神を祀るは楔の王剣、世界が祝しは詠歌の天秤 其ノ伍
―――仮想の身体は疲労とは無縁だが、状態異常という形で「息切れ」は存在する。
そしてそれとは別に、精神的な疲労が極度に積み重なる事で疲れ知らずの肉体と齟齬を引き起こし、錯覚として身体疲労を感じてしまうのが『幻感疲労』という仮想現実特有の現象だ。
息切れのデバフも患っていないのに、呼吸が著しく乱れる。更には仮想感覚として成しているだけに過ぎない呼吸の不全から脳がエラーを起こし、ステータスに異常が無いにも関わらずアバターの動きが鈍る。
仮想世界に熟達した者でも数時間、初心者であれば極短時間であっても、緊張状態で過酷な戦闘行動を連続していると症状が出る。仮想現実特有の常識として、一般にも周知される「仮想疲れ」というやつだ。
「―――ッ…………ッ……!」
これまでも幾度となく経験しているその感覚に身体が引っ張られるのを感じながら、ソラは奥歯を噛み動き続ける。
―――戦闘開始から、もうすぐ一時間が経過する。
《天秤の詠歌》の連続切り替えを前提とした、二人とものステータスを大幅に底上げした状態での高回転スイッチ。
互いに断続したインターバルを挟みながら、なおかつ相手には息つく暇も与えない終点無き連続攻勢。
怪物としか表すことの出来ない【神楔の王剣】相手にもこの立ち回りは極めて有効性を示し、八段あったステータスバーは数え切れない削りによってその数を半分にまで減らしている。
―――けれど、限界は既に見えていた。
二人とも治療薬などあっという間に使い果たし、回復手段は随分前からソラの《クオリアベール》ただ一つ。そしてその唯一の手段に頼るごとに、【剣製の円環】の運用にも欠かせない魔力が枯渇へと近付く。
そしてここまでの一時間で判明した【神楔の王剣】が持つ性質―――《防具破壊の剣》と《武器破壊の鎧》の二つによって、ソラはまだしもハルの手札がボロボロにされていた。
彼の持ち味と言える数多携行した武器類は、軒並み耐久値を全損させて沈黙。大剣を蹴り返すようにして無茶な回避をした際に、【砂鱓の革靴】まで破損してしまった。
ソラの魔剣リソースは残りわずか。そしてハルの手に残るのは不壊属性を持つ魂依器、【白欠の直剣】ただ一振りのみ。
―――ここまで、かな。
長時間に渡り極限の集中力を要求され続け、ただひたすら愚直な綱渡りを遂げてきた頭が、ぽつりと呟いた。
それは弱音ですらなく、単なる事実。既に目を背けたとて消えないところまで、破綻のタイミングは差し迫っているのを感じてしまう。
―――もう十分に頑張った。
言い訳でもなく、本心からそう思う。
―――間違いなく身の丈に合わない敵相手に、誇っても良いくらい。
ハルだって、きっと終わった後に同じ事を言うはずだ。
―――お互いよく頑張った。それでまた、いつか再挑戦しようって。
ソラのパートナーは普段通りの無邪気な、それでいてどこか余裕のある笑顔で笑いかけてくれるはずだ。
そうして自分もまた、一緒に笑って―――でも、きっと悔しく無いはずがなくて。
「っ……負けたく、ない……!」
掠れながらも、ハッキリと溢れたその一言こそが本心。
だからこそ二人とも、不倒の壁に挑み続ける。
爪も牙も折れかけで、思考も脚も回らなくても。目前に迫った敗北を認めながらも、遥か彼方で瞬く打倒から目を背けることが出来ない。
「ッ―――ソラ……!」
焦る声音は、足が絡れて回避が遅れた自分への警告。
勿論、分かってる。だから既に《天秤の詠歌》を傾け、力を抜いた身体をふわりと後ろへ倒し始めていた。そうすればほら―――次の瞬間には、ハルの腕に抱かれて宙を舞っている。
