神使アストリア
降臨祭が近づいてくるにつれ、都市の中は巡礼に来た人々で溢れかえってきた。宿屋は大繁盛でロザリンドは忙しくしており、ゲートの外には行列が絶え間なく続いていて、これが全部、都市内に収まりきるのかと心配になるくらいであった。
ステファンから情報を得た有理とマナの二人は、その後ギルドで目的の依頼を見つけ、臨時スタッフとして紛れ込むことに成功していた。しかし、当初の目論見ではすぐに塔の内部に入れると思っていたが、流石に部外者だから中々チャンスは訪れず、そのままズルズルとアルバイトを続け、気がつけば当日を迎えてしまった。
降臨祭当日の都市の賑わいは想像以上で、どこの大通りも、路地裏さえも人で溢れかえっていた。どこを見ても人、人、人で足の踏み場もないほどで、神使アストリアを一目見ようという巡礼者で塔に近づくほどに人出は多くなり、まるで満員電車みたいな混雑であった。
その塔の入口広場には、この日のために新たなステージが設けられていて、噂ではそこに神使が現れて人々に有り難いお説教を聞かせてくれるらしかった。その際、巡礼者が押し寄せることが予想され、人手が足りないからと、冒険者である有理たちにも応援要請が出されていた。ようするに、コンサートスタッフみたいに、詰めかける人々を押し返す仕事である。
普通ならそんな仕事は御免であったが、塔に入れる最後のチャンスかも知れないと、二人は応募することにした。しかし、ここまでしても部外者は内部に入ることを許されず、アルバイトは現地集合で、そのまま殆ど何の説明もなく、ステージ前へと配置されてしまった。
有理たちが到着したときにはもう、広場は殺人的に混雑しており、圧迫された人々があちこちで悲鳴を上げていた。ガヤガヤと好き勝手に喋る人々の声がうるさくて、隣にいるマナの声すら聞こえないほどであった。バイトリーダーっぽい教団員がやって来て何か指示をしていたが、殆ど聞き取れず、どうしていいか分からなかったが、問題にはならなかった。要するに、目の前のこれを押し返せば良いだけだ。
スタッフの列に加わり、ステージ前に立ってぎゅうぎゅうと押し返していたら、やがて舞台の上に教会の制服を来た白髪の爺さんが現れて、間もなく神使がやって来ると告げると、盛り上がりは最高潮に達した。
鼓膜が破れそうなくらいの歓声が上がり、舞台に向かう人々の圧力が一段と増し、有理は必死になって人々を押し返していたが……冷静に考えれば、全ての人の意識がステージの上に向いている今が、塔に侵入するチャンスではないか? と思い至り、隣にいたマナを引っ張ってこっそりと舞台袖へと向かった。
彼女は最初、何をする気だ? と抗議の視線を向けてきたが、途中でこちらの意図に気づいたらしく、二人は姿勢を低くして、こそこそと舞台袖からステージ裏へと抜けた。
初めて入ったステージ裏は仮設だからか、だだっ広い空間が開けており、隠れる場所が殆ど無くて焦ったが、思ったよりも人がいなくて見咎められる心配はなさそうだった。有理たちは塔の入口まで素早く駆け寄ると、開きっぱなしだった扉の中に滑り込むようにして内部に侵入した。
何しろデカい建物だから、内部は広いだろうと思っていたが、実際には穴蔵みたいな狭い通路が奥まで続いており、薄暗くて先の見通しが悪かった。一本道で、誰かが来たら隠れようがないから、そうならないよう急いで先を進んでいくと、やがて通路の先の方から光が差してきて、照明で照らされた明るい通路へと出た。
その通路は近未来的な金属の床で出来ていて、表面はツルツルしているのに光を反射せず、壁も天井も継ぎ目が殆ど見えなかった。天井には埋め込みの照明が等間隔に並んでいるが、間接照明みたいでさほど眩しさは感じられなかった。どういうテクノロジーで出来ているんだろう? と、少し驚いたが、しかし、そんなものよりもずっと目を引くものが壁の方にあって、そんな考えはどこかへ吹き飛んでしまった。
「あれって……日本語? いえ、中国語よね? どこかで見たことあるような気がするんだけど」
そう言ってマナが指差す先には、有理も良く知る会社のロゴマークが描かれていた。
『天穹互动 Skybound Interactive』
張偉の実家のことである。しかし、なんでそんなものがここにあるんだ? と有理も一瞬パニクりそうになったが、
「いや……よく考えれば、このゲームの開発会社なんだからおかしくないのか?」
彼は自分を納得させるように呟いた。彼女もそれで思い出したのか、
「ああ、言われてみれば、あれってあのヘルメットに描かれていたロゴよね。でも、今まで外の世界のものを意識させるものなんてどこにも無かったのに、どうして急にこんなものが出てきたのかしら?」
「さあ……? そもそも、ここは未実装エリアで、開発者が意識して設置したものじゃないだろうからなあ……」
