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 「あの、何か……?」

 「ああいや、こっちのこと」


 まじまじと顔を見てたんで赤面されてしまった。いやごめん、その顔は俺のほうがダメージでかい。

 慌てて視線を外すとちょっと考える。これひょっとしてリリーさんに手伝ってもらえればあれの開発は途中経過とかすっ飛ばせるんじゃないだろうか。時間が足りない今、その分の余裕ができるのは正直有り難い。


 「リリー」

 「は、はい」

 「悪いんだけど、これから厨房に行って柔らかいパン生地をこのぐらい貰ってきてくれないか。できれば盆に載せて」

 「パン生地、ですか? 承知いたしました」


 なんだかわからないという顔はされたが、俺の顔色を見て冗談とかではないと理解してくれたんだろう。すぐにリリーさんは部屋を出ていった。

 俺の方も戻ってくる前にさっさと仕上げてしまおう。試作品を入れた箱を客用のテーブルに移動させてから執務用の席に座ると上に乗っていたものをひとまず押しのけて、ペンをがりがり走らせる。ちょうど書き終わった時にもう一度ノックがされてリリーさんが戻ってきた。


 「お待たせいたしました」

 「ああ、ありがとう。リリーはまだ礼儀作法とかいろいろ勉強中だよな」

 「え? は、はい。あと計算とかも……」

 「悪いとは思うんだけど、勉強の合間に描いてほしいものがあるんだ」

 「はい……?」


 頭の上にクエスチョンマークを浮かべているんで盆ごとパン生地を受け取る。こいつは粘土がわりだ。貴族の執務室にパン生地持ち込むのもどうかと思うが、粘土を持ち込むのはもっと問題である。って言うか必要もないのに近くに粘土なんかない。

 そして俺の場合図に描いて説明できない以上、模型を見せるのが一番手っ取り早い。手が汚れるのは仕方がないだろう。そこに汚れを拭くためにちょうどいい反古が大量に転がっているしな。


 まず一部を盆の上に薄く広げて板状にし、指で一部を凹ませていく。上から見れば多数の点で描いた※マークのような形に位置を調整。

 続いて穴に入るぐらいの球体を作り、穴の中に入れていく。穴の深さは球体がちょうど半分ぐらい顔を出す感じだ。


 「これは?」

 「こうやって」


 最初にティーセットを乗せてきてくれた盆だけを上に乗せる。盆を人差し指だけで軽く回すと盆そのものがくるりと回った。材料がパン生地なんでスムーズとは言えないが小型ターンテーブルの完成だ。


 「わ……」

 「本当は金属の球を使うのと、さらに中央に軸を差し込んで横にずれないようにする。そうすればこれを土台にすると重い物でも簡単に回すことができるようになるんだ。ただ口での説明が難しくてね」


 試作品として送られてきたゴルフボールサイズの鉄球を見せて机の上で軽くごろごろ回して見せると、興味深げにリリーさんがのぞき込む。近いって。


 「持ってみる?」

 「い、いいんですか?」

 「重いから気を付けてね」


 両手の上に乗せてあげると、きゃ、とか小さく声を上げたが落っことしたりはしなかった。そのまま両手の上で転がしたり高く持ち上げて下からのぞき込んだりしてる。何だろう、子犬が珍しいおもちゃ貰って遊ぶまえに前足とか鼻で突っついて確認してるみたいだ。思わず和むんだけど和んでるわけにもいかん。


 実は前世でターンテーブル状の物に関する歴史は古い。ローマの暴君ネロ帝が作成した『回転する食堂』は水車の力で床面(フロア)が回転し、ローマの全景パノラマビューを楽しみながら食事をしたらしい。伝説じゃなくて実際に遺構も残っている。

 金属製のボールを入れた穴には滑らかに回転させるための潤滑剤として使われた粘土の跡まで残ってるぐらいで、相当に計算されていたんだろうな。

 ネロが作ったものは部屋の床全体が回転する物だが、ボールで回転させる原理としてはターンテーブルとそれほど変わらない。いや回る食堂作りたいわけじゃないんでサイズはそんなでかくなくてもいいんだ。


 鉄球を受け取りながらもう一度ターンテーブルモドキに目を向ける。


 「俺は明日、城に出仕しなきゃいけないんで、その間にこの板を図にしてもらえないかな。球体が凹みの中で回るのが解るような図で。その分の時間を取ってもらえるように母やノルベルトには言っておく」

