前へ次へ
32/33

32、Time limit

三月一日になった。卒業式だ。

閉じたままの桜の蕾が、春の訪れを今か今かと待ちわびている。


桜井先生も来ていた。後で体育館裏で逢う約束をした。

ちなみに、桜井先生は髪を切っていた。出会った頃と同じ、肩までの長さになっていた。渡り廊下で出会った時のことを思い出す。長い髪も似合うが、ボブカットもやっぱり可愛かった。


式は滞りなく行われた。校長先生の挨拶から始まり、卒業証書を受け取り、全てが終わって体育館を退場すると、『卒業式』と書かれた看板が運動場に移動されていたので、大勢の生徒や保護者が写真を撮ろうと、運動場はごった返していた。


空を見上げれば、無事に卒業できたことを祝福してくれているような快晴だ。

思えばこの一年いろいろあったが、なんとか乗り越えてきたぞ。

俺は心の中でガッツポーズをした。

卒業式の感動よりも、教師と生徒の縛りがなくなった解放感の方が何万倍も大きかった。どうやら俺は、束縛されるのが相当嫌いな自由人らしい。


「法曹だろ? なにを目指してる?」


一臣が聞いてきた。俺はにんまりして即座に返した。


「検察官」

「お前らしい。オレは弁護士。今は弁護士の数が多いから部が悪いが、子供の頃からの夢だったんだ」


やっぱりなと俺は思った。同時に、小学生の頃の記憶が鮮明に甦った。


「遼介、憶えてるか? よく、お前を付き合わせたな。小学校の屋上で裁判ごっこしてた」

「憶えてる」

「俺が弁護士で、お前が検察官だったな」

「ああ」

「異議ありって言いたくて、お互いに無理矢理、言い合ってたな」

「一臣は『逆転裁判』のゲーム、めちゃくちゃ好きだったもんな。すげー懐かしい」

「楽しかったな」


思い出話を過去形ですると、一臣が突然、片手で俺を抱き締めた。

周りに聞こえないよう、俺の耳元で静かに囁いた。


「愛してる」


驚く俺を離すと、目を細めて優しく笑った。


「生まれて初めて口にした。お前にどうしても伝えておきたかったんだ」

「…………」

「じゃあな」


俺の背中を叩いて離れた。

覚悟はしていた。でも、離れ難い。

激しい喪失感が俺を襲った。


ここに誰もいなければ泣いていた。いや、号泣していた。

一番の親友を俺は今から失おうとしている。本当に俺はこれでいいのか。


今じゃなかったら、二人きりだったら、俺も同じ台詞を言っていた。

今までのようにお前のそばにいられるなら、先生ではなくお前を選んで生きていくのも、また悪くない人生だなとーー


「……なぜ今、伝えた? 二人の時じゃなく、どうして今なんだ」

「お前のことだ。今じゃないと、お前はオレを選ぶだろ。後悔するぞ」


この男はーーどこまでも俺のことを分かっている。


「バレたか」

「バレバレだ」

「いつからバレてたんだろう?」

「抱き締め返してくれた時だ。もうちょっと押せばイケるなと」


ハハッと思わず声を出して笑ってしまった。

あの時、無意識に抱き締め返していたのか。親友に好意がバレるというのは、めちゃくちゃ照れ臭いものだ。


お前にはいつまでも勝てる気がしない。もう負けでいいやって感じだ。


「一臣、ありがとう」

「ああ。お前がいない人生を過ごしてみる。どうなるか分からんが、それなりに大丈夫だろ」

「…………」

「オレを嫌わずにいてくれた。離れるのが淋しいと言ってくれた。その言葉だけで充分だ」

「…………」

「じゃあな」

「おう……」

「元気でな」

「おう……」


一臣が背中を向けた。俺から離れていく。もう二度と俺と会わないつもりなんだろう。


だが、そんなことは許さない。どれほど俺がお前のことを大切に想っているのか。会えなくなることを淋しく思っているのか。お前はきっと想像もできないだろう。


俺のSが発動した。


限りなく愛情に近い友情で留めてくれたお前に、俺は限りなく友情に近い愛情で応えてやる。


「一臣」

「なんだ?」


振り返った一臣に、


「これ、やるよ」


