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番外編:お嬢さんの欲しいもの

 白いロールスロイスに乗り込んでシートベルトを締めた瞬間、雛乃はふうっと小さな息を吐いた。

 小さい頃からずっと、石田と二人きりの車内は、雛乃が心安らげる数少ない場所だった。御陵家の一人娘ではなく、ただの〝雛乃〟でいられる場所。そういえば俊介に〝契約〟を持ちかけたのもこの場所だったな、と懐かしくなる。

 雛乃の溜息を聞きとめたのか、石田が気遣わしげに声をかけてきた。


「雛乃様、本日はお疲れになられたでしょう」

「……いえ、大丈夫です」


 そう答えたものの、実際のところはかなり疲弊していた。僅かな頭痛を感じ、こめかみを押さえて目を閉じる。

 ずっと笑みを貼りつけていたせいか、頬がひくひくと痙攣している気がする。黒髪に輝くダイヤの髪飾りも、揃いのイヤリングも、やけにずっしりと重たく感じられた。


「雛乃様」


 名前を呼ばれて、雛乃は瞼を持ち上げる。バックミラー越しにこちらを見つめる石田は、口元に優しい笑みを浮かべながら言った。


「今日は朝から慌ただしく、きちんとお伝えできていませんでしたね。お誕生日、おめでとうございます」

「……ありがとう、石田」


 石田からの祝いの言葉に、まるで胸に火が灯ったように温かくなった。先ほどまで嫌と言うほど浴びていた、上っ面だけの祝辞とはまったく違う。彼だけはいつだって、雛乃の誕生日を心の底から祝福してくれるのだ。


 今日は、雛乃の二十一歳の誕生日だ。昨年のような大規模なパーティーはないにせよ、父と共に親戚やお世話になっている方たちへの挨拶回りをしなければならない。朝からあちこちに連れ回された雛乃は、ぐったりしていた。


(でも、この程度のことで弱音を吐いてはいけませんね……俊介と結婚するためですもの)


 松ヶ崎との婚約を破棄したことで、ただでさえ雛乃への風当たりは強くなっているのだ。父を説得するにあたって、自分に味方してくれる人を増やしておいた方がいい。

 そんな打算的なことばかり考えてしまう自分に、うんざりする。本当はもっと素直に、歳を重ねたことを喜びたかった。


(……普通に……当たり前みたいに、好きな人と誕生日を過ごせればよかったのに)

 

 スマホを開いて、SNSのアプリを立ち上げる。トーク画面に残る通話履歴に、雛乃はほっと表情を緩ませた。日付が変わる瞬間は、俊介とビデオ通話をしていたのだ。「おめでとうございます」と微笑んでくれた俊介の顔を見たときには、これ以上望むものなんてない、と思っていたのに。

 ロールスロイスが赤信号で停車する。二十二時のビジネス街は明るく、目の前のビルにもたくさん灯りが点いている。俊介も、まだ仕事をしているのだろうか。車が発進すると同時に、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺める。黙りこくっていると、石田がふいに問いかけてきた。


「……雛乃様。お誕生日のお祝いに、何か……欲しいものは、ございますか?」


 石田の問いに、雛乃は唇の端を緩く持ち上げた。

 今の雛乃が欲しいものは、たったひとつだけだ。それでもまだ、口にすることはできない。


「いいえ。何も……ありません」


 


 すっかり夜も更けた二十三時。帰宅するなりドレスを脱いで、アクセサリーを外すとホッとした。入浴を終えた雛乃は自室に戻ると、ふかふかのソファに身体を沈めた。

 ここから眠りにつくまでの間は、雛乃にとって貴重な自由時間だ。スマートフォンを取り出し、じっとディスプレイを眺めてみる。

 結果はわかりきっているくせに、一縷の望みをかけて、SNSアプリを開いてみる。もちろん、愛しい恋人からのメッセージは届いていない。今日も休日出勤だ、と俊介は言っていた。こちらからメッセージを送るべきか、少し迷う。[こんばんは。今日は_」まで書いたところで、結局消してしまった。

  雛乃よりも一足先に社会人になった俊介は、毎日忙しそうにしている。彼の仕事は大変な激務らしく、日付が変わるまでに帰宅できないこともしょっちゅうだ。特に今の時期は、年末までに終わらせなければいけない仕事が山積みになっているらしい。時間があるときは顔が見たい、と思っているのだけれど、疲弊しきって目の下に隈を作っている俊介を付き合わせるのも申し訳なく、最近はまともにビデオ通話もできていなかった。

 俊介は一人暮らしだ。こんなに忙しくては、きっと自炊もできていないだろう。きちんと栄養のあるものを食べているだろうか。ちゃんと睡眠をとっているのだろうか。本当は今すぐ彼の元に飛んで行って、美味しい食事を作ってあげたい。彼の部屋のベッドに二人で潜り込んで、手を繋いで一緒に眠りたい。


(もし私が、普通の彼女だったら……そんなことも、してあげられたのかしら)


 雛乃と俊介の関係は、いろんな意味で普通ではない。会うことが許されているのは、月に一回の二時間だけ。運転手である石田の見張り付きで、大抵カフェでお茶をするか、散歩をするだけで終わってしまう。映画の一本さえロクに観れない。彼が今までの恋人と繰り返してきたようなデートとは、きっと雲泥の差があるのだろう。

 俊介はいつも、雛乃さんと一緒にいるだけで楽しいですよ、と笑っているけれど――雛乃はときどき不安になる。彼は本当に、自分と一緒にいて幸せなのだろうか。もっと自由な交際ができる相手と付き合った方が、いいのではないか。

