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2-1

 


 コニーが目を覚ますと、すでに陽は高らかに昇っていた。柔らかな光に、澄んだ空気。窓の向こうではチチチチ、と小鳥が歌っている。

 なんだか怒涛の夢を見た、ような、気がする。そう、まるで、パメラ・フランシスをぎゃふんと言わせたような―――

(いやいやいやさすがにそれはあり得ない)

 だって相手はあのパメラである。

 コニーは目を瞑ったまま肩を後ろに逸らし、思い切り伸びをした。うん、あり得ない。自分で言うのも悲しいが、コンスタンス・グレイルは地味で冴えない小物なのだ。

 物悲しい気持ちになりながら瞼を開けると、目の前に、ひとつの顔があった。

「……ん?」

 吸い込まれてしまいそうな紫水晶アメジストの瞳に、夜の帳のような髪。

「……んん?」

 その外貌は魂を奪われてしまいそうなほど美しい。けれど、同時に猛烈な違和感を覚える。ここはコニーの寝室ではなかったか。そう思って視線を巡らせば、見慣れた蔦模様の壁紙に、寝台の横には金の取っ手のついた猫脚のサイドチェスト。二人掛けの長椅子に脚の短いガラス天板のテーブル、そして化粧台を兼ねた小柄な引き出し付きの収納机ビューロー―――もちろんいつもと変わらぬ風景である。


『やっと起きたのね、コンスタンス・グレイル。お前、昨日は一日中寝ていたのよ』 

 けれど、どこか聞き覚えのある鈴を転がしたような可憐な声は、いつもの朝にはないものだった。

 一拍の沈黙の後、コニーは叫んだ。


「ぎゃああああああああ!?」


 目の前の少女がぎょっとしたような表情を浮かべて後退あとずさる。しかしコニーもまた動揺していた。グラン・メリル=アンでの情景がものすごい勢いで蘇ってきたのだ。それはまるでまばたきをする度に場面の変わる紙芝居を見ているようだった。

(ちょ、ちょっと待って―――)

 映像だけではない。感じるのは、その場の空気や、温度。それに声や匂い。すべてがあまりにも生々しい。これは、まさか―――


「夢だけど、夢じゃなかった―――!?」


 愕然と叫ぶと、不機嫌そうな声が返ってきた。

『なに言ってるのよ。お前、まだ寝ぼけているわけ?』

 いや、意識は、比較的はっきりとしていると思う。目の前にいるこの人は、グラン・メリル=アンでの温室へと続く廊下で出会った高貴な方だ、とコニーの記憶は告げてくる。けれど確信がない。やはり寝ぼけているのだろうか。これは、夢、なのだろか。わからない。だからコニーは恐る恐る伺うことにした。

「あのう、ど、どちらさま、でしょうか……?」

 なんにせよ、ひとつだけ言えることがある。整いすぎて近寄りがたい美貌と、洗練された上品な佇まい。蠱惑的な肢体に挑発的なドレス。―――そのどれをとってもコニーの知り合いでないことは明白だ。

 少女はコニーの問いかけにふふんと目を細めた。紅い唇がゆるやかに弧を描き、よく通る声が飛び出してくる。


『わたくし?わたくしは、スカーレット。スカーレット・カスティエルよ!』


 ―――スカーレット・カスティエル?コニーはぽかんと口を開いた。


「いやいやいやそんなバカな。だってスカーレット・カスティエルは十年前に処刑されていて……」

『やだお前、まさか、わたくしが生きているように見えるの?』

 それが心底可笑しいと言うような口調だったので、コニーは思わずまじまじと目の前の少女を観察した。精巧な顔立ちは確かにこの世のものとは思えないが、おそらく、そういうことではないだろう。顎から首筋にかけての線は華奢で、胸は豊か。腰はほっそりとくびれていて―――そして、文字通り()()()()()()()()()()()()


 なぜか、ふよふよと、浮いている。


 それを目にした瞬間、コニーは再び意識を失った。



◇◇◇



『ちょっと寝過ぎよ、お前』

 呆れたような声にぼんやりと目を開けると、例の少女が腰に手をあててコニーを睥睨していた。

『それも、わたくしとの会話の最中に眠るなんて……!そんな失礼な仕打ちをされたのは、生まれてはじめてだわ!』

 いやだってもう死んでるがな。さすがにそうとは言えず、「失神です」と引き攣った声で答えた。


 ―――紫水晶の瞳に、夜空を切り取ったような髪。息をのむような美しさ。そのどれもがかの有名なスカーレット・カスティエルを示す特徴である。言われてみれば、顔立ちも、似ているかもしれない。


