【銀の魔女と黒き竜】遭難の森で僕が彼女に救われるまで
「暑い……死ぬ……」
世界歴一○○○八年、六ノ月。うだるような暑さの夏の日に、僕は一人、森を行く。
起伏に富んだ山地を覆いつくすは針葉樹の群生。日光が大木に遮られているために草本はやや少なく、代わりに水苔や地衣類が岩肌や木の幹を包み込むように育っている。この場所は高緯度に位置するため初夏までは涼しいのだが、夏も本番となると蒸すような熱気に包まれる。まして激しく運動をした後ではなおさら暑い。
僕がこの森に足を踏み入れたのは、一帯の生態調査の為だった。しかし、調査の途中で大岩のような巨大クマに遭遇し、無我夢中で逃げる中で仲間達と逸れてしまったんだ。何があっても良いように武器は携行していたのだけど、立ち上がると人の背丈の三倍を優に超える怪物相手ではどうしようもなかった。
あのクマ……噂に聞く森の主じゃなかろうか。しかし彼女の生息域はもう少し北のはず。餌を求めて南下してきたのだろうか。それとも、以前の調査が間違っていた……? 僕は色々と考えを巡らせたが、ぶんぶんと頭を振って思考を追い払った。今はそんなことを考えている場合ではない。
「くそ、なんて暑いんだ。そろそろ水分を補給しないと」
僕は額にある第三の目“頭頂眼”に力を込める。水魔法を起動して大気中の水蒸気を凝結させ、飲み水を確保するためだ。僕は目の前に形成された水塊に吸い付くようにして口を付けた。冷たい刺激が喉を通り過ぎて胃袋に落ちていく。うまい。
水分補給だけでは駄目なことを研修で習っていた僕は、次いで携帯していた岩塩でミネラル補給をしようとした。そうして腰に手を当てた時、とんでもないことに気が付いた。
──どうしよう、ポーチが無い。
あの中には岩塩だけでなく方位磁針や地図もあるんだぞ。慣れない森の中で絶対の指標となるべき物をこんなにあっさり紛失するなんて。きっと、巨大クマから逃げる際に、どこかで落としたのだ。
「落ち着いて行動しよう。幸いバックパックは無事なんだ。干し肉さえあれば、一週間は生きられる」
自分自身に言い聞かせるように、わざと声に出して呟いた。そうでもしないと正気を保てなかったから。
ところが……僕はそれから三日三晩森の中を彷徨い歩くことになった。日が経てば経つほどに焦りが増し、焦れば焦るほどに方向感覚を失っていった。
食料を節約しようとして干し肉をケチったのも良くなかった。栄養不足から思考力が鈍っていく。やることなすことが悉く裏目に出て、ドツボに嵌まっていくのだった。
──
─
遭難から四日目。僕は川を探して歩いていた。
この辺りの森は広葉樹が無く、下草もまばら。食糧となりそうな木の実も山菜もほとんど存在していなかったから、川魚だけが頼りだ。
ではどうして今まで川辺に行かなかったのか。それは、食べ物の可能性と引き換えに命を落とすリスクが大きくなるからだ。流水によって落ち窪んだ地形は、一度降りたら最後、引き返せなくなる袋小路になっていることがある。そうやって死んできた遭難者の話は、調査員の研修でも散々聞かされたのだ。
「もう少し、真面目に魔法の勉強しておくんだったな」
僕が扱える魔法なんて水と火くらいなもの。そのお陰で遭難しても数日間は生きられているのだけれど、風魔法も練習すべきだったと激しく後悔している。風魔法が得意な者ならば高い所まで飛び上がって帰り路を見定めることもできるし、普通は登れないような崖を超える手助けにもなったろう。自分の不勉強さが憎い。
僕はとにかく高度の低いところを目指して進む。すると、どこか遠くから川のせせらぎの音が聞こえてきた。