悠々と【神楔の王剣】の頭上まで飛び上がったハルに抱えられながら、彼の腕をトンと一つ叩く。言葉など無くても伝わるという確信のもと―――果たしてハルは、間髪入れずに応えてくれた。
間断無い《天秤の詠歌》の再傾。AGIとDEXを上乗せした身体を捻り、自分を抱えるハルの腕に立つ。
グッと力を溜めたのは二人同時―――押し込まれた彼の掌をカタパルトにして射出された瞬間には、既に攻め手は準備を終えていた。
「二連ッ……!」
頭上からの急襲、残り僅かなリソースで放つ魔剣は牽制が主題。回避から数秒と間を置かない反撃に当然とばかり反応した【神楔の王剣】は、大剣を繰り二つの礫を叩き落とす―――だけに留まらず、余力でついでとばかりにソラへと大剣が振るわれる。
斬撃の名残、それすらも致死。かすりでもしたら一撃で真っ二つにされかねない凶刃だが、予期していれば話は別。
先行させた魔剣二本を撃ち落とし、その流れでソラを狙う軌道―――繋がれたラインは、ソラの描いていた予測にピタリと重なっていた。
「ふうッ……!!」
握り込んだ砂剣を動かして、空中で強引に身体を横へずらす。触れるような距離で大剣の腹を滑走するかの如く、我ながら普段のハルにとやかく言えないような曲芸じみた回避。
そのまま剣身の終点で鎬を蹴り付けて―――落下の加速度と捻転力を存分に乗せた一撃を、巨騎士の頭に叩き込んだ。
―――実際、やった直後に自分でビックリするんだよね。
サラリとこなす曲芸にツッコミを入れた際、ハルが頰を掻きながら嘯いていた言葉が浮かんで、ひどく納得してしまう。
成程。確かにこれは、自分で自分にビックリしてしまう―――
《天秤の詠歌》の再傾。会心の一撃で反動に浮いた身体を、再点火したステータスでもって宙を駆け抜けたハルが攫う。
一瞬の視線のやり取り。どこか呆れたように笑う彼の視線の先―――はて、自分はどんな顔をしていたのか。こんな状況でも出番を忘れない気恥ずかしさに従って、ソラはすぐに顔を背けてしまった。
◇◆◇◆◇
仰天するようなスーパープレイを演じたソラをキャッチして、痛打への反撃に振るわれた大剣を掻い潜り一目散に【神楔の王剣】の間合いから離脱する。
およそ一時間にも及ぶ死闘の最中、何度も焼き直した仕切り直しの形だ。半端な距離だと執拗な追撃に追い回される事になるが、広間の半径以上に距離を取ると【神楔の王剣】は決まって大剣を構え直して静観の姿勢を取る。
明確なブレイクポイントをプレイヤー側のトリガーで引き起こせる……というのはゲーム的に有情もいい所だが、一度に許されるインターバルは長くない。
「……ソラ、平気?」
もはや抱えられるという状況に慣れ切ってしまったのか、大人しく腕の中に収まる相棒を下ろしながら様子を気に掛ける。
微かによろめきながら降り立った彼女も、俺と同じく酷い幻感疲労に苛まれている事だろう。振り返って見せた顔色は、あまり良いとは言えないものだった。
「……まだ、いけます」
引き攣り気味の笑みは、無理を押している証。聞く前からその返答を確信していた俺は、様々な感情を呑み込んでその言葉に頷いてみせるだけだ。
終わりなど無い経験値稼ぎ。
小数点以下の確率を追い求めるレアドロップ掘り。
どうしても倒せない強敵へ只管の突撃試行。
あまねく理由それぞれの、周回という名の地獄―――
娯楽のはずのゲームにおいて、そういった苦行へと自ら足を踏み入れる人種がゲーマーというもの。
その中でも、他人と連れ立ってそれら果てなき地獄を歩んだ経験のある者なら分かるだろう。
―――まだいける?
