天国への階段
近代的でメタリックな床を蹴ってマナは駆け続けていた。アストリアの塔内部は狭くて低くて、穴蔵みたいな通路が一直線に延々と続いていて、ところどころに曲がり角があってもそれに気づかないくらい無機質だった。
「いたぞ!」「そっちだ!」「待て!」
そんな殺風景な通路を、背後から迫る追手の声を頼りに逃げ続けていたマナは、どうして自分はこんなところでマラソンなんかしてるのだろうか? と、段々すべてのことが馬鹿らしくなってきていた。
酸欠の脳は答えを考えることを拒み、いつしか足を止める理由ばかりを探していたが、それでも踏ん切りがつかなくて、彼女は駆け続けていた。
もう捕まって、楽になりたい。そもそも、どうしてあの時、自分は逃げ出してしまったのだろうか。有理とともにあの場に留まって事情を話せば、案外見逃してもらえたのではないか? 今からでも遅くない。そうすべきなのでは……
そう思うのに足が止められないのは、やはりここに来るまでに見てきた数々の処刑シーンが念頭にあるからだった。この世界の住人に、まともな人権意識を求めるのは間違いだ。今は逃げて、体勢を立て直したほうが良い。そう自分に言い聞かせて、彼女は逃げ続けていた。
そうしてどれくらいの間、逃げ続けていただろう。いくつもの曲がり角を曲がり続けてきた彼女は、それまでとは明らかに違う空間へとたどり着いた。
そこは今までの狭い廊下とは比べ物にならないくらいだだっ広い空間で、天井は吹き抜けており、その先には真っ暗な煙突のような穴が見える。真円に近い構造の壁がぐるりと取り囲んでおり、その壁面には螺旋を描いてぐるぐる回りながら上へと続く階段があった。しかしそれがどこまで続いているのかは、高すぎて見えなかった。
どうやら、軌道エレベーターの立坑の真下に入り込んでしまったようである。とすると、ここがこの施設の中央部だろうか? もし、本当にそうなら、昇降機がなければおかしいが、辺りを見回してもそんなものは見つからなかった。ここに来るまでに、期待していたターミナル駅のような設備もなく、やはりこの施設は軌道エレベーターとしては不完全なようである。
それともまさか、あの螺旋階段を昇っていけというのだろうか。そんなわけがあるまい。そんなことを考えていると、背後からまた追手の声が聞こえてきた。こんな場所ではすぐ見つかってしまうだろう。
彼女は入ってきたのとは別の通路に逃げ込もうと思ったが、見渡す限り、他の出入り口は見当たらなかった。しかし、背後からは追手の声が聞こえてくる。隠れられそうな突起や空間もなく、焦った彼女は螺旋階段へと向かった。
上に向かう途中に、どこか横穴が空いていればいいのだが……そう思いながらひたすら上を目指して駆けていると、ようやく追いついてきた追手の制止の声が下から聞こえてきた。
それ以上行くな、引き返せと言われても、そんなわけにはいかない。階段からちらりと下を覗き込んだら、階段の上り口に大勢の教団員が集まって上を見上げている。彼らは口々に戻ってこいと言うが、自分たちは決して階段を上ろうとはしなかった。
もしかすると、この階段を上るのは、教会的にタブーなのかも知れない。ならば尚のこと、自分は上を目指さねばならない。彼女はそう判断すると、ひたすら階段を上り続けた。
そしてどれくらい上っただろうか。最初の20階くらいを上ったときには、まだ下にいる職員たちの姿が見えていた。大体40階くらいの高さになると、もう下の方は殆ど見えなくなり、追手の声も聞こえなくなっていた。
はあはあと息を切らしながら、マナは一旦足を止めた。速度を緩めても、もう大丈夫そうなのは良かったが、それはともかく、ここに来るまでに期待していたような横道は無く、階段は更に上へと続いていた。
外から見る限り、軌道エレベーターの基部は高くても40階くらいの高さのはずだった。街の人に聞いた時は20層と言っていたが、そんなのはとっくに過ぎていた。すると、ここはもう塔の基部を越えてシャフト部分になるはずだ。
現実世界では、通常、エレベーターのシャフト部分は、鉄骨だけか、なんなら無いのが普通だった。こんな煙突状の壁に、螺旋階段がどこまでも続いているような構造はしていない。そう考えただけでも、やはりこの施設はどこかおかしい。
しかし、そんなことを考える意味はないのかも知れない。何しろ、ここはゲームの中なのだ。
それよりも今はここから出ることだけを考えたほうが良いだろう。今更、下には戻れないから、このまま上っていくしか無いが、果たしてこの先に行く意味はあるのだろうか? 先の展望は見いだせなかったが、他に行く宛がないので彼女は階段を上り続けた。
それからどれくらいの時間が経過しただろうか。
最初の100階くらいまでは(大体300メートルくらいだろうか)、なんとなく自分がどの辺にいるかは想像がついた。何しろ凄い高さだから、あまり下を見る気にはなれず、上ばかりを見ていたのだが、多分、200階を超えるくらいで感覚がおかしくなってきた。
そこまで来ると下を見ても地面が見えないから平気になったのだが、代わりに上を見ても下を見てもまったく同じ光景が広がっていて、自分がどこにいるのか、わけが分からなくなってきた。
上も下も螺旋階段がぐるぐるどこまでも続いているのが見えるだけで、行く先はただの黒い点にしか見えない。このまま上に上っていっても、終点にたどり着けるとは思えなかったが、下に下りても、果たして地面はあるのだろうか? そこから上ってきたはずなのに、もうそんな場所なんて無いんじゃないかと、そんな風に思えてならなかった。
出来れば下に戻って確かめたい。しかしどっちかにしか行けないのだから、彼女はひたすら上を目指した。戻るくらいなら先に進んだ方がまだマシという消極的な理由だったが、他に選択肢はなかった。
既に足はパンパンで、手すりを掴む手はジンジンと痺れていた。あまりに体力を使い果たしてしまい、意識は朦朧としており、目が霞んでなんだか周囲が暗く見えていた。思考力が低下して、息苦しさも感じていたから、もしかしたら空気が薄くなっていたのかも知れない。この先に進む意味はあるのだろうかと、普通なら足を止めて考えるなりするのだろうが、彼女は半分眠るような状態で、ただ足を前へと運び続けていた。
その時、一瞬意識が飛んで、足がもつれて転びそうになった。彼女はハッと目を覚ますと、転んでしまわないように足を踏ん張って体を起こした。すると地面の方から、ジャリッと砂を踏むような音が聞こえて、
「えっ……?」
と、驚いて顔を上げれば、彼女はいつの間にかエレベーターのシャフトではなく、霧に閉ざされた山道を歩いていることに気がついた。
周囲には真っ白い濃霧が立ち込めており、足元に広がる砂利の地面と、高山植物のような草木しか見えるものはなかった。なんだか、以前、有理たちと立ち寄った、森の外縁の山道みたいだったが、あれよりももっと殺風景な感じである。
しかし自分はビルの中を……天空へと続く塔の螺旋階段を上っていたはずである。それがどうしてこんな場所にいるのだろうか? あまりの景色の変わりっぷりに彼女が戸惑っていると、するとどこからともなく、シャン……シャン……と鈴を鳴らす音が聞こえてきて、彼女は身構えた。