「しめた」
まだ手に入れたわけでもないのに魚の串焼きを想像してしまい、唾液が口内を満たす。僕は駆け足で音のする方へ急いだ。倒木を飛び越え、ちょっとした崖を滑り降りて川へ急ぐ。こうして川辺に辿り着いた時、僕は自分の目を疑った。
「あっ……」
白い生き物がいた。一糸纏わぬ姿で、頭から川の水を被り、身を清めている。一瞬頭をよぎったのは、水の精霊。人の姿をして男を惑わせる魅惑の妖精。
それは、この世の美しさを掻き集めて形にしたような女性だった。ああ、ついに幻覚が見えるようになったのかと目を擦るも、彼女は依然としてそこにいる。これは現実なんだ。
彼女の浴びた水は、艶めく銀色の長い髪を伝い、雫となって白い肌に落ちる。柔らかなのに引き締まった身体のライン。至る所にある傷痕が、逆に彼女の完全さを引き立て、情欲を煽る。
「何だよおにーさん。……覗き?」
澄んだ水のような声で彼女が僕に問い掛けた。まさか、茂みに隠れていたのに気付かれていたなんて。
「いや、その……ごめん」
確かに水浴びを目撃し、見惚れてしまっていたのは事実。僕は素直に謝罪をした。
彼女は「そ」と一言だけ呟いて、風魔法で身体の水気を弾き飛ばした。陽光に飛沫が煌めく。彼女の真っ白な裸体が神々しさを増したよう。
「あ、胸のサイズはそんなに……」
「あん? 何か言ったか」
「いえ、すいません」
彼女は布で残りの水分を拭き取り、衣服を身に着け始めた。あまりに堂々とした態度なので、じっくりと観察したくなる。が、それは人として駄目だ。僕は美女の生着替えを前に視線が吸い寄せられそうになるのを必死で堪え、懸命に顔を背けていた。
「耳まで真っ赤にして、あんた可愛いやつだな。どうだ、俺の裸は」
彼女はよほど自分に自信があるのか、肉体の評価を求めてきた。サバサバしていて男性的な性格をしているようだ。しかし、彼女の美しさは本物だ。僕は素直な感想を口にする。
「が、眼福でございました」
「そうだろう、そうだろう」
僕の回答に彼女の声色は明るくなる。恐る恐る彼女の方に目をやると、既に着替えは終わっており、白き肌は黒衣に包まれて露出はほとんど無くなっていた。安心からか力が抜けて、僕は大きく息を吐いた。
彼女はそんな僕の方へ近づいてくると、下から瞳を覗き込むようにして言った。
「それで、お前は何なんだよ」
彼女が顔を近づけてくる。左右の瞳は黄金色なのに、額にある頭頂眼は深紅であった。不思議な風貌。顔を眺めていると、魂ごと吸い寄せられてしまいそうだ。
「道に迷ってしまったんです。方位磁針や地図も無くしてしまって」
「そうか。そりゃ大変だな」
彼女は唇に指を当てて何か思案する素振りを見せると、急に悪戯っぽい表情に変わる。そして僕のバックパックを指さしながら、こう言った。
「お前さ、その中に何が入ってる?」
「え? この中身……ですか。これは、ちょっと」
「いいから見せろよ」
僕は狼狽えていた。この中には干し肉と、今回の調査の際に偶然発見したある物が入っているのだ。あまり人には見られたくないくらい希少価値のある物だ。
案の定、彼女はそれが欲しいと言ってきた。その代わりに僕を付近の村まで連れて行ってくれるのだという。これを渡せば、僕は助けてもらえる……? でも、これは。
「何を迷うことがあるよ。自分の命と宝石と、どちらが大切なんだ」
「それは……」
僕が持っていたのは金竜石の大きな結晶。たまたま調査に入った洞窟に鉱脈を発見し、サンプルとして回収したのだ。