 といってもコニーが本物のスカーレットを見たのは十年も前のことだ。それも一度きり。たいそう美しい人だったという記憶はあるが、実際の顔立ちはおぼろげである。それよりも生まれて初めて見た【処刑】の方が強烈だった。あれから這う這うの体で家路についたコニーは倒れ込むようにして三日三晩寝込んだのだ。もはやスカーレット・カスティエルという符号はコニーのトラウマの頂点として君臨している。


「で、でも、なんでグラン・メリル=アンに……?スカーレットの亡霊はサンマルクス広場にいるんじゃ……」

 夜な夜な首なし令嬢が頭を求めて徘徊しているという噂は王都七不思議のひとつにも数え上げられるほど有名である。そう告げると、スカーレットは怪訝そうに首を傾げた。

『サンマルクス広場?……ああ、わたくしが処刑された場所ね。あんなところ一度も行ったこともないわよ。だいたいわたくし、自分が処刑された日のことなんてちっとも覚えていないもの』

 そうなのか。少女の告げた言葉にコニーは何故だかひどく安堵していた。あの日、広場は人間の悪意で満ちていた。覚えていないのならば、その方がいいだろう。

『―――それに引き換えグラン・メリル=アンはわたくしがあの腹黒セシリアにしてやられた場所なのよ!まったく、今思い出しても腹立たしいわ!』

「は、腹黒!?」

 聖女アナスタシアの再来と名高い王太子妃(セシリア)さまになんてことを言うのだ。けれど当人は己の失言を気にした素振りもなく―――もしくは気づいてすらなく―――話を続けていく。

『でも、ずーっと広間には入れなかったのよね。入ろうとしても弾かれてしまうの。やっぱり死者には何か制約があるのかしら。きっと中に入れたのは、お前のおかげなのね。この十年、誰に声をかけても知らんぷり。視線だって交わせない。そんな中で、わたくしに気がついたのはお前がはじめてだったもの。お前は地味でパッとしなくて特に取り柄もないようだけれど、そこは存分に誇ってよくってよ!』

 目の前の少女は、堂々とした態度で顔を綻ばせた。よくよく聞けばひどい言われようなのに、その笑顔があまりにも可憐なものだから思わず見惚れてしまう。ついでに思い出した。あの時、グラン・メリル=アンの大広間に入る直前、少女は確かにこう言ったのだ。

 ―――お前、礼を言うわ。

 よくわからないが、コニーが声をかけたことで少女は広間に入ることができたらしい。なるほど、とひとまず納得したが、それでもひとつ疑問が残る。

「でも、なんだって我が家に……」

 ついてきたのだ?

 広間に入るという目的を果たしたのだから、後はそのまま何処へなりと行けばいいと思うのだが。

 疑問が顔に出ていたのか、自称・スカーレットは半眼になると腰に手を当てコニーを見下ろしてきた。

『だってまだ対価をもらっていないもの』

「たいか?」

『あら忘れちゃったの?対価もなしに、赤の他人を助けるわけがないでしょう?』

 そう言って、ふふ、と笑う。その顔に浮かぶのは、獲物を追いつめるような、ひどく獰猛な美しさだ。その瞬間、脳裏にひとつの声が蘇った。


 ―――いいわ、助けてあげる。でも、その代わり―――


 不意に冷水を浴びせられたように血の気が引いた。あの時、声は最後まで聞こえなかった。けれど古今東西、異形のものとの契約の対価と言えば―――命、が定番ではないだろうか。コニーは身震いする体をぎゅっと抱きしめ、声を振り絞った。


「き、聞こえなかったんです……」

『はあ?』

「ほ、本当に、聞こえてなくて!何が起こったのかもわかってなくて!だ、だから命は……!」

 命だけは見逃して欲しい。そう言って縋りつくも、少女はけらけらと愉しそうに嗤うだけだった。

『だーめ』

 絶望に視界が真っ暗になる。じわり、と瞳に涙が滲んだ。

(ああ父様、母様、先立つ不孝をお許しください―――)

 持って生まれた容姿のようにパッとしない人生でした。コニーは肩を落としてがっくりと項垂れた。

 スカーレット・カスティエルが、圧倒的な存在感を纏ってコニーに近づいてくる。嗜虐的な笑みを浮かべたその姿は、噂に違わずまさに希代の悪女そのものだ。


『助けてあげたんだから嫌とは言わせないわよ』


 この時、哀れなコンスタンス・グレイルは、三女神が末子(アトロポス)が人間の運命の糸を断ち切るように、己もまたスカーレットによって死後の世界に連れて行かれるのだとばかり思っていた。


『―――いいこと、コンスタンス・グレイル』


 ぎゅっと目を瞑って覚悟を決める。けれど待っていたのは終焉ではなかった。


 続く未来は、コニーの予想とはちょっとばかり違っていたのだ。




『お前のこれからの人生をかけてわたくしの復讐を成功させなさい!』





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