じゃあ、誰の意志なのだろうか? 有理もちょっと気になって、看板に近づこうとした時だった。
通路の奥の方から人の気配がして、複数の足音が聞こえてきた。まだ遠いから向こうに気づかれていないだろうが、このままでは鉢合わせしてしまうだろう。二人は慌てて身を隠せる場所を探して、近くの曲がり角へと飛び込んだ。丁度良い出っ張りがあったので、彼らはその影に隠れると、通行人が通り過ぎるのを待った。
何者かは分からないが、こんな時にここにいるということは、教会の偉い人で間違いないだろう。一体、どんな連中なんだろうかと、好奇心の赴くままに耳を澄ましていると、最初は遠すぎて聞こえなかった会話の内容が聞こえてきた。
立ち位置はどこだの、合図したら出てきてくれだの、拡声器がなんだの、話の内容からしてステージ上での振る舞いについて打ち合わせをしているようだった。どうやら式典の参加者らしいと思っていると、その会話の中から『神使様』という単語が聞こえてきて、今そこを通過しようとしている人物の正体が判明した。
神使アストリア。この世界の神に唯一近づける人物……という設定の教会のお飾りである。マナの話では、この塔の上には行くことが出来ないはずだから、そもそも神なんてものがいるはずがない。
それじゃ神使とは一体どんな人物なんだろうか? 有理はふいにその顔を見てみたくなった。思い返せば、その人の顔を一目見るために、あれだけの人数がこの都市に集まってきているのだ。それを間近に見る機会なんて滅多にないだろう。
好奇心に駆られた彼は、物陰からそっと顔を覗かせた。すると丁度その時、曲がり角の向こう側を、その神使が通り過ぎようとしているところだった。
それを見るなり、有理は驚きのあまり目を剥いた。何故なら、彼はその人物のことをよく知っていたからだ。
女性にしては少し背が高く、白髪の絹のような髪の毛は光に透けると青く見え、痩せてはいるが出るところは出るナイスバディだ。顔は恐ろしく均整が取れていて美しく、寧ろ美しすぎて性欲が湧かないから、毎日同じ部屋で寝てても全然気にならなかった。それが、いつかの講堂集会の時みたいな民族衣装っぽいドレスを着て、やけに格式張った服装を着た男たちを従え、しずしずと先頭を歩いている。
「って、桜子さんじゃねえか。なにやってんだ、あの人は?」
本当によく知っている人だったから、有理は自然とその言葉を口に出してしまっていた。しかし、言うまでもなく、今は絶対に誰にも気づかれてはいけない状況である。
「誰だ! そこにいるのは!」
その声が思ったよりも大きかったのか。それとも、通路が声をよく反響させるからだろうか。最悪なことに、有理の声は教会の者たちの耳にも届いてしまったようだった。
やばいと思った時にはもう手遅れで、警護するように前に飛び出してきた男たちの後ろで、桜子さんはプラスチックみたいな目をしてこちらを見つめている。
男たちは武器を構えたまま、警戒するように、じっと有理の方を見据えて動かなかった。体を低くして、いつでも飛びかかる準備は出来ているとその目は告げている。
有理はもはや逃げることは不可能だろうと覚悟した。しかし、見つかったのは自分だけで、マナはまだ気づかれていないはずだ。彼は背中に回した手を振って、彼女に逃げろと合図を送ると、両手を上げて降参のポーズをしながら、その実、通路を塞ぐような格好で彼らの前へと進み出た。
「すみません。怪しいものじゃないんです」
「何者だ!?」
「冒険者ギルドから派遣されてきた者です。外の群衆整理の応援に来たんですけど、ちょっと道に迷ってしまって」
「こんな場所まで入り込むわけがない! 武器を捨てて、その場に這いつくばれ!」
「はいはい、言われたとおりにしますよっと」
有理がそう言って、膝をつこうとした時だった。彼の背後から小さな影が飛び出し、通路の奥へと駆けていった。それを見た教会の男たちは慌てて追いかけようとしたが、彼らが有理を押しのけて通り過ぎようとした瞬間、
「ラス ヴィ ファリ」
まるで床が凍っているかのように、すってんころりんと、彼らはその場に転がってしまった。手に持っていた武器がカラカラと音を立てて飛んでいき、不意打ちを食らった男たちがもんどり打って倒れている。
やられた本人たちは何が起こっているのか理解できていない様子だったが、しかし、それを見ていた他の連中には、有理がなにかしたのは明白だった。
「貴様! 今、何をした!?」
「気をつけろ! 冒険者は、おかしな術を使うはずだぞ!」
男たちは剣を抜くと、問答無用で躍りかかってきた。狭い通路で同時に掛かってこれないのは救いだったが、冒険者であることを明かしてしまったのは迂闊だった。手の内がバレてなかったならまだやりようもあったろうが、もはや相手はこっちをテロリストかなにかであると、脅威認定してしまったようである。