今回はクマに襲われたせいで生態調査などは不完全な状態で中断されてしまったし、仲間たちが無事なのかもわからない。現状、この石が僕の唯一の成果物なんだ。何も持たずに帰還したところで、周囲の人間からどんなに責められるか分からない。
そのことを伝えると、途端に彼女は気だるそうな顔つきになり、拳で僕の胸を軽く小突いてくるのだった。
「何寝ぼけたことをいてるんだ。生きているだけで儲けものだろう。今、この瞬間に何が一番大切なのかの判断を見誤るなよ」
彼女の言うことはもっともだ。だけど、僕にはこれを持って帰らなければならない理由がもう一つある。
「僕には病気の祖父がいるんです。彼は僕のたった一人の肉親で、子供の頃から僕を男手一つで育ててくれました。治療費を支払うためにも、成果報酬が必要なんです!」
「……じゃあなおさら生きて帰らなきゃ駄目じゃないか」
その通りだから、何も言い返せなくなった。僕が死んでしまっては元も子も無い。そんなことは分かっているつもりだったのだけど。
「まあ、とにかく。こいつだけは貰っておこうかな」
彼女は突然そんなことを言い出したかと思えば、僕の持ち物の中から干し肉の最後の一切れをひょいと摘まみ上げた。慌てて彼女を止めようとした僕の腕は、次の瞬間、見えない何かに弾かれて、明後日の方向の空気を掴む。きっと彼女が風魔法か何かで防いだのだ。
「俺の水浴びの観覧料だ。まいどあり~」
そう言うと彼女は手にした干し肉を口の中に放り込んでしまった。最後の食糧だったのに、こんなにも簡単に失ってしまった。
「ああ……ああああっ!」
酷い。酷すぎる。人を助けるのに対価を要求するどころか、大切な食糧まで奪うなんて。大体、遭難者を見かけたら見返りなど期待せずに助けるのが普通じゃないのか。この女は、どこかおかしい。
僕は女を睨みつける。しかし、彼女は気にも留めない様子で髪をかき上げ、空を見上げていた。僕のことなど既に興味を失ったみたいに。
「対価も払えないような男に、助ける価値は無い。まあ、せいぜい頑張って帰るんだな」
彼女はそう言って、宙にふわりと浮き上がった。ひょっとしたらと思っていたけど、やはりこの人は空を飛べるのだ。そうでもなければ、こんな軽装で、持ち物も無く大森林地帯の奥へは来れないだろう。
「まっ……」
“待って”と言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。誰がこんな奴に助けなど求めるものか。こんな人の気持ちも分からないような奴に。ああ、分かったよ。そこまで言うなら僕は自力で山を下りてやる。食糧だって、そこの川で何かを捕まえてしまえば良い。こうなれば川底の虫でもなんでも食べてやるさ。
そうして僕らは別れた。僕はまた、独りになった。
緯度の高いこの地方は日が落ちるのが早い。気が付けば太陽は山の端に隠れ、空の明るさとは相反して、大地は一気に暗くなった。山そのものの影が一帯を覆うからだ。
魚は一匹も取れなかった。調査員の先輩なら投網で簡単に魚を捕まえてしまえるだろうに。残念ながら僕にはそのような能力も道具も無い。
不運はさらに重なるもので、天気は急速に崩れていった。完全な日没までは時間があるはずなのに、空を追う雲が、森を完全なる闇の中へと封じ込めてしまう。やがてポツポツと雨が降り始めて、そのうちに本降りに変わった。
「嘘……だろ」
僕は絶望していた。折角捕らえた数匹の虫は容れ物ごと増水した川に流され、本当に食べるものがゼロになった。やむなく下流へ移動してみると、そこには断崖絶壁と急峻な滝が。では上流はどうかというと、これまた窪地を囲むようにネズミ返しのような崖が存在していて、上に登ることも難しい。
