小さな嘘から始まる……

作者: 馬場翁

 始まりは、些細な嘘からでした。





 学園の卒業式が行われている会場。

 その壇上で、私は男女数人と対面しています。

 その先頭には、私の婚約者である第一王子のヘンリック様。

 その腕にすがりつき、怯えたような表情をしているのは、子爵家令嬢のエリー嬢。

 背後には宰相の子息と騎士団長の子息と侯爵家の子息。

 そのさらに一歩後ろに、バツの悪そうな顔をした私の弟の姿。


「シャーロット。君がエリー嬢に数々の暴言を吐き、嫌がらせや危害まで加えたというのは本当のことかい?」


 ヘンリック様の穏やかな問い。

 それに、私は答えていいものか、一瞬迷います。

 この問いに答えれば、事態は動く。

 動いてしまう。


「いいえ。私はそのようなことはしておりません」


 それでも、この場で沈黙という選択肢は取れませんでした。

 ヘンリック様の瞳が、私に答えを口にするのを強要するかのように、見つめてきたのですから。

 次期国王としての威厳を既に持ち合わせていらっしゃるヘンリック様の目力に抗うことは、私にはできませんでした。


「貴様! この期に及んで言い逃れをするのか!?」


 騎士団長の子息が怒りに任せて怒鳴りました。

 口を開いてはいませんが、宰相の子息と侯爵家の子息も気持ちは騎士団長子息と同じなのでしょう。

 嫌悪感を隠しもしない表情をしています。


「そうか」


 そんな彼らをヘンリック様が片手で制します。


「では、この件にシャーロットは関わっていないようだ」


 ヘンリック様の言葉に、後ろの三人はキョトンとした表情で動きを止めます。


「え?」

「聞こえなかったのか? シャーロットは関与を否定した。であれば、彼女は無実ということだ」

「な!?」


 宰相子息がヘンリック様の言葉に驚きを顕にします。


「殿下! この女の言うことを信じるのですか!?」

「当たり前だろう? 彼女は私の婚約者なのだから」


 ヘンリック様はなおも言い募ろうとする宰相子息の言葉を遮り、その腕を掴んでいたエリー嬢をやんわりと引き離しました。

 そして、ゆっくりと私の方に近づき、柔らかく抱きしめられました。


「殿下! 殿下はその女に騙されているのです! エリーがあれだけ泣きながら訴えたではありませんか!」

「訴えただけな。エリー嬢にシャーロットが嫌がらせや危害を加えた証拠は何一つなかった」

「それは……」

「そんなことも調べていないわけではないだろう? 私が調べた限り、シャーロットがこの件に関与しているという証拠は一切出てこなかった」


 宰相子息がグッと息を呑みます。

 当たり前です。

 私はエリー嬢に嫌がらせなどしていないのですから。

 捏造でもしない限り、その証拠など出てくるはずがありません。


「それにな。シャーロットは嘘がつけないのだ」

「は? どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ」


 そう。

 私には嘘がつけないという誓約があります。

 嘘をつこうとするとひどい目眩や頭痛がし、実際に嘘をついてしまうと卒倒してしまいます。

