何も見えない
真っ白な霧の中に彼女は立っていた。今まで近代的なビルの中に居たはずなのに、いつの間にか周囲は山の風景に変わっている。すると遠くの方からシャンシャンと鈴を鳴らすような音が聞こえてきて、彼女は耳を澄ませて警戒した。
音は坂の下から聞こえてくる。道が狭くて、このままだと鉢合わせしてしまうだろうが、不思議と逃げる気にはなれなかった。やがて予想した通りに、坂の下から人の影が近づいてきた。見ればそれは袈裟を着た僧侶の集団だった。なんとなく見覚えがあったのは、学校で会ったウダブとかいう僧侶が着ていた服と似ていたからだろうか。
この集団は何なのだろうかと見守っていると、彼らは路傍に立ち尽くす彼女には一瞥もくれずに、黙々とお経を唱えながら通り過ぎようとした。「あの」と声を掛けても一向に止まらず、まさか見えていないのか? と思って彼らの前に出ると、彼女のことを避けて通ったので、見えていないわけではないらしい。
まったくおかしな連中だと思い、彼らがどこから来たのだろうかと麓の方へ目を凝らした時、「振り返ってはいけない」と、どこからともなく声が聞こえた。
ドキッとして声の主を探したが見つからず、ただ僧侶の集団が黙々と通り過ぎていくのが見えるだけだった。すると「彼らについていきなさい」とまた声が聞こえてきて……それはどこからでもなく、頭の中から響いてくることに気づいた彼女は、どうしようかと迷ったが、結局は声の言う通り彼らについていくことにした。
あの終わりのない螺旋階段よりはずっとマシだと思えた。何より、一人じゃない。それがこんなにも心強いなんて、昔はそんなこと考えもしなかった。
僧侶の集団はただ黙々と山道を上り続けた。山は急で、登るのは一苦労で、標高が高いのか、少し歩いただけでもすごく息切れがした。そんなだから、集団も亀のような速度でしか歩けず、彼らはのろのろと歩み続けた。
急斜面のせいか、時折、山頂の方からカラカラと落石の音が聞こえてきたが、霧のせいで何も見えず不安を煽った。もしかして当たったりしないかと思っていたら、もしかしてではなく、本当に落石が僧侶の一人に命中し、彼は額から血を流して倒れた。しかし、誰も助け起こそうとすることはなく、その人もまた誰の手も借りずに起き上がると、額から流れる血を気にも留めずに、また黙々と山道を歩き始めた。
彼らは一体、どこへ向かおうとしているのだろうか。この人たちの旅は、いつまで続くのだろうか。
そんな光景を幾度も目撃している内に、いつしか自分にも落石が来るんじゃないかとマナは思い始めていた。自然と足が竦み、隊列から遅れだすと、すると視界の隅がちらつき、なんだろう? と目を凝らしてみれば、霧の中にいつか見た景色が浮かんで見えた。
幼い頃、まだ母と二人きりで暮らしていた時、誕生日にケーキを買ってきてくれた。母はそのケーキにロウソクを差し、マナがフーっと息を吹きかけて火を消すと、おめでとうおめでとうと自分のことのように喜んでくれた。二人はいつも同じベッドで寝て、同じご飯を食べて、マナが何をしても母はいつだって褒めてくれた。マナが一番だと言ってくれた。そんな光景が浮かんでは消える。
彼女は懐かしさのあまり、その景色に手を伸ばそうとした。すると、ガツンッ! と衝撃が走り、彼女は額から血を流して倒れてしまった。ハッとして顔を上げると、霧の中の優しい景色は霧散してなくなり、黙々と歩く僧侶の列だけがあった。彼女は自力で立ち上がると、またその列に混じって歩き始めた。
小学校に上がり母が仕事で居なくなると、途端に惨めになった。同い年の子より背が低い彼女はイジメの格好のターゲットとなり、彼女にとって学校は苦痛の象徴でしか無かった。学校には居場所がなく、誰からも相手にされず、食事はいつも一人で取っていたその頃の彼女にとっては、母とのビデオ通話だけが唯一の楽しみだった。
だから彼女はたくさん嘘をついた。彼女は学校では人気者で、学業成績もよくて、先生からの信頼も篤く、今度はクラス委員に任命された。毎日が充実して楽しく、だからお母さんは心配しなくていいよと、彼女はいつも笑って電話を切った。
でも本当はいつも逢いたくて仕方がなかった。あの幸せな日々が戻ってきてほしくて、どうしようもなかった。せめて母がもっと頻繁に帰ってきてこれたらいいのに、軌道エレベーターで働く彼女の母が帰ってくることは滅多に無かった。大金持ちですら片道1日半もかかる交通手段を、ただの従業員が使えるわけがないのだ。