僕は知っていた。川に降りれば袋小路に陥り、脱出が出来なくなる可能性があることを。そして──ここがその袋小路だったのだ。
雨が容赦なく体温を奪い、先ほど通れたはずの岩の上も、水位が上がったことで通行不可能となる。どんどん追い込まれていく状況に、僕は悟った。
──“ああ、あの人との出会いが最後のチャンスだったんだ”と。
僕は馬鹿だ。折角あの人が差し伸べてくれた手を、くだらない理由で払いのけてしまった。生きてさえいれば、お金など、また稼ぐことが出来るのに。生きてさえいれば、這いつくばってでも生き抜いて見せれば、その先にほんの少し光が差し込むことだってあったかもしれないのに。
……この責任は、僕自身が負わなければならない。自分の選択が間違っていたのなら、その結果はきちんと受け止めなければ。
だけど、最後にもう一度だけ。悪あがきをしてみたい。
僕はすぐには諦めなかった。とにかく、今は天候が最悪だ。濡れた肌では、いくら夏とはいえどんどん体温が奪われてしまう。失った体温は体に蓄えた栄養の消費に繋がる。雨が少しでも当たらないような木陰を探し、彷徨った。
しかし、気持ちを入れ替えただけで全てが好転するほど自然界は優しくは無い。やがて意識が朦朧としてくると、崖の側で座り込んでしまった。
寒い。寒すぎて、暑い。いや、熱い。体の中が焼けるように熱く感じられて、僕は上着を脱いだ。靴を脱いだ。裸になってもなお熱い。夏だからな、当然だ。
ジャッ。
「……?」
砂利を踏みしめるような音に気付いたのはそんな時だった。異様な気配を感じ、顔を上げてみると、目の前にいたのは全身が毛むくじゃらの化け物だった。人間サイズの、蜘蛛みたいな節足動物。暗がりの中、僅かな太陽の残光に浮かび上がる恐ろしいシルエット。
瞬間。一気に、僕の思考能力は戻ってきた。
「……ッ!!」
叫び出したい気分だったのに、肺が空気を飲み込む音が一瞬出ただけでそれ以上は悲鳴すら上げられない。僕の体は強張って、どうすることもできなくなってしまった。
こんな化け物、僕は知らない。この森を含む地域全体の生き物のテリトリーが、何かしらの事情で変化してしまったのだろうか。最初に出くわした巨大クマも、その影響で──?
化け物は四対の歩脚に加え、頭部に巨大な鋏角を持ち、四つの複眼で無感情に僕を見つめている。時折首をくるくると傾けながら、僕が捕食対象として適しているかどうかを見定めているようだった。
このまま動かないでいたら、見逃してくれるだろうか。
敵の生態が分からない以上、迂闊に動くのは命取りだ。もしも“動体”しか視認出来ないような生物ならば、動かないことでやり過ごすことは可能。しかしその逆だったら、逃げないと餌にされてしまう。
これは賭けだ。どのみち体温の低下で体は十分に動かせない。動かないことで敵が気付かず立ち去ってくれることを祈ろう。
「ギギ」
化け物の関節からなる音が、まるで奴の鳴き声のよう。奴は歩脚のうち最前列の一対をもたげて、アリの触角のようにくるくると動かし始めた。
その瞬間、僕は敗北を確信した。この動き……匂いと味を感じ取っているのだ。奴にとって前肢は触角の役割をもこなす優秀なセンサーなんだ。僕は、捕食される。
「う、うわああッ!!」
ようやっと声が出て、僕は四つん這いで走り始めた。体がうまく動かない。濡れた河原の石に足を滑らせ、僕はもんどりうちながら派手に転んだ。間髪入れずに怪物が飛び乗ってくる。奴にとっては絶好のチャンスだろう。僕は歩脚のかぎ爪を引っ掛けられて身動きを封じられると、奴の口器の鋏で腹の肉を──。
「“岩石弾”」
──この時の光景を、僕は一生忘れないだろう。
