とある少女の昼下がり
「…………ん、ぅ……」
ゆったりとした意識の浮上。夢の世界からの自律的な帰還に慣れるには、もう少し時間が掛かりそう。曖昧な感覚の手足に少しずつ力を込めて、起き上がろうと身動ぎをした女性―――少女の身体を、機械が検知して持ち上げてくれた。
自動で開閉する上蓋といい、飾り気のない機能的な外見といい、やはりゲーム機というよりは医療機器といった方が似合う雰囲気。何度目ともなくそんな感想を抱きながら起き上がり、時間を確認する。
本当ならもう日が暮れ始めるような時間を体感したというのに、現実世界の時計が示す時刻は、まだ午後の三時を回った程度だった
「……精神年齢だけ、いつの間にか大人になっちゃいそう」
理屈を何度聞かされても、イマイチ理解できない時間加速技術。果たして「中」で現実世界の仕事や勉強をした場合、それは【Arcadia】の非ユーザーから見たら明らかなズルなのでは―――
「ぁ、と……急がなきゃ」
物思いに耽っている場合ではない。早く支度に取りかからないと、昨日に続いてまた出番を取られてしまう。
少女はラックに掛かった羽織を部屋着の上から被り、慌てて自室を後にした。
「あら、今日はもう宜しいんですか?」
やはりというか、少女が目的の場所に足を運んだ時には既に先客がいた。
当たり前のようにエプロンを着けて、当たり前のように火の前で鍋の中身をかき回している女性が一人。その姿を見て、少女は不満げに頰を膨らませる。
「もう斎さんっ、休日のご飯は私の当番って言ってるじゃないですか!」
文句を言えばその女性―――夏目斎はコロコロと、冗談めかしてからかうように微笑んで見せた。
「ふふ、今日も昨日の騎士様と冒険に夢中かと思ったんですが」
「っ!ま、まだ変な誤解してる!本当にそういうのじゃないですからっ、ゲームですから!」
こういう時、すぐに顔に出てしまう自分が恨めしい。こういう誤解も、顔を赤くして弁解したところで説得力が無いのは自覚しているから。
昨夜初めての冒険に興奮冷めやらぬまま、彼女を捕まえて色々と語ってしまった自分が悪いのだ。からかわれるのは諦めて、ともかく彼女をキッチンから追い出さなければ。
どいてどいてと鍋の前から押しやれば、斎は「あらあら」とさして抵抗も見せずに場所を空ける。分かり易くジト目を向ける少女を見やる視線は、生暖かさ百パーセント。母や姉のそれである。
手の回らない家事全般をしてくれている彼女には感謝が尽きないが、自分の役目まで強奪したりおかしな部分まで面倒を見ようとするのは勘弁して欲しいものだ。
ゲーム内で少し行動を共にしただけの男性に、一目惚れでもするようなチョロい女の子だと思われているのだろうか。あまり甘く見ないでもらいたい。
「まったく……お出汁、お味噌汁ですか?」
「はい。引き継いでしまって宜しいですか?」
「今日は洋食が良かったです」
「あらあら、では明日はスープにいたしますね」
「春休みなんだから明日も私がお料理当番ですっ!!」
お返しとばかりに放った憎まれ口は威力が足らず、するりと受け流されてしまう。斎の歳は確か二十代半ばだったか―――いまから十年そこらで、自分も彼女のような余裕を身につけられるものなのか。残念ながら想像が出来ない。
本格的にむくれ始めた少女の様子を見てとったか、からかいの雰囲気をあっさりと引っ込めて、傍らに控えた斎は柔らかく微笑む。
「機嫌を治して、またお話を聞かせてください。今日もまた、賑やかな冒険をされたのでしょう?」
彼女のこの雰囲気に、少女は弱い。和やかな姉のような、或いは穏やかな母のような眼差し。どうしてもくすぐったくて、恥ずかしくて、目を逸らしてしまう。
「まあ……そうですね、賑やかではありました」
「なら、お聞かせください。これでも私、昨日からお嬢様の冒険譚のファンになってしまいましたので」
本当にワクワクした様子を隠しもせず言ってくるのだから、この人は憎めない。けれども、見逃せない点は一つ。
「『お嬢様』なんて言う人には、聞かせてあげません」
「これは失礼しました。では―――そら様、どうかお話を聞かせて下さいませんか?」
「い・つ・き・さん?」
「もう、そらったら細かい事ばかり気にするんですから。早く楽しいお話を聞かせて頂戴?」
いいように手玉に取られている感が拭えずにムッとしつつ、少女―――そらは「仕方ないですね」とそっぽを向きながら、昨夜に続く冒険を話し始めたのだった。
少し短め。夕方以降に続けて更新します