 それは、幼い頃についた小さな嘘が、人を不幸に貶めてしまったことによるトラウマ。

 それ以来、私は嘘がつけない体質になってしまったのです。


「殿下は、そんな、それこそ嘘でどうとでもなるようなことを信じるのですか!?」

「信じるとも。私はシャーロットのことを信じている」


 ヘンリック様の言葉は、とても嬉しい。

 けれど、私は、今この場でだけは、その言葉を聞きたくなかったかもしれません。


「あなたには、信じてくれる人がいるのですね」


 私には、いなかったのに。


 そう、続く言葉が聞こえてきそうな、エリー嬢の呟き。

 普段の明るく朗らかな彼女の声とは、似ても似つかない、感情のこもらない冷え冷えとした声。

 その声を聞いて、後ろのお三方はギョッとします。

 普段の彼女の様子とは、明らかに違うのですから。

 そして私は、その声に震え上がります。

 かつて犯した罪を、思い出させて。


「私は子爵家に引き取られた孤児です。ご存知でしたか?」


 エリー嬢の言葉に、無言で頷きます。

 彼女がその美しい見目から子爵の目にとどまり、孤児から養子として引き取られたのは有名な話です。

 それは、その容姿と市井育ちから貴族にはない明るさと朗らかさで、高位貴族の子息方を虜にしていったことで有名になったことでもあります。


「ですが、私がなぜ孤児になったのかなんて知らないでしょう」


 エリー嬢の断定の声。

 ですが、知っています。

 私は、それを知っているのです。


「誕生日会でジュースをこぼされたなんて些細なこと、覚えているはずもありませんよね」

「いいえ、覚えています」


 震える声で、エリー嬢に答えました。

 表情の抜け落ちたエリー嬢の目が、僅かに見開きます。


「覚えていたんですね。では、その後のことは?」


 知っている。

 全て、知っています。


「ジュースをこぼしてしまった子供がそのドレスを弁償することになったことは? 男爵とは言え名前だけでほとんど庶民と変わらない貧乏貴族だったその家が、弁償でより困窮したことは? 公爵家のご令嬢に粗相を働いたとしてその子供の父が職を追われたことは? その父が母とともに首をつって自殺したことは?」


 まくし立てられるとある子供の話。

 それが、エリー嬢の身の上だと誰もが思い至ったでしょう。

 そして、ジュースをこぼされたという、公爵家のご令嬢が私であるということも。


「その始まりの、ジュースをこぼしてしまった子供が、何も悪くなくて、公爵家の令嬢がこの子にこぼされたと嘘を言ったことも」


 血の気が引いていくのが、自分でもわかりました。


 


 あれは、私が六歳の時の誕生日会でした。

 その日私は新しく仕立ててもらった可愛いドレスを着て、誕生日ということも相まってはしゃいでいました。

 弟が女の子にジュースを渡され、デレデレとだらしない顔をしているのを見ました。

 当時の私は弟のことを可愛がるのと同時に、自分のおもちゃのように感じていました。

 そんな子が、見知らぬ女の子と仲良くしている。

 それが面白くなくて、私はいじわるしてやろうと弟がもらったジュースを横取りしようとして、抵抗した弟とジュースの取り合いになり、その中身をドレスに盛大にこぼしてしまったのです。

