっかいをかけた人間の末路は嫌と言うほど知っていた。
「―――仕方ないわね」
この子が泣けば、サルバドルがうるさい。そう思って了承すれば、ショシャンナは明らかにほっとした表情を浮かべた。聞くところによれば手先はずいぶんと器用らしい。サルバドルが南方の商人に扮する際の色粉を精製していたのもこの少女だったそうだ。けれど、どう考えても誰かを傷つけるのには向いていない。サルバドルが頑なに太陽の入れ墨を彫らせないのもそういうところが関係しているのかも知れない。まあ、どうでもいいことだが。
どうせ、もうすぐすべてが終わるのだ。
◇◇◇
―――つくづく、どうしようもない国だと思う。
ファリスの第四王子であるテオフィルスは、執務室にある台形に張り出した出窓を開け放ち、城下を見下ろしていた。
父の意識は今だ戻らず、開戦派の狸どもはいよいよその薄汚れた腹の内を隠さなくなってきた。戦争には
長かった椅子取りゲームも、いよいよ終盤に差し掛かっている。ほとんどの兄弟は継承権を放棄した。残っているのは引き篭もりの
恐ろしいほどにすべてが順調だった。例えこのまま父の意識が戻らずとも、早晩には議会でテオフィルスの王位継承に関する承認が得られるだろう。
だというのに、どうしてか胸が
ふと思い出すのは、異母姉であるアレクサンドラのことだった。巷では『思慮深く公正な王女さま』だと誉めそやされているらしいが、とんでもない。あの女はただのガキ大将である。幼い頃から口が達者で、手も足も出るのが早く、テオフィルスなど幾度泣かされたかわからない。
そのくせどこか周囲を惹きつける力があるらしく、一部の貴族や民衆から絶大な支持を受けていた。アレクサンドラの瞳の色はただの瑠璃色だったが、それでも「彼女ならば」と王座に持ち上げようとする声が絶たなかったのだ。高貴なる母から生まれ、正統な青紫の瞳を持つテオフィルスにとっては文字通り目の上のたん瘤だった。
そんな彼女は今、城内にある大塔に幽閉されている。古くから罪を犯した王侯貴族の監獄として使われていた場所だ。
アレクサンドラの一件はテオフィルスが仕組んだとされているが、事実は少し違う。企てたのは彼の側近の一人だった。もちろん厄介な第三殿下は遠からず排除するつもりでいた。しかし、さすがに火炙りにしてやろうとまでは思っていなかったのだ。
だから参謀役の側近から彼女を火刑にするという計画を聞いた時は、「別に命を奪わずとも継承権を取り上げて僻地に飛ばしてしまえばいい」と告げたのだが、「王女を生かしておいたら必ずクーデターを起こす」と一蹴されてしまった。
「―――アデルバイドは、ユリシーズ殿下の誘拐に関わったとされる貴族令嬢を処刑することにしたようですね」
ふいに聞こえてきた低い声音に、思索に囚われていたテオフィルスは我に返った。わずかに顔を上げれば見慣れた側近が控えている。例のアレクサンドラの幽閉を主導した男だ。
「……そうか」
毒にも薬にもならぬような末の弟は、いつの間にかアデルバイドの連中に誘拐されていたらしい。しかし、その話もどこまで信じていいのやら。
目の前で底の知れぬ笑みを貼りつけたままの側近を見ながらテオフィルスはそう思った。狸どもからせっつかれているが、戦争の件はひとまず保留にするつもりだった。エルンスト王がメルヴィナと条約を結べばこちらもかなりの痛手を被ることになる。考える時間が必要だ。
「―――おっと」
その時、開け放たれたままの窓から風が張り込んで書類が舞った。側近が心得たようにしゃがみ込み、散らばった羊皮紙を拾っていく。
何の気もなしにその光景を眺めていると、ふいに男の側頭部が目に入った。おや、とテオフィルスは首を傾げる。男の右耳の後ろに小さな痣があった。じっと目を凝らすと、痣ではないことに気がついた。
それは、太陽を模った入れ墨だったのだ。
◇◇◇
スカーレットが、消えた。
コニーは愕然とした。いないのだ、どこにも。気がついたのはランドルフとの面会を終えた後だった。スカーレットは以前から閣下のことを苦手だと公言していたので、初めのうちはそれでいなくなったのかと思っていた。けれど翌日になっても姿を見せない。もしやグラフトン領の埠頭で力を使ったせいで眠りについているのかと思ったが、これまでは半日休めばけろりとしていた。コニーが留置所に入れられてからもう数日が過ぎるというのに、スカーレットはまだ消えたままだ。
つまりこれは、とコニーは思った。
これは、俗に言う、愛想を尽かされてしまった、というやつではなかろうか。
さすがにこの流れで彼女が成仏してしまったとは思えない。なんせ、相手はスカーレットだ。復讐を終えるまでは意地でも消えないだろう。
そう、復讐。身動きが取れない今の状況では、スカーレットの復讐にも協力できない。これでは彼女がいなくなるのも当然だ。