―――まだいける。
相反する感情をグズグズに溶け合わせながら、あと少しもう少しという言い訳に引き摺られて、永遠に底無し沼から抜け出せないような虚な時間。
どちらかが、或いは誰かが「ハイおしまい解散おつかれー」と切り出す事をひたすらに望みながら、絶対に自分の口からは言い出してなるものかと、使命感とも強迫観念とも取れる意味不明な感情のもと無限に精神を削り続ける狂気の沙汰。
それでもなお沼に浸り続ける理由は―――その行き着く先、地獄の果てに掴み得るかもしれない何かの輝きに魅せられているから。
横目に窺った顔色は確かに悪い。けれどその瞳だけは、未だ光を失ってはいなかった。
「……はは」
思わず漏れた笑い声に、ソラが振り向く。「どうしたの?」と大きな瞳が不思議そうに見上げてくる様は見慣れたもの……しかし疲れ切ったその顔に浮かぶ表情は、ほんの数時間前までの彼女とは一線を画すと言えるだろう。
そんな場合では無いというのに、我ながら「ついにやっちまった」と思わずにはいられない。
つまりはそう……幼気な少女(推定)に修羅道とも言うべきゲーマー気質を芽生えさせてしまったな、と。
ソラの視線になんでもないと首を振り返しながら、一本きりとなってしまった愛剣を握り直す。ブレイクタイムは十分とは言えないが、【神楔の王剣】がそろそろシビレを切らす頃だ。
結末は既に見えている。おそらくは次、良くてその次あたりが年貢の納め時となるだろう。きっとソラも、俺と同じように幕引きの気配は感じているはず。
―――けれど、
「ソラ」
笑ったきり黙っていた俺を見つめていたソラと、視線を交わす。
もう随分と続くユニゾンの如き以心伝心の延長、それだけで互いの心を繋げられたような心地良い感覚に、どちらからともなく相好を崩す。
「……はい」
それは俺の呼びかけに対する答えではなく、後に続くはずの言葉に応える声。
この一時間に渡る自分達の悪足掻きは、決して無駄な足掻きでは無かったと、互いに頷き合う。
まだまだ見果てぬこの世界の高み、そこへと続く何かを掴んだ。その確かな手応えをそれぞれに肯定して―――この敗北を飲み下そう。
「リベンジマッチ、予約しとかないとな」
「抜け駆けはダメですからね。その時はちゃんと二人で、ですよ」
交わす言葉は軽く、互いの顔に浮かぶのは力の抜けた笑み。
負けを認めるのが堪らなく悔しいのは間違いない。けれども、仕方ないと納得できる程度には足掻いて見せたと胸は張れる。
「それじゃまあ……」
足を止め続ける此方に見切りをつけて、【神楔の王剣】が歩みを再開する。もう嫌というほど目に焼き付いたその挙動、鷹揚な足取りから殺陣ギアへぶち上がるまでの秒読みが始まった。
「最後は派手に―――と、いきたいとこだけど……」
腹に響く地響きを横目に、視界端に映るソラのステータスバーをチラ見して苦笑い。そんな俺の様子に同じく苦笑いを浮かべて、
「えへ……ごめんなさい、これが精一杯ですね」
右手の【剣製の円環】に光を灯し、僅かに二本の砂剣を創り出す。
燃費良しと言えども《天秤の詠歌》の長時間連続運用、加えて魔剣を雨あられと撃ち続けていればさもありなん。携行していた魔力回復薬は使い果たし、既に彼女のMPは枯渇している。
「まあ仕方ない。いっそ、仲良く突撃で締めようか?」
「そうですね……ふふ、当たって砕けちゃいましょうか」
俺の万歳アタックは見越していたのだろう。タイミングを合わせて撃つ予定だったのか、浮遊させていた砂剣を両手に納めてソラはクスリと笑ってみせた。
「タイミング、お任せしますね」
「あいよ、任された」
迫り来る巨体に、今更もう恐怖などないと言えば嘘になる。俺でさえもそうなのだから、ソラだって怖いだろうし圧力は感じているはず。
それなのに、こうして笑って隣に立ってくれている―――背中を預けていた守るべき少女は、自分だって戦いたいのにと無力を嘆いていた少女は、もうどこにもいない。
湧き立つ感情のままに、震えそうになる声を抑えるのに苦労した。
「―――っしゃ行こうッ!!」
「―――っはい!!」
目前まで迫った【神楔の王剣】が踏み込みに移る一歩手前。呼声に応えた相棒と共に、俺は全力で最期の突撃へと踏み切った。