だから、彼女は母がいる宇宙を目指した。それなのに……椋露地マナは身長が足りない。その言葉は彼女を打ちのめした。
分かっているのだ。背が小さいのは自分のせいじゃないと言うことは。そしてそれが、彼女を間違った道に進ませないように、誰かがついた嘘だと言うことも。それでもあの時、もっと他の理由だったら、せめて努力でなんとかなる理由なら良かったのに。どうしてそんな、自分にはどうしようも出来ない理由で責められねばならなかったのか。
せっかく、お母さんが生んでくれたのに……あんなに大事にしてくれたのに……大きくなれなくてゴメンね。
その時、カラカラと前方から音が聞こえて、また落石がこっちへ飛んでくるのが見えた。彼女は咄嗟に目をつぶって衝撃に備えた。しかし、その衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。
どうしたんだろう? 恐る恐る目を開ければ、すると彼女の目の前には、何故か見たこともない景色が広がっていた。
一体ここはどこだろうか? とても大きな国のようだ。碁盤の目をした街がどこまでもどこまでも広がり、往来には大勢の人々が行き交っている。皆忙しなく動き回り、とても大変そうに見えるが、誰一人として不満を口にすることなく、皆笑顔だった。よく見れば、その笑顔の持ち主はみんな耳が長かった。ここは異世界人の国なのだ。
場面が変わって、どこか綺羅びやかな広間、楽団が演奏する中で誰か女性が舞を舞っている。美しい衣装を着て袖がパタパタと棚引いて、うっとりするような光景が繰り広げられている中で、一人の男が彼女を見初めて、彼女に自分のために踊ってくれと願う。彼女はそれを受け入れ、彼女の舞で場は一層賑やかになる。
また場面が変わって、大勢の人々が円を描くように広場を囲んでいる。皆美しい正装に身を包んでいて、どうやら何かの儀式であるらしいことが分かる。暫くすると二人の男女が入ってきて、広場の中央に歩み出る。また別の一人の男がやってきて、二人に何かを確認するように顔を覗き込んだ後、手を挙げて何かを宣言すると、途端に周囲の人々から歓声が上がり、広場には本物の花吹雪が舞った。
そんな祝福の輪の中で、二人は口づけを交わす。あの美しい女性は誰だろう。よく見ればそれはマナの母だった。どことなく無邪気で印象が全然違うが、姿は今とさほど変わっていない。
それじゃこれは母の記憶なのか? と思っていると、また場面が変わっていきなり凄惨な殺し合いの光景が映し出された。マシンガンを持って近代装備に身を包んだ男たちが、無抵抗の人々を容赦なく撃ち殺していく。母はそんな中、綺麗な服を着た侍女らしき女性たちに手を引かれながら、建物の影から影へと逃げ続け、どこかの桟橋で船に乗せられる。
船が港を離れると、桟橋に残った人たちは後からやって来た男たちに次々と撃ち殺されていった。母は涙を流して膝から崩れ落ち、その光景を目に焼き付けることしか出来なかった。
そんな母の乗る船を見守っていた男は、船が水平線の向こうへ消えると、怒りに燃えた目で戦場を振り返り、彼に従う人々に向かって号令を下した。真っ赤な髪を振り回しながら男は戦場を駆け抜け、数え切れないほどの敵兵を討ち取っていったが、それでも彼の軍隊は多勢に無勢で、徐々に、少しずつ、数を減らしていき、ついに彼は一人となった。
暗い暗い、穴蔵の中で、汚物にまみれて……
ハッと我に返ると、マナは一人、殺風景な山道に佇んでいた。強い風が吹き付け、周囲には草木は殆ど生えておらず、砂利道が延々と山頂に向かって続いている。しかしその山頂は、あとどれくらい歩けば辿り着けるのだろうか、遠すぎて終わりは見えなかった。
その山道を僧侶の集団が歩いているの見て、置いていかれると思ったマナは慌ててその後を追いかけようとしたが、すると視界の片隅に風に靡く何かが見えて、振り返ればそこに真っ赤な長い髪を棚引かせた、一人の男が立っていた。
霧はいつの間にか晴れていて、男の向こう側には朝日か夕日か分からない真っ赤な太陽が輝いていて、その太陽がより一層、男の髪の毛を赤く燃え上がらせた。
