毒蜘蛛の巣
「だから! あたしはやってないつうの!」
「ふざけないで! こんなあざ作っておい、てやってないなんてよく言えるわね!」
店内に怒号が響き渡る。声を荒げているのは制服を着た女子高生とジャージ姿の女子高生。
低い身長に丸い大きな瞳に首元まで伸びた茶色の髪。まるで小動物のような少女が姫川を見上げるような形で怒りをあらわにしている。
あまりにも身長差のある2人の様子は姫川を悪い意味で強調してしまっている。
それどころか背の低い少女の周りには彼女を心配するように男子生徒と女子生徒が囲んでおり、彼らは睨みつけるような視線を姫川に送っている。
「あのさ。あんた、姫川さんだっけ? 学校に来ないでこんなところで暇を潰しているのは別にどうでもいいんだけど、人に怪我をさせておいて、その態度はないんじゃねぇの?」
姫川と同じくらいの背丈をした青年。鍛えられた体と刈り上げられた頭部がスポーツマン独特のオーラを放っている。
「いやだからあたしは!」
「見苦しいですね。どうせ女子トイレならやったとしてもバレないとでも思ったんでしょ。
まぁ君は育ちが悪そうだし、親に習わなかったのかい? 人に暴力を振るってはいけません、て」
鋭い目つきとそれを強調する眼鏡をかけたもう1人の青年が呆れたような様子で姫川を煽る。
「お前っ!」
あえて姫川を苛立たせるように発せられたその言葉に、姫川は握り拳を震わせながら悔しそうに睨み返す。
そして仕上げと言わんばかりに最後に口を開いたのは、
「それに最上さんも見てたんだろ」
「えぇ。私も見てたわ。杏が鏡の前で手を洗っていたら急に姫川さんが杏の顔を殴って。
私怖くて……。ごめんね杏守ってあげられなくて……」
学年きっての才女、最上寧々が涙を流しながら杏と呼ばれる少女に泣き縋る。
「……随分演技がうまいこと」
離れたカウンター越しに様子を伺っていた桜が呆れたようにつぶやく。
(美しい花には棘があるっていうけれど、あの子が持っているのは棘は棘でも猛毒の棘ね。
いや寧ろあれは毒蜘蛛。本当どういう育ち方をすればああなるのか。
それに……)
頬を殴られたと主張する少女が先ほどからしきりに携帯電話いじっている。"姫川が言葉を発するタイミングに合わせて"。
桜が深いため息をつくのと同時に姫川が最上に詰め寄ろうとする。
「嘘つくなよ! あたしは何もしてない!」
「じゃあ証拠はあるのかい?」
最上の盾になるように眼鏡をかけた男子生徒が姫川に詰め寄る。
「君が彼女を殴っていないって言う証拠はあるのかい?」
「そ、そんなの。あたしはやってないから……」
「つまりないんだろ? あのさ。君の出来が悪いことなんて見ただけでわかるけど、人間としてやっていいこととそうでないことの判断もできないの? 本当親の顔が見てみたいね」
「っ……! あたしの両親は関係ないだろ!」
「君がこんな風に育ったのは親の教育が悪いからでしょ? 親が親なら子も子だね。そのくらいわかるでしょ?」
「違う! 少なくともあたしの両親は──」
「別に君の親のことなんてどうだっていいんだよ。君がどう責任とるのか聞きたいんだけど?」
徐々に自分が不利だと言うことに気づき姫川の表情が暗くなり始める。そして彼女を捲し立てるように、
「悪いけどこっちには痛々しい証拠があるんだけど? これでもまだやってないって言うつもりなわけ?」
「これ、暴行罪でしょ。喧嘩でもなんでもない。一方的な暴力な訳だから」
罪。その言葉を聞いた途端、姫川の顔に恐怖が浮かび上がる。だらだらと冷や汗が止まらず、噛み締めていた歯も小刻みに震え始めている。
そして姫川のそんな様子を見逃すわけもなく、
「姫川さん。あなたがしたことって傷害事件なのよ。だから私はあなたのことを通報するわ。友達のためにも、それからあなたのためにも」
最上は真剣な表情で姫川の目をじっと見つめた。
「だって……。あたしは何も……」
姫川は焦りと恐怖から焦りから目を逸らし、下を俯いてしまう。
「……そろそろ頃合いかな」
桜は窓辺に視線向ける。
(穂高君ならきてくれると思ったけど。流石に来ないか)
時計を見れば、穂高に連絡を取ってから既に30分が経過している。もしも彼が来てくれるのだとしたら、もうとっくにここにいてもおかしくなかった。
(それもそうよね。あの子にとって、高校生活はようやく訪れた平穏な日々なんだもの。
わざわざ同級生がいない学校を受験してまで、環境をリセットしたのに、わざわざそれを無意味にするようなことはしたくないわよね)
桜は目を閉じる。目を閉じ、頭に浮かんでくるのはとある少年の姿。その姿は見ていられないほど危なっかしくて、でも彼の向ける笑顔は心を温かくしてくれる。
(……わかってるはずなんだけどな。もう"彩"はいないんだって)
『お姉ちゃんは僕が守る!』
純粋な正義を掲げていた少年はもう何処にもいない。いや、戻ってこないというのが正しいのだろう。
今でも覚えている。まるで魂を抜かれたように虚ろな目をした少年を。
(あの子も。そうなっちゃうのかな)
桜が姫川を見つめる。彼女の体が小刻みに震えているのが見てとれた。
桜にはわかっていた。姫川が無実であること。彼女らに警察に通報する気なんてないと言うこと。彼女達の目的が姫川に罪を認めさせることだということを。
(穂高君と同じ……)
今彼女が置かれている状況は、かつての穂高彩清と全く同じものだった。
姫川が同じ高校の生徒である以上、姫川は今後最上や彼女を取り巻く人間を1人で相手にしなくてはならない。
桜の目から見ても、姫川があまり学校に馴染めていないことくらいは分かる。そんな彼女が暴力沙汰を起こしたなんて噂が流れれば、彼女の味方をする人間などまずいやいだろう。
だから桜は穂高を呼んだ。穂高が姫川の無実を証明する証人となることで少しでも姫川を救えればと考えた。
彼なら、同じ境遇の持ち主として少しでも姫川の気持ちを理解できるのではないかと考えた。
(でも。彼女ももう限界だろう)
彼女が冤罪を認める、これだけは避けねばならなかった。
「君達、いい加減に──」
そう言いかけた時だった。
まるで破裂音のような音が店内に響き渡る。店内にいた誰もが驚きのあまり、音の下方向に目を向ける。
開け放たれた扉。そこにいたのは、1人の男子高校生だった。
ポタポタと汗を流し、尋常じゃないくらい息を荒げ、今にも倒れそうなほど足を震わせ、書店の扉にもたれかかっている。
誰もが驚愕の表情を浮かべている中、笑みを浮かべる者が1人。
溢れ出しそうな涙を堪え笑顔をむける。
「やっぱり、君はヒーローだね」
「……大根芝居もいいところですよ」
誰よりも度胸がなく、誰よりも臆病なヒーローがそこには立っていた。