椋露地マナは身長が足りない
椋露地マナには母はいるが父がいない。メガフロートに住む異世界人の中には、そんな話はゴロゴロしていたが、彼女の場合は他とはちょっと事情が違った。
鳳麟帝国の貴族出身の彼女の母親は、50年前の大衝突で連れ合い亡くし、その悲しみが癒える間もなく、国からの亡命を余儀なくされて、属国であった蓬莱国に身を寄せて、最終的にメガフロートへ落ち着いた。
本来なら貴族出身ということで、亡国の民を導く存在であったが、愛する者を失った悲しみから彼女は心のバランスを崩してしまい、以後、精神耗弱状態のまま長い間メガフロートの病院で過ごしていた。
そんな彼女に転機が訪れたのは十数年前。亡くなった伴侶の生殖細胞が生きていたことに端を発する。
元々、長命である異世界人は着床率が低いという欠点があるのだが、彼らは貴族という立場から跡継ぎ問題が常にあり、そのため彼女の伴侶は万一に備えて、自身の生殖細胞を残していたらしい。
そんなことをしても異世界にはろくな人工受精技術は存在しないから、ほとんど意味がなかったのであるが、将来の希望を残したい貴族の間では割りかしあった話らしい。そして幸運なことに、大衝突は戦争という悲劇も生み出したが、それぞれの世界の技術交換というメリットも生み出していた。
科学の発達した地球文明では、既に体外受精の技術は確立されており、また顕微授精の成功率は日に日に向上を続けていた。今では着床率はほぼ100%であり、人体の構造は世界が違ってもほとんど同じだから、残された精子が健康でさえあれば、体外受精は可能であると診断された。
マナの母親はこの知らせを受けると、一も二もなく愛する人の子を欲しがった。長い病院生活で、彼女の体はすっかり衰えてしまっていたから、出産は危険ではあったが、彼女の希望を叶えないこともまた、精神的に危険であると判断した医師は最終的にゴーサインを出した。
医者が懸念した通り、彼女の体調は妊娠期間中の長期にわたって不安定であったが、どうにかこうにか臨月を迎えるまで持ちこたえ、早産にはなってしまったが、母子ともに無事なまま出産に成功した。生まれたばかりの赤ん坊は小さく、体重は1キロにも満たない未熟児ではあったが、それもまた地球の技術のお陰で、出生後、特に危険なことも起きずにすくすくと育った。
その時に生まれたのが、椋露地マナだった。