マナは直感的に、さっきのはこの男の記憶じゃないかと思った。そして彼がここへ彼女を呼び寄せた張本人なんじゃないかと、そう思った彼女は、その背中に尋ねた。
「ここに来た時、最初に、私に振り返るなって呼びかけてきたのは、あなたですか?」
「はい、そうです」
すると男はあっさりと答え、それから謎解きのような言葉を投げかけてきた。
「人の人生はあの霧のように見通しが悪く何も見いだせない。自分では見えているつもりでも、飛んでくる落石を避けることすら難儀し、倒れても手を差し伸べてくれる人はいない。思い出はいつも優しく、あなたを慰めてくれるけれど、過去を振り返るには立ち止まるしかない。それでも前へ進むのなら、我々は自力で立ち上がるしかない。人生とは、理不尽の連続である……でも、こうして霧が晴れた今、あなたには何が見えますか?」
「何も見えません」
マナは間髪入れずにそう言った。
「多少見通しが良くなったところで、山の向こう側は見えないし、落ちてくる落石に怯える日々に変わりはない。それでも、歩き続けるしかない。過去を振り返っても、そこには何もないし、何かあるとしたら、あの山の向こう側くらいしか思い浮かばないもの」
「もうお帰りなさい。あなたはここに来るには早すぎる」
男はそう言って太陽に向かって指を差した。どういうことだろうか。夕日に向かって叫べば良いのだろうかと思いつつ、よくよく見れば、その向こう側に現実の風景が映し出されていた。
学校の校舎や講堂や寮の部屋、生徒会室やその中にいる仲間たち。クラスメートに、桜子さんや張偉や、今自分たちのことを助けようとして頑張ってくれている、白衣の研究者たちの姿も見えた。そして、空の彼方にいる母の姿も。これが、彼女の現実なのだ。
帰ったら、みんなに何から話してあげようか……そんなことを考えながら歩き出した彼女は、ふと有理のことを思い出して、
「ここに来る前に、一緒に閉じ込められていた仲間がいるの。彼のことも助けて欲しいんだけど」
「彼なら勝手に戻るだろう。大丈夫。彼は世界に愛されているから」
それはどういう意味だろう? と思いはしたが、この男が言うことに間違いはないだろう。マナは直感的にそう思い、また現実に向かって歩き始めた。しかし、太陽の向こう側なんて、どうやったら辿り着けるのだろうか。
「目に見えるものが全てとは限らない。あなたはあなたの信じる道を進みなさい」
躊躇っているとそんな声が聞こえてきて、その言葉に背中を押されたマナは歩き出した。どうやっているかは分からないが、現実は徐々に近づいてきた。あれに触れたら、やっと元に戻れるだろう。
と、その時、彼女は男に名前を聞いていないことに気がついた。しかし、振り返ることはしなかった。彼女にはもう、それが誰なのかは分かっていた。テンジン11世。それが彼女の父親で、母の愛した人の名前だ。
***
「患者が起きたぞ!」
耳元で、誰かが叫ぶ声が聞こえた。目を覚ますと、見知らぬ白い天井が目に飛び込んできた。
ここは病院かどこかだろうか? 周囲ではバタバタと忙しなく人が動き回り、マナが起きたことで少しパニック状態に陥っているようだった。
間もなく、看護師がやって来て、箱みたいなベッドに入れられていた彼女に声を掛けてきた。
「意識はありますか? 聞こえますか?」
マナは何を言ってるんだろうと思いつつ、そんな看護師を手で制して、
「大丈夫、自分で起きられるわ」
彼女がそう言って体を起こすと、急に視界が滲んで見えなくなった。あれ? と思って目を擦ると、後から後から涙が零れ落ちてくる。どうして泣いているんだろう? 凄くいい夢を見ていたはずなのに……そうだ。早く母にも教えてあげなければ。
彼女がそう思ってベッドから降りようとしたら、
「なにしてるんですか! 絶対安静です!!」
と言われて押し戻されてしまった。平気だと言っても聞いてはもらえず、次から次へと医者がやってきては、彼女の顔を覗いてから去っていった。まるで標本にもでもなったような気分にうんざりしていると、ふと、ここ最近ずっと一緒だった相棒の顔を思い出した。彼もまた、どこかでモルモットをしているのだろうか。そう思った時、
「死んだらどうする!」
すぐ隣のベッドから間抜けな声が聞こえてきて、彼女は思わず吹き出してしまった。
人生はままならない。何もかも思い通りにはいかない。でも自分は、こんな現実が好きだった。そう、彼女は思った。