 「はい。ええと、大きさは書き込んだ方が……?」

 「それは作成者に依頼するときにこの試作品を見せて、比較しながら説明するから大丈夫」


 試作品の箱を開けて中に入れてある金属板を見せる。これも実物大じゃないけどそこは口頭で説明すればいいんだしな。


 「解りました」

 「それとさっきのランプの図もきれいな紙に書き直してもらえると助かる。その時に、この柄の部分を太めに、頑丈そうに。それからここを三角形になるように……」

 「はいっ」


 ターンテーブルと一緒に上にある本体の図も頼んでしまう。説明が細かい上仕事増やして申し訳ないと思ったんだが、リリーさん、何でそんなに嬉しそうなのかよくわからん。


 「この分は別にお給金出すから」

 「い、いえ、そんな、いりません」

 「いやこれは払わないと駄目なんだよ」


 メイドに限らないが館内部の仕事は女主人(マダム)である母の管轄になる。だがこれはメイドとしての仕事じゃないから別の業務だ。それはそれで払わないと統制が取れなくなる。その辺りをいい加減にしてる貴族家もあるんだろうが、ツェアフェルトでは厳格だ。そういう所をしっかりしていないと大臣とかやってられんか。それにリリーさんの絵、金取れるレベルだし。


 「うう……」


 なんか小さく唸ってる。いや働きにお金払うのは当然だから。そのぐらいなら子爵としての俸給からでも出せるし。


 「後、ノルベルトには俺から言っておくけど、描いたものは秘密にしておいてくれると助かる」

 「も、もちろんです」


 言うまでもなかっただろうか。とはいえ仕事を増やすだけなのも何なのでとりあえず紙に書いておいたものを差し出す。


 「あと、これなんだけど」

 「数字がいっぱい……表ですか、これ」

 「えーっと」


 さっきターンテーブルの説明で使ったパン生地の小さい球を二つ取り出し盆に乗せる。その隣にもう二つ。さらにその横にもう二つ。


 「これで何個?」

 「六個ですね」

 「うん。で、その表の縦の二、横の三の重なるところは」

 「六で……あ」


 うん、掛け算九九の表だ。ただこの脳筋世界、この程度のものもなかったんで学生時代驚いた記憶がある。もっとも俺自身は今更九九でもなかったから使わなかったが。


 ちなみに掛け算九九の表に最も近いものは前世だと古代中国時代の物がある。秦の始皇帝より前の話だ。なぜか日本の表とは逆に【九×九】から始まっているのはでかい物が好きな民族性なんだろうか。当然俺は日本風の【一×一】からの表を書いたけど。

 こんな物でも勉強の足しにはなるだろ……。


 「凄いです、これ、解りやすい。ありがとうございます」

 「あ、うん、参考にして」


 やたら感謝された。うっかりしていたが識字率とかその辺が基本的に低いから村人にはこの程度でも立派な教材なんだ。むしろ貧民窟(スラム)なんかに行けば文字も数字も読めないのが普通って世界なんだし。ただこのレベルでそこまで感心されてしまうと俺の方が居たたまれない。


 「こっちも面倒なこと頼んじゃったし。大変だと思うけどよろしく頼むね」

 「はい、一生懸命やらせていただきます!」


 助かるんだがこの基本ポジティブ思考なのはハルティング家の遺伝かなんかなんだろうか。とりあえずリリーさんにはパン生地とかを片づけてもらって、俺は床の上のゴミを拾いながら今後の予定に修正を加え始めた。

 整理中、ひょっとしてアバカスと言うかそろばん作ったら売れるんじゃねとか思ったが手が回らんのであきらめよう。生き残ってたらリストに加えておくとするかね。



 なお、後日ノルベルトからリリーさん経由で知った九九の表に関して、他の使用人に教える際にも使えるのだから、こんな便利なものはもっと早く教えてほしかったと母が文句を言っていたと伝えられた。そんなに大層なものじゃないんだが、数字と計算結果を一目で見れる表なんてものは確かにこの世界では珍しいか。この世界で二〇年近く生きてきたこの歳になってカルチャーギャップを体験するとは。自分が知っているからと言って他人が知ってるわけでもないよな。反省。

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