 雛乃は立ち上がると、クローゼットの脇に置かれたアクセサリーボックスを開いた。一番上には、白いパールがあしらわれたバレッタが入っている。去年の誕生日に、俊介からプレゼントされたものだ。二人でピザを作って食べて、それからローマの休日を観て――楽しかったな、と雛乃は頬を綻ばせる。あの頃の二人は、お金で繋がった偽りの恋人同士ではあったけれど、彼と過ごした幸せな時間は、決して偽物ではなかった。

 

(俊介に、会いたい)


 月に一度の逢瀬しか許されない自分たちの立場は、よくわかっているつもりだ。これからもずっとそれでも、今日この瞬間だけは――どうしようもなく、彼に会いたかった。


 そのとき、カーテンの向こう――窓の外で、ごく小さな音がした。

 空耳かしら、と思っていると、今度はもう少し大きな音で、こつん、と響く。ガラスを叩くような音に、雛乃は息を呑む。おそるおそる窓に近づいて、カーテンを引くと――バルコニーに立つ人影を見て、雛乃ははっと息を呑んだ。

 慌てて窓を開けると、ひやりと冷たい十二月の夜風が部屋の中に吹き込んでくる。色素の薄い茶色の髪が、月あかりに照らされて、さらさらと揺れている。口を開いた雛乃は、湧き上がってくる感情のままに彼の名前を呼ぼうとした。


「しゅんっ……!」

「しーっ、雛乃さん。静かに」


 伸びてきた手が、雛乃の口を塞ぐ。目を丸くしている雛乃の顔を覗き込んだ俊介は、ほんの少し意地悪にも見える、いつもの笑みを浮かべた。


「こんばんは、雛乃さん」


 彼にそう囁かれた瞬間、自分が部屋着であることを思い出して、無性に恥ずかしくなる。部屋に戻って着替えようかと思ったけれど、あっというまに彼の腕の中に閉じ込められてしまい、それは叶わなかった。


「あー……久しぶりの雛乃さんだー……癒される……」


 雛乃をきつく抱きしめたまま、俊介がしみじみと呟く。雛乃も目を閉じて、しばらくのあいだ彼の香りと温もりを堪能していたけれど、やがてはっと我に返った。

 

「しゅっ、しゅ、俊介、あのっ……ど、どうやって、ここまで?」


 こんな時間に俊介が雛乃の元を訪れることを、父が許すはずがない。当然、入口の守衛に追い返されるだろう。御陵家のセキュリティは完璧だし、簡単に侵入できるはずがない。雛乃が不思議に思っていると、俊介はニヤリと唇の両端を上げた。


「石田さんに頼んで、ここまで手引きしてもらいました。大事な大事なお嬢様へのお誕生日プレゼント、らしいです」

「石田、が……」


 石田と車内で交わした会話を思い出す。あのとき雛乃が本当に望んでいたことを、石田は全部お見通しだったのだろう。そして雛乃のために、俊介をここまで連れてきてくれたのだ。本当に、石田にはいつまでたっても敵わない。


「でも、俊介……ここは二階ですよ。どうやって、ここまで来たのですか?」


 雛乃が首を傾げると、俊介は無言でバルコニーの外を指差した。彼の人差し指の先には、見事に剪定された松の木がある。あそこから枝を伝えば、バルコニーに飛び移ることも可能だろうが……。


「も……もしかして、あちらから登ってきたのですか!?」

「はい。木登りなんて、久しぶりにしましたよ」

「そ、そんな危険な……! それに、あなたはたしか、高所恐怖症でしたよね?」


 観覧車に乗ったときも、スカイツリーに行ったときも、俊介は恐怖で青ざめていた。それなのに、わざわざ木を登って、こんなところまで来てくれるなんて。

 

「そんなの、雛乃さんに会うためなら、なんてことありませんよ」


 雛乃の心配を、俊介は軽く笑い飛ばす。彼の笑顔を見ていたら、落ちて怪我でもしていたらどうするつもりだったんですか、なんて文句も引っ込んでしまった。今はどうしたって、大好きな恋人に会えた嬉しさが勝ってしまう。


「……ばか……!」


 やっとのことでそれだけ言うと、雛乃は俊介にぎゅうっとしがみついた。その体温が、香りが、心臓の鼓動が。彼の存在を、雛乃に嫌というほど伝えてくる。


「……お誕生日、おめでとうございます」

 

 直接言えて、よかった。俊介はそう言って、雛乃の背中に腕を回してくる。

 俊介の言葉が、雛乃の胸を驚くほどに温かく満たしてくれる。不自由でも、普通じゃなくても。それでもやっぱり、彼じゃないと駄目なのだ。

 

「……あ」

「? どうか、しましたか?」

「しまった、雛乃さんへの誕生日プレゼント……石田さんの車の中に忘れてきました。くそ、慌ててたから……」


 俊介がそう言って、悔しそうに舌打ちをする。「すみません」と詫びた彼に向かって、雛乃はかぶりを振って微笑んでみせる。


「かまいません。……欲しいものは、もう貰いましたから」

「へ、そうなんすか? 雛乃さん、欲ないなあ……」


 俊介はなんだか不服そうに眉を寄せて、雛乃はくすくすと笑みを溢す。つま先立ちになると、彼の耳元に唇を寄せて囁いた。


「では、もうひとつだけ。……プレゼントを、いただけますか?」


 俊介は少し考えた後で、雛乃の意図を察したらしく、「お安い御用です、雛乃さん」と恭しくお辞儀をしてみせる。ゆっくり目を閉じた瞬間に唇に触れたのは、今の雛乃が一番欲しいものだった。

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