断章8
この忌まわしい力が最初に発動したのは、魔王軍がこの城を攻め落とし、魔王自らが結界を破って、神殿へやってきたときだった。
魔王は目の前でアレクシアの命を奪ってから、わたしのことを殺した。
迫りくる自分の死よりも、アレクシアが死んだことに激しい衝撃を受けたことを覚えている。
次に目を覚ましたときは、10年も前の世界に戻っていた。わたしは傍にいた幼いアレクシアを抱きしめて号泣した。アレクシアは何が起こったのかわからずキョトンとしていたが、小さな手で優しくわたしのことを抱き返してくれた。
もう二度とこの子を死なせない、と心に誓った。
自分の身に起こったことは理解していた。母から巫女の役割を引き継いだ時に、力と共に歴代の巫女たちの記録も受け継いだのだ。
『世界編纂』
神が自らの眷属である巫女の一族を永らえさせるために、そして魔王に対抗させるために与えた、世界を改変する強力な能力。
巫女は寿命以外で死ぬことは無く、他の要因で死んだときにのみ発動する。
魔王との戦いだけでなく、様々な場面でこの力は使われてきた。
家臣の反乱、配偶者である王の裏切り、暗殺など、平時であっても発動した事例は多い。
ただ、それらは何度も『世界編纂』を要するようなものではなかった。
魔王との戦いにおいてのみ、何度も何度も繰り返すことになる。
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一番初めの『世界編纂』で行ったことは、魔王軍に対抗する連合軍の結成だった。勇者という個人に頼るより、国を動かしたほうが魔王を倒せると考えたからだ。
夫である国王を説得し、周辺各国も説き伏せ、早い段階から魔王軍に対する備えを行っていった。侵攻ルートや攻撃パターンも一度目の経験で知っていたので、万全の態勢を整えることができた。
そのおかげもあって連合軍は善戦し、魔王軍を撃退することに成功した。
だが、何度撃退しても魔王軍はすぐに攻めてきた。活性化した魔物たちを傘下に収めることで、戦力を補強し、間断なく攻撃を繰り返してきたのだ。そのうちに連合軍は疲弊し、前線となっていた国が倒れると、連合軍はあっという間に崩壊し、二度目の死が訪れた。
二度目の『世界編纂』では、連合軍で攻勢に出ることを考えた。守るだけでは埒が明かず、敵の本拠地を叩く必要性を痛感させられたのだ。
だが、これは政治的に上手くいかなかった。遠く離れた魔王領へ遠征するには莫大な予算が必要となる。勝ったとしても領土的、金銭的メリットがほとんどない。しかも、まだ魔王軍は直接的な脅威ではなかったのだ。遠征案は頓挫し、そのうちに魔王軍の侵略を許すことになった。
王国に侵攻する魔王軍を見て、わたしは毒を仰いだ。
結局、三度目以降の『世界編纂』では、伝統通り勇者を探すことになった。国が動かないのであれば、少数精鋭で魔王を倒す他ない。幸いなことに若い世代には優秀な人材が多く、剣聖レオン、聖女マリア、賢者ソロンに大きな期待を寄せた。
特にレオンは家柄、実力共に申し分なく、勇者候補の筆頭だった。
しかし、実際に魔王領へ送ってみると、なまじ高貴な家柄で育ったせいで冒険者然とした旅に馴染めず、魔人たちの搦め手からの攻撃──守るはずの人間から裏切られる、といったような──にもうまく対応できなかった。
結局、彼は旅を始めて3月ほどで命を落とすことになる。
次の候補はマリアだった。僧侶を勇者にすることに多少の躊躇はあったが、彼女は良い意味で性格が悪く、人心掌握にも長けていた。
マリアは期待通り、順調に旅を進めた。仲間をうまく使い、魔人の攻撃に対処するどころか、その裏をかくことすらできた。しかし、彼女のパーティーは仲間同士が心から信じ合うことが出来ず、徐々に綻びを見せる。そして、強力な魔人と相対した時にパーティーが破綻し、彼女は1年ほどで命を落とすことになった。
3人目の候補がソロンだった。彼は性格に難があり、レオンやマリアと比べると成功する可能性が低いと考えていたが、魔力と知略に優れていた。彼にわたしが今までの経験から得た情報を与えると、それを十全に活かして、魔王領奥深くまで侵入し、何と魔王と対峙するところまで迫ることができた。
だが、魔王との力の開きは圧倒的で、最後は絶望の中で死んでいった。