そうこうしていると、留置所から拘置所に移送されることになった。刑が決まったというのだ。やたらと口の軽い看守曰く―――
どうやらコンスタンス・グレイルは処刑されることとなったらしい。
◇◇◇
「―――面会だ」
留置所とは違い、拘置所は個室が宛がわれた。室内は広くはないが清潔だ。もしかしたら十年前にスカーレットがいたのもこの部屋かも知れない。そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった。
コニーは腰かけていたベッドから立ち上がると、面会室へと移動した。そして、小部屋で待っていた人物を確認すると小さく息を呑む。
「……とうさま」
そこにいたのは、父であるパーシヴァル=エセル・グレイルだった。エセルは熊のような強面をさらに恐ろし気に
「ひとつだけ、訊こう」
それは、獣が唸るような低い、低い、声だった。
「お前は、今、後悔しているか?」
その言葉に、コニーは、はっと息を呑んだ。それから父の視線を受けとめ、ゆっくりと首を振る。
「―――いいえ」
きっぱりと告げれば、心底呆れたようなため息が目の前から返ってきた。
「馬鹿者」
「う……」
「なぜ、私たちを頼らなかった。なぜ、相談しなかった」
申し訳なさにコニーは顔を上げることができなかった。
思わず背中を丸める
「―――と屋敷で愚痴っていたら『旦那さまのどこにお嬢さまが頼れる要素があるんですか!? 御自分の胸に両手を当ててよくお考えになってみてください!』とマルタに叱られてしまってな。確かに私は人のことをとやかく言える立場に……ない……な……。それに我が家は弱小貴族だし、発言力も財力も限りなく低いし……」
言いながらしょんぼりと肩を落としていく。どうしようかとコニーが思っていると、気を取り直したように顔を上げ、「ああ、そうだ、差し入れを持ってきたんだ」と持参してきた山のような荷物を紐解き、ひとつずつ説明し始めた。
「……これは料理長からだな。木の実のクッキーに、
「父さま」
コニーはエセルの言葉を遮った。
「私を、勘当してください」
エセルは目を瞬かせると、不思議そうに口を開いた。
「それはまた、どんな理由でだ?」
「わ、私のせいで、父さまたちにも累が及んだら―――」
馬鹿なことを言っていると自分でもわかっている。でも、今やコニーは隣国の王子さまの誘拐を手伝ったとされる希代の悪女なのだ。万一そのことが戦争の
そうでなくても、周囲からの誹謗中傷や嫌がらせだってあるだろう。矛先がすべてコニーに向かうのであれば何の問題もない。こう見えて打たれ強い方だ。もちろん処刑は恐ろしいが、きっとランドルフたちが助けてくれると信じている。
けれど、いくらコニーの面の皮が厚くても、無関係の身内が傷つけられるのだけは耐えられそうになかった。
唇を噛みしめ俯いていると、ふっと笑い声が降ってきた。
「―――お前が処刑されると聞いたとき」
その声は凪いだ海のように穏やかだった。
「王宮に乗り込んで刺し違えてでも救おうと思った。いや、実はついさっきまでそのつもりだったんだが」
ただし内容はちっとも穏やかでなくて、コニーはぎょっと顔を上げた。するとエセルと目が合った。父はいたずらっぽく片目を瞑ると、楽しそうに口元を吊り上げた。
「お前が諦めないというのであれば、私も、正々堂々、娘を救う準備をするとしよう」
「父さま、それは……!」
いくら冗談めかしていてもコニーにはわかる。父は本気だ。本気で、コニーを助けようとしてくれている。けれど、それは国に反旗を翻すということだ。そして、敵となるのはあの恐ろしい【
それだけは阻止しようと食い下がるコニーを、エセルは片手で制した。そして問いかけられる。
「グレイル家のモットーは?」
―――帝国ファリスからの独立戦争の功労者であった初代パーシヴァル・グレイルは、勝利の秘訣を求められた際にこう語ったという。
汝、誠実たれ。
「いいかい、コンスタンス・グレイル」
十一代目グレイル子爵は、そう言うと力強く微笑んだ。
「我々が受け継いできた誠実を見くびってはいけないよ」
◇◇◇
父との面会を終えて個室に戻ると、狭かったはずの室内がやけに広く感じた。夏だというのに薄暗く、空気はひんやりとしている。コニーはぐっと歯を食いしばると、そのままベッドに突っ伏した。反動で床板からきしむような悲鳴が上がる。
「……スカーレット」
呟くように呼びかけても、やはり応じる声はなかった。鼻の奥がつんとしてきて、慌てて肌ざわりのよくないシーツに顔を思い切り押しつける。そうしないと、何かみっともない汁が顔中から溢れ出てしまいそうだった。そして、考える。
―――スカーレットは、いったいどこに行ってしまったのだろう?