 そのドレスは、私の誕生日会のために特注で作らせた特別なもの。

 真っ白なドレスに一目で落ないとわかる染みがひらがっていきました。


「この子にジュースをかけられた!」


 とっさのことでした。

 正直に話せば怒られるとわかった私は、弟にジュースを渡した女の子に、罪をなすりつけたのです。

 それが、どんな結末をもたらすのか、考えもせずに。


 女の子は必死で「自分はやっていない」と訴えました。

 しかし、それを誰も信じませんでした。

 彼女の両親ですら。


「どうしてそんなことをしたんだ!」


 父親に叱られる彼女の、絶望したかのような表情が忘れられません。


 結局、私の父が彼女の両親を叱りつけ、ドレスの弁償を命じました。

 公爵家が娘の誕生日会のために特別に仕立てたドレスの弁償を。

 それが、庶民からすればどれだけの金額になるのか、当時の私は知りもせず。

 そして、公爵家の不興を買ったという、その事実がどれだけの影響をもたらすのか、知りもせず。


 それを知ったのはもう少しあとのこと。

 あの時の少女の絶望した顔が抜けない刺となって、私の胸に刺さったまま月日は過ぎました。

 お父様のもとに子爵が訪れ、なにかの許しを乞うていました。

 それを、私は偶然聞いてしまったのです。


「アロン男爵の子供を引き取りたい?」

「はい」

「それを何故私に聞きに来るのだ?」

「お忘れですか? アロン男爵は公爵様のご不興を買って職を追われたのですが」

「……覚えがないな」

「一昨年前のお嬢様の誕生日会で、お嬢様のドレスにジュースをこぼした娘のいる家でございます」

「ああ。あの家か」

「はい。その娘を残し、夫妻は亡くなられました。夫妻とは浅からぬ仲でもありましたので公爵様の許可が下りるのであれば、残された娘を養子に引き取りたいのです」

「ふむ。好きにせよ」

「ありがとうございます」


 その会話で、私は自分のついた嘘のもたらしたものの大きさを、おぼろげに知りました。

 そして、気になった私は、お父様に内緒でアロン男爵家のことを調べてもらいました。

 その調査結果は、己がついた嘘がどれだけ悲惨な結果をもたらしたのか、正確に知らせることになったのです。


 明るく朗らかで、誰にでも愛されるような少女は、ある日を境に誰も愛さない冷たい少女になった。

 誠実で働き者だった父親は職を追われ、それでもお金を稼ごうと必死に働きに出る日々。

 優しく穏やかだった母親は日に日にやつれ、内職の仕事をこなして夫を支えようとする。

 それもついには破綻し、夫妻は幼い娘を置いて旅立ってしまった。

 永遠に帰ってこない旅に。


 裕福とは言えないけれど、暖かだった家庭。

 その絆に罅を入れた事件。

 愛されていたはずの少女は、両親にさえも自分の無実を信じてもらえなかった。

 誕生日会に集まった大勢の人間、その全てに非難の目を向けられた少女の気持ちは、私には想像もできない。

 無実を知る私と弟は彼女から顔を背け、小さなその身に会場中の悪意を受け止めた。

 本来ならば受けるはずのないものを。


 小さな彼女はそれで心を閉ざし、彼女の両親は負わされた負債と職場を追われた二重苦で金を失う。

 生活は苦しかったでしょう。

 追い詰められ、自ら死を選ぶほどに。


 それらは全て、私がついた嘘のせい。

 子供が叱られるのを恐れてついた、小さな嘘。

 けれど、それを言ったのは公爵家の令嬢たる私。

 たったそれだけの事実が、嘘を真実に塗り替え、一人の少女の家庭を完膚なきまでに壊してしまった。


 私はその事実に戦慄しました。

 そして、それ以降、嘘がつけなくなったのです。




 学園に入学してから、私は彼女のことをそれとなく気にしていました。

 明るく朗らかな様子の彼女。

 ですが、私にはそれが素ではないとわかってしまいました。

 彼女の心はあの日以来死んだまま。

 それが、心が死ぬ前の彼女の仮面だと、気づいてしまったのです。


 そして、私に近しい身分の高い殿方にあえて接触していることも。

 彼女はその美貌と、心の仮面で次々と殿方たちを射止めていきます。

 ついには私の婚約者であるヘンリック様にまで接触。


 私は気が気ではありませんでした。

 もし、ヘンリック様が彼女のことを愛してしまったなら。

 私はヘンリック様を愛しています。

 ヘンリック様も、私を憎からず想ってくださっていると信じています。

 それでも、不安だったのです。


 ですが、もしそうなってしまっても、仕方がないとも思っていました。

 彼女には、私に復讐する権利があるのですから。

 だからこそ、私は彼女に一切干渉しませんでした。

 彼女の行動の先に、私の破滅があるのだとしても、甘んじて受け入れる覚悟を決めなければなりません。





 その結果、私はヘンリック様に信じられ、彼女はヘンリック様の呼んだ衛兵に捕われています。

 罪状は、王族への虚偽申告と、未来の王妃を貶める発言をしたこと。


「連れて行け」

「お待ちください」


 冷たく衛兵に言い放つヘンリック様に、私は待ったをかけました。


「彼女の罪を、帳消しにはできませんか?」

「できない」


 ヘンリック様は即答なさいました。


「エリー嬢の身の上は確かに同情に値するだろう。しかし、彼女は未来の王を騙そうとし、未来の王妃を蹴落とそうとした。しかも、こんな大衆の場でだ。それは許されざることだ」

「ですが」

「慈悲などいりません」


 私の言葉を遮ったのは、衛兵に取り押さえられたエリー嬢。


「あなたから何をもらおうと、私があなたを許すことはありませんので」


 その言葉に、胸が締め付けられる。

 心臓を鷲掴みにされたかのように、痛む。


「あなたが何をして罪を償おうと、私の過去は変わりません」


 エリー嬢の目に怒りはありませんでした。

 そこにはただ、ただただ暗い絶望だけが、ありました。


「連れて行け」


 ヘンリック様の言葉を、今度は止めることなどできませんでした。