その後は、同じ人間を導いて、より良い結果を得ようとしたこともあれば、まったく別の人間を導くこともあった。レオン、マリア、ソロンを同じパーティーにしたこともあったが、お互いに反目し合うばかりで、あまりいい結果は出なかった。
こうした試行錯誤を何度も繰り返していくうちに、わたしの精神は摩耗していった。人の死を何とも思わなくなり、自分自身の死も簡単に受け入れるようになった。
「どうせ、やり直しがきくのだから」
王都の人間ではうまくいかず、地方の人材に目を向けた時、視野に入ってきたのがアレスだった。
剣のみならず魔法も使え、頭も良く、柔軟な精神性を持っていた。能力としてはそこまで高くなかったが、バランスの取れた少年だった。
しかし、そんな彼は王都に向かう途中で死んでしまった。あまりに早い死だった。
「今回も無駄に終わった」
わたしはすぐに死ぬことを考えたが、なぜだかアレスと共に旅をしていた少年が気になった。何の才能も能力も無い少年ザックが。
彼はアレスの名を騙って、ファルム学院に入り、勇者になるための努力を積み重ねた。どんなに結果が出なくても、どんなに努力が無駄になっても進み続ける彼の姿に、わたしは自分の姿を重ねた。
そして、気づけば彼が勇者になっていた。他のどの勇者よりも弱く、みっともない、泥にまみれた勇者が。
ザックはレオン、マリア、ソロンとパーティーを組み、彼らをうまく調和させた。彼らを上手く使おうとしたのではなく、良いところを引き出そうとしていた。
わたしも事あるごとに、自分の知っている情報をザックに与え、彼は数多の苦難と試練を乗り越えていった。
「ザックなら魔王を倒せるのではないか?」
わたしの中で彼への期待が高まった。しかし同時に、ひとつの葛藤も生じた。
アレスのことだった。ザックが戦っているのは、アレスのためであり、アレスの代わりになるために身を捧げているからだ。そのことをわたしは痛いほど知っていた。
だが、このまま魔王を倒してしまえば、アレスが死んだまま世界は進んでしまう。
迷った結果、わたしはザックに話をした。魔王の城まであと一歩と迫ったところで。
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「もしアレスが生きている世界に戻れるとしたら、どうする?」
ザックは目を見開いた。
「戻る? 生き返るのではなく?」
「生き返りはしない。死ぬ前に戻り、再びやり直すだけだ」
「記憶は?」
「残らない。わたしだけが覚えている。ただ、アレスが死なないように導くことはできる」
ザックはわたしを見つめて、しばらく黙った後、言った。
「魔王はどうなる? あと少しってところまで来たけど、またここまで来れるかな?」
「……わからない」
わたしは正直に答えた。ここまで来れたことが奇跡のように思えて、もう二度と再現できる自信がなかった。
「じゃあいいよ」
「えっ?」
「もう一度やり直すのはしんどいでしょう? 僕だって『人生をもう一度やり直せ』って言われても出来ないよ。もうあんな大変な思いはしたくない」
彼は笑って言った。
「しかし、このままではアレスが……」
「アレスのことは残念だし、もちろん、生き返るなら生き返らせて欲しいけど、その代わりに今までのことが全部無かったことになってしまうんだったら、それは違うと思うんだ。僕だけじゃない。みんなの苦労が無駄になってしまう。だから、僕はこのまま進むよ」
「……いいのか?」
「ああ、これは僕が選択したことだ。僕はアレスを見殺しにする。
顔? 巫女の力によって、神殿から魔王領に投影されたわたしの姿は幻影に過ぎず、老若男女の区別すらつかないはずだ。表情などわかるはずがない。わたしはいつも神殿から見ているだけで、何もできない存在なのだ。
「わたしのことなど、おまえにわかるはずがないだろう」
「何となくだけどわかるよ。雰囲気かな? シェラさんにちょっと似ている気がしてたんだ。優しいお母さんみたいな人じゃないか、って勝手に思ってたんだよ」
シェラ……アレスの母親のことだ。彼女は息子が勇者になることを快く思っていなかったはずだ。それはそうだろう。わたしとて自分の娘を勇者なんかにしたくない。こんな過酷で危険な旅に、自分の子どもを送り出したい親などいないだろう。だが、わたしは他人の子にそれを強いている。
