後悔と覚悟
1時間30分。目が覚めてからベットを出るまでにかかった時間である。
起きた時には既に下の階でせっせと働く母の足音がした。
じんわりとした空腹感。何かの焼ける匂いが食欲を掻き立てる。
しかし、そんなものとは裏腹に依然としてベットから離れる気は起きなかった。
「……学校休みたい」
結局昨日は、あの後姫川の自宅に向かった。本人や彼女の両親にバレないようにポストに入れるものだけ入れて逃げるように帰宅した。
昨日の事件。理由は不明だが最上寧々とその取り巻きが行った姫川深雪への冤罪を俺は防いだ。
その結果俺は最上を敵に回すこととなり、そしてそれは最低でも安曇高校の1学年全体を敵に回すことに繋がってしまった。
今頃自分の根も歯もない悪評が知れ渡り、自分への反感は凄まじいことになっているに違いない。
(自分でやっておきながら、こんなに後悔するとは思わなかった。まぁ敵意の対象が俺1人じゃなくて姫川さんもって考えたら、なんかいけると思ったんだよなぁ……。
見切り発車はよくないっていうけど、こんな形で実感することになるとは)
姫川深雪は学校に滅多にこない。だから自然とヘイトを買うのは自分1人となる。
姫川に向けられるべきものが自分に向けられる。そう考えただけで憂鬱な気分で体が何倍にも重くなったように感じる。
「彩ー。いい加減起きてきなさい。学校遅刻するわよー」
頭に響く母の声。
(…….仮病使おっかな)
俺の母親は昔から仮病を疑うことはなかった。俺が具合が悪いと言えば、休みなさいと、熱を測る前に学校へ連絡を入れてくれた。
こんなことをいうのは間違っているが、都合がいい母親なのだ。
ただ。
(問題はうちの担任なんだよな……。今日休めば明日間違いなく尋問されるんだよな……)
眉間にしわをよせ、笑顔で怒りのオーラを放つ担任の顔が思い浮かぶ。
(でもいいじゃないか! あの人のせいで俺はこんなに悩んでるんだし。1日くらい、休んでも文句は言わないだろう。
よし! 休もう!)
母に仮病を伝えようとベットから出ようとしたところで、とある少女の顔が頭をよぎる。
(…….もしも、今日姫川さんが学校に来たら)
もちろんその確率はかなり低い。昨日あれだけのことがあったのだ。普段から学校に来ない彼女来るわけがない。
でも、可能性はゼロではない。
「……」
もしも彼女が登校したのなら、自分が今日休めば彼女が今度は1人で背負わなくてはならない。
もしかしたらまた冤罪をかけられるかもしれない。昨日のことがきっかけでさらに良くないことが降りかかるかもしれない。
もしそうなれば、彼女は今度こそ1人だ。もちろん梓川が頼りにならないわけではない。
でも最上が梓川の耳に入るところで行動するわけがない。昨日で最上がうちに秘めた闇は嫌というほど思い知った。
そして姫川が梓川を頼りにするとは到底思えない。
無論自分を頼りにすることもありえないのだが、教師という身分である梓川と違って多少は無理ができる。
もしも姫川がまた陥れられそうになれば、無理矢理にでも介入することはできる。
胸が苦しい。呼吸がつらい。頭から考えたくもないことが無意識に浮かび上がってくる。まるで呪いだ。
自分で自分にかけた呪い。
(……昔からそうだったよな。しなくてもいいことをわざわざしてみたり。関わらなければいいことに自分から首を突っ込んで。
その度に後悔して。
それが誰かのためになるって、それが正しい行いだと思って。
でも結果は正反対だった。いつでも自分の行いは余計なものだった。
感謝なんてされない。人に嫌われることがあっても、好かれることはなかった。
そう思えば、俺は昔からずっと何かに呪われているのかもしれない)
でも姫川は違う。確かに彼女は学校に馴染めない。クラスでは明らかに浮いているし、彼女の周りには誰もいない。
だから余計なことをした自分とは違って、彼女が他人に疎まれるようなことはないはずなのだ。
友人といったものを犠牲にして、彼女は彼女なりの日常を送っていた。それが望まないものだったとしても、少なくとも他人から傷つけられるようなことはあってはならない。
「……やっぱ行こう」
遅れた時間を取り戻すように急いで準備をする。
それが余計なことであったとしても今更だ。自分から泥沼に踏み入れてしまったのだから。
でも姫川は違う。
彼女は無理矢理引き摺り込まれている。であれば、先達としてこれ以上の犠牲者を増やさないようにしてやるのが優しさというものだろう。
「行ってきます」
「あら。急いで準備をしているから遅刻しかけているのかと思ったけど、いつもより早いじゃない」
「ん。あぁ本当だ」
時計を見ればいつも家を出る時間より10分以上早い。
「忘れ物してない?」
「…….大丈夫。必要なものは全部持ったから」
どうせ今日逃げても明日は来る。早いか遅いか違いだ。
「遅れるより、早い方がいいでしょ?」
「……そうね。その通りだわ」
「それじゃあ。行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
自分を見送る母の顔は笑顔だった。
(……引けないな)
いつもの通学路。いつも通っているこの道が今日はどこか違う道のように感じた。
通りゆく人々がまるで自分を見ているんじゃないかと錯覚してしまう。彼らの目には自分がどのように映っているのだろうか。そんな考えなくてもいいことが頭を支配する。
「……っ!」
俺は走った。無我夢中で。そうすることで他人は自分を見て何をそんなに急いでいるのだろうとしか思えないと思った。
改札を抜け、長い階段を下って駅のホームにたどり着く。
電車が出たばかりなのか、くるまで時間があるためかホームにいるのは自分1人だけだった。
「はぁ……はぁ。走っ……て正解、だったな」
やはり1人でいる方が落ち着く。誰かに気を使う必要もなければ、誰かを意識する必要もない。
何も考えずにいられるこの空間が1番心地が良い。
しかし、それも長くは続かなかった。
革靴特有の打ち付けるような足音がホームに響き渡る。
(あぁ、もう少し1人でいたかったのに)
足音は一つ。だだっ広いホームにおいて2人というのが1番相手を意識してしまう。
どう見られてもいいように姿勢を正し、まっすぐ対面にあるホームを見据える。
本を取り出し、イヤホンをつけ、自分の好きな音楽を流し自分の世界に入ろうとしたその時だった。
「……おはよう」
かすかに聞こえた挨拶。その声がする方向に目を向ける。
柔らかな雰囲気と美しさが共存する桃色の髪。自分の目線よりも少し高いところから恥ずかしそうにこちらを見つめる青い瞳。ふわふわと巻かれた髪から香るフローラルな香りは思わず肺がいっぱいになるまで吸い込みたくなる。
「ひ、ひめ……かわ、さん?」
重い何かが突然動いたような音がした。それは錆びついた歯車か、それとも時計の針か。
ずっと止まっていた何かが動き始めた。