と、ある物を投げてよこすと、一臣は片手で受け取った。


「いつか法廷で会おうな」


にんまりと笑って、「お前のもくれよ」と続けると、


「お前と闘うのは勘弁してくれ」


と、一臣は諦めたように笑った。


「お前は本当にめげない奴だな。検察官にむいてるよ」


そう言って、一臣も俺と同じ物を投げて寄越した。





卒業式の余韻が残ったままの人混みを抜けて体育館裏に行くと、桜井先生が待ってくれていた。


「先生」


俺の声に、先生はすぐに俺に気付いて、満面の笑みを浮かべてくれた。お互いに急いで歩み寄る。なんか、自然とウキウキする。もう教師と生徒じゃないんだ。


「卒業、おめでとう」

「ありがとう。 待たせたっ」

「ふふ、待ってたっ」


笑顔の先生に、俺は手を伸ばして先生の右手を取った。


「俺の第一ボタン、あげる」


受け取った先生は不思議そうに首を傾げた。


「第二ボタンはどうしたの?」

「ごめん、他の人にあげたんだ」

「ええっ!? 私以上に好きな人がいたのっ!?」


あまりにびっくりしている先生に、俺は思わずにんまりしてしまった。


「嫌なんだ?」

「…………」

「嫌なんだな?」

「…………」

「ヤキモチだな?」

「……びっくりしただけです」


視線を逸らした先生に、ぶふっと俺は吹き出した。なんという絵に描いたごまかし方だろうか。ヤキモチを焼くのが本当に下手だなぁと笑ってしまう。


「別に先生以上というわけではないんだけど、まあ……好きな人がいた」


初めて口にしてーー実感した。

ああ、好きだったんだなぁと胸に響いた。もしかしたら、俺の初恋だったのかもしれない。


「俺のことをずっと想ってくれてたから、体はあげられないし、せめて第二ボタンだけでもあげようかと……」

「あれ? 他のボタンは?」

「川島たちが持ってった」

「ふふふっ、モテモテね。ありがとう」


柔らかく笑って、先生は第一ボタンを受け取ってくれた。


「卒業式だし、お祝いは何がいい?」

「キスがいい」


即答した俺に、先生は今までみたいに困った顔はしなかった。禁止とも言わなかった。ただ嬉しそうに、「うん」とはにかんで笑ってくれた。



どこかで聞いたことがある。憧れは理解から一番遠い人だと。


確かにそうだったかもしれない。俺はお前のことを少しも理解していなかった。でも、カミングアウトをしてくれたあの時から、少しはお前のことを理解できただろうか。


ずっとカミングアウトせずにそばにいようとしてくれた草食系なところも、友情を大事にしてくれたところも、時々、我慢できずに肉食系になって迫ってきたところも、またすぐに罪悪感で落ち込んで離れようとしてくれたところも、なぜかすべてが愛おしい。


先生と出逢っていなかったら、俺とお前はどんな風になっていたんだろう。先生と出会わずにあの熱い抱擁を受けていたら、お前と愛し合っていただろうか。


今となっては分からない。だが、そうしてやりたかったと思う自分がいる。俺はお前のことが、まだかなり好きなようだ。


LINEをしても、きっとお前のことだから返事をしないだろう。俺とは会おうとしないだろう。お前は俺のことを忘れたいかもしれないが、俺はお前と会ってたくさん話したい。

いつか法廷で会える日を夢見て、俺はお前に追い付けるよう、また頑張って勉強する。お前は頑張るだろうから、俺も頑張れる。



目の前で、先生が優しく微笑んでいる。俺だけを見ている。

さっきまで、運動場から卒業式の余韻が騒々しく聞こえていたが、どういうわけか、まったく耳に入ってこなくなった。一切の音がなくなった。


もう、目の前の彼女しか見えない。


俺は美和子の両肩に両腕を乗せて、優しく包み込んでキスをした。




それから一臣とは、音信不通になったーー




風の噂で……というか、バスケ部からLINEで聞いた。一臣は東京大学に受かっていた。法学部にあたる文科一類に行くらしい。

俺は東大はダメだった。早稲田大学に行く。


初めて、お互いに別々の道を歩くことになったーー

前へ次へ目次