すぐ近くで澄んだ声が聞こえた次の刹那、怪物目がけて物凄い数の石礫が撃ち込まれ、奴は大きく吹き飛ばされたんだ。勢い余って僕の体も怪物に引き摺られることになり、腕や腿に抉れたような傷がつくことになったが、それでも拘束からは逃れることが出来た。
怪物は間もなく起き上がって石礫の飛んで来た方向へと頭を向ける。果たしてそこに立っていたのは。
「どうせこんなことになっているだろうと思ったよ、おにーさん」
そう、銀の髪の彼女であった。
彼女が光魔法を上空に放つと、途端に周囲は明るく照らされ、詳しい状況がようやく見えてきた。なんと、僕の周りには怪物が複数体集まって来ていたのだ。既に引いていたはずの血の気が、更に加速度を増して引いていく。
何のことは無い。じっとしていようが逃げ出そうが、この場所に留まった時点でデッドエンドだったのだ。銀の髪の彼女が来なければ、今頃俺の死体に怪物たちが集って咀嚼をしていただろうことは明白だった。
怪物は、否、怪物達は彼女に目標を変えて再度飛び掛かって来る。彼女はステップで攻撃を華麗に躱して敵の背後に回り、巨大な氷柱を魔法で生成すると、それを敵の腹部目がけて突き立てた。これを何度も繰り返し、何体もの怪物達に致命傷を負わせていく。
怪物達は薄く青みがかった体液を撒き散らしながら、のたうち回るような動きを見せる。節足動物に痛覚は無いと言われているが、敵は状況から自分達が生命の危機に瀕していると察したのか、歩脚をバネに跳び下がった。やがて一体が逃走を図ると、それに続くように周りの連中も尻尾を撒いて逃げ出した。
「あはは、逃がさねぇよ。お前らには俺の相棒の餌になってもらう」
女は首から下げていた笛のような物を口に咥えると、それに息を吹き込んだ。空気が漏れる際のノイズが聞こえるだけで、特段音が鳴っているようには感じなかった。が、彼女の奏でた“音色”は、人間ではない別の存在にしっかり届いていたようだ。
「ギャアアアウ!!」
けたたましく耳を劈く様な叫び声が、山に反響して鳴り響く。先刻打ち上げられた光球の灯りが、一瞬何者かに遮られてチラついた。
上に、何かいる。そう気が付いた時にはもう、銀の髪の彼女は“彼”に指示を出していた。
「焼き殺せ、クロウ」
上空にいた“彼”は、女の指令に従い急降下した。背中に生えた翼を大きく広げて、落下の勢いを制御しながら怪物の中の一体に飛び掛かる。捕らえられた怪物の体からは体毛が飛び散っている。こうなれば怪物はもはや獲物に過ぎない。“彼”は獲物を巨大な前脚で抑え込むなり、黒光りする鱗に包まれた自身の体を大きく膨らませた。
「ガアアアッ!」
“彼”が大きな嘶きと共に眩いばかりの閃光を発した瞬間、耳にしたのは、空気が弾け飛んだのではないかと思える程の轟音。目の前に落雷が撃ち込まれた時のようなビリビリとした振動を肌に感じる。眩んだ視界が元に戻ってきたときにはもう、怪物はピクリとも動いていなかった。
何が起きたのか僕には分かっている。銀の髪の彼女が召喚したのは全身を黒い鱗と甲殻で覆った大きなドラゴンだった。“夜闇のドラゴン”と呼称される彼らは、体から電流を発生させることで獲物を一撃で仕留めることが出来るのだ。故に、落雷というのは誇張表現ではない。実際に雷が落ちたのと変わらない事象が目の前で起こったのだから。
彼女と彼は、そのまましばらく僕にショーを演じて見せた。節足動物型の怪物の、殺戮ショーを。やがて全てが片付いた時、遂に僕は意識を手放した。
──
─