「わたしは……優しくなどない」
「そうかな? 僕はそうは思わないけど。預言者の目的は魔王を倒すことでしょう? でも、後一歩でそれが叶うかもしれないのに、またやり直す提案をしてる。優しくないと出来ないよ」
「…………」
「でもさ、もし僕が魔王を倒せずに死んでしまったら、もし僕がやり直すことになったら、次は旅に出る前に魔法が使えるように導いて欲しいな。僕は不器用だから覚えさせるのはなかなか大変だと思うけど、宜しく頼むよ。そしたら、今度こそ僕はアレスの仲間として、あいつを死なすことなく、一緒に旅ができると思うんだ」
ザックは冗談でも言うかのように、自分の後悔を、本当の願いを告げて、話を締めくくると、その場を去った。
その後、ザックたちは壮絶な死闘の末に魔王を倒し、わたしの1000年にもわたる旅は終わりを告げた。
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ようやく長い輪廻から解放されたわたしは歓喜に打ち震えた。やっと、終わりを迎えることができる、人として死ぬことができる、と。
だが、その喜びも一夜明け、眠りから目を開けた瞬間に消え失せた。
「死んだ人たちはもう帰らない」
アレスのことだけではない。もっと大勢の人間が、わたしの選択のせいで死んでいった。
初めのころの『世界編纂』では、多くの人間が助かるように努力していたのに、いつしかわたしはそれを疎かにするようになっていたのだ。「どうせ無駄になる、どうせ意味がない」と。
だが、今回は魔王を倒すことに成功してしまったのだ。本当はもっと多くの人間を助けることが出来たはずなのに。
その後は、ずっと自分のことを責め続けた。早く己の命が尽きて欲しいと、それだけを願った。
何年かして、死を願い続けるわたしの前に現れたのがアレクシアだった。
神殿を守護する神官たちと長い押し問答をした末に、半ば強引に聖域に入ってきた。
どうやら、娘はソロンに唆されて、ザックの居場所を聞くためにここに来たらしい。
(何と愚かな娘だ)
わたしの苦悩も、ザックの想いも、ろくに知らずに興味本位で神域に立ち入るとは。
わたしの心に黒いものがもたげた。アレクシアにすべてを教えた後、自死するために使っていた毒酒を勧めた。
「あなたも巫女の一族であれば、その覚悟を示しなさい。死の恐怖に打ち克てるのであれば、ザックの居場所を教えましょう」
ただの脅しだった。そう言えば、甘ったれた娘が帰ると思っていた。
だが、アレクシアは
「わかりました、お母様」
と答えると、毒酒を飲み干した。
そして、わたしのことを見つめながら、苦悶の表情ひとつ見せることなく、優しい微笑みを残して死んでいったのだ。
アレクシアの死を前にして、わたしは自分が何のために『世界編纂』をしてきたのか思い出した。
この子を救いたくて、わたしは何度も死を越えてきたのではなかったのか、と。
この子にはこの子の覚悟があって、ここにやってきたのだ。それをわたしは自分の鬱屈した気持ちのはけ口にしてしまったのだ。
わたしは短剣で自らの喉を貫くと、アレクシアの身体に折り重なるように倒れ、1時間前の世界へと戻った。
わたしは神官たちに、アレクシアが来たら通すよう指示を出し、二度目の娘の来訪を待った。
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扉が閉まる音を聞いてから目を開き、アレクシアが去ったのを確認した。
聖域に静寂が戻る。
「ありがとう、アレクシア。愛しい私の娘」
何をしても、何をやっても、繰り返すたびに、皆がそのことを忘れていく孤独な旅だった。
報いなど何ひとつなく、わたしの導きのせいで、わたしの選択のせいで、死んでいく人たちを見続ける辛い旅だった。
感謝の言葉など言われたことなどなく、呪われた役割だと思っていた。
「でも、本当は誰かに言って欲しかった……」
もはや足に力が入らず、祭壇にもたれかかり、喜びと悲しみがないまぜになった涙が流れた。
──もう二度とあの子と会うことはない──
それが自分自身に与えた唯一の贖罪だった。