目を覚ました時、そこはドラゴンの翼膜の下だった。近くには焚火が置かれ、木の中の空気が爆ぜて心地よい音を鳴らしている。炎から発せられた熱は、ドラゴンの翼で抱き留められ、その下で横たわる僕をじんわりとあたためてくれていた。
冷えと恐怖とで凝り固まっていた筋肉がほぐれていく感覚。指は……動く。腕も、大丈夫。足首、膝、首……ああ、すべて正常だ。体を起こして状況を確認しよう。
上体を起こして周囲を見回した。どうやらここは、どこかの山肌に開いた窪みの中らしい。小さな小屋くらいはありそうな“夜闇のドラゴン”の体が完全に収まっているのだから、相当に広い場所だ。何かの災害で岩盤が崩落した際にできた洞穴かもしれない。
洞穴の入り口に目をやると、そこは完全なる暗闇。降り注ぐ雨音の響きから、そこが外だと分かる程度だ。どれくらい眠っていたのだろう。それに、あの人はどこに……。
「おお、起きたか。おにーさん」
頭上から声が聞こえた。どうやらドラゴンの上に彼女はいたらしい。
洞穴の天井付近から身を躍らせて、何かしらの力でふわりと降り立った彼女。銀の長髪、黄金の瞳に深紅の頭頂眼──それに、黒きドラゴン。今更になって、彼女の正体に思い至った。
「あなたは“銀の魔女”さんですか」
僕は恐る恐る尋ねた。
「そうやって呼ぶ奴も確かにいるな。本当は魔女の素質など無いのだけど、お前の言う“銀の魔女”は俺のことで間違いないと思う」
「そうですか。やっぱり」
最近、巷で流行の読み物がある。題は、《銀の魔女の風土記》。一頭のドラゴンを駆る銀の魔女なる人物が世界の国々や地域を巡り、土地の文化やその場所で遭遇した事件について紹介していく……という物語だ。人気の理由は事件のエピソードももちろん、各国の風土の描写がリアルで、かつ脚色が少ない点。一種の旅行雑誌のような役割も担っているほどなので、人々の間では『銀の魔女はフィクションではなく、実在の人物ではないか』と囁かれているのだ。まさかこの僕自身が彼女に出会えるなんて。
「あの、この度は助けていただき本当にありがとうございました。このご恩をどうお返しすれば良いのか……」
僕の金竜石などではもはや全然足りないだろうな。命一個分の対価となると、何を差し出せばよいのか見当もつかない。
ところが魔女さんは気だるそうな表情でこちらを見やると、こう言うのだ。
「ばーか。俺がお前を助けたのは自分の為だよ。感謝なんかいらないから、今から俺が言うものを大人しく渡せ」
「……はぁ」
僕は彼女の言いたいことが上手く呑み込めず、情けなくも気の抜けた声しか出せなかった。
「お前の金竜石、どこで手に入れたのかを俺に教えろ」
つまり渡すべきは無数の宝石が眠る場所の情報か。
「鉱脈の場所ですか。良いですけど、僕、ここがどこかも把握できていませんよ」
魔女さんはふふんと鼻を鳴らし、上を、というかドラゴンを指さした。
「そんなの、こいつに乗って上から地形見たらわかるだろ」
「乗って良いのですか!」
「良いも何も、お前を送り届けるのにどのみち乗せるつもりだったし」
あの書物の中に出てくる黒い龍に乗れるなんて、夢のような話だ。もしかすると、僕は死の間際に夢を見ているだけなのかも。
……なんてね。あの鮮明に記憶に焼き付いた、戦う魔女さんの姿が夢な訳がない。今肌に感じている焚火の暖かさが夢のハズがない。
「それで、今ある鉱石はお前が持っとけ。そいつをこっそり売って、爺さんの治療費の足しにすれば良いだろう」
彼女は金竜石一つではなく、鉱脈そのものを頂いてしまうつもりなのか。確かにそれならば莫大な利益を生み出せる。人間一人の命に値するくらいの礼にはなるだろう。
「でも、もしかすると僕の仲間が鉱脈の存在を局に報告しているかもしれませんよ。だとすると、今からその場所に行っても遅いんじゃ」
すると、魔女さんは真剣な面持ちで僕のことを真正面から見つめてきた。その視線に射抜かれそうなほどの圧を感じる。彼女はプレッシャーをかけてきているわけではないだろうが、なんというか存在そのものが大きく感じられるのだ。そんな張り詰めた空気の中、彼女は口を開いた。
「お前の仲間って三人か」
その通りだった。僕を含めて四人のチーム、それが今回の針葉樹の森探索メンバーだ。でも、どうして彼女はそのことを知っているのだろう。
「お前を見つけた後、他にも遭難者がいる可能性を考慮してしばらくここら一帯を捜索してみたんだ。そしたら、あるところに三人分の衣服や荷物が散乱していた。全部、食い荒らされていたよ」
「そん、な」
彼女が僕を置き去りにしたあの時、僕の仲間を探してくれていたのか。大切なものを判断できない僕にお灸を据えるという意味合いもあったのだろうけど、彼女は色々な可能性を考えてくれていた。有難いことだ。
でも、彼女の話が本当だとすれば、僕の仲間はもうこの世にはいないということになる。一人逸れてがむしゃらに逃げた僕だけが助かったのだ。
「つーわけで、鉱脈の存在を知っているのはお前だけー。……な? だからなんも心配せずに俺に場所を教えてくれれば問題ないわけだ!」
人が死んでいるというのに笑顔で喜ぶ魔女さん。なんというか非常識な気がするが、この性格こそが魔女と呼ばれる所以なのだろうな。
結局僕は、魔女さんの意見に同意した。命を救われた代わりに、鉱石の採れる場所を教えるという契約だ。今持っている鉱石は局を通さず僕が売り払う。この取引で損をするのは生態調査局だけだ。少なくとも僕にマイナスは一切無い。
「よっし、そうと決まれば今日は宴だ! さっきの蜘蛛肉を焼いて食おうぜ!」
「美味しいんですか?」
「知らん!!」
──その日、僕と魔女さんはお腹を壊してダウンしてしまうことになる。人間とは体の強さが違うのか、ドラゴンはその後、怪物を何匹食べても平然としているのであった。
***
と、いう一連の出来事があったのが三年前の話だ。
あの後、僕と魔女さんは一日中下痢と吐き気に苦しむこととなり、洞穴を出ることが出来たのは事件の二日後だった。魔女さんが雷魔法で一網打尽にした川魚を一緒に食べたり、鉱脈のある洞窟を一緒に探検したりと、すばらしくも楽しい一週間を過ごしたのは良き思い出である。
探検の際、新たにいくつかの宝石を手に入れたのだけど、ポーチに入る分は魔女さんが僕に持たせてくれた。「それを売って豪遊すると良い」なんて言われたけど、最終的に僕はそれらをあの時のパーティーメンバーのご遺族に渡した。悲しみは消えないかもしれないが、せめて彼らが養っていくはずだったご家族の助けになってくれればと思ったんだ。
ちなみに祖父は今でも元気である。療養の甲斐あって、今では時々畑仕事にも出られるようにまで回復した。あまり無茶はしてほしくないのだけど、じっとしているよりマシだと言い張り、今日も野菜の世話をしているよ。
さて、僕はというと、今まさに村にやって来た行商人から一冊の本を購入したところだ。題は、《銀の魔女の風土記 巻十二(写本)》。僕らの住んでいる地域のことが書かれていると、商人が来る前から話題になっていた。
さあさあ、僕との一週間はどのように書かれているのだろう。一言も触れられていなかったら悲しいけど、それはそれ。僕はドキドキしながら頁を捲った。
──きっと今もどこかで旅を続けているであろう、見目麗しき銀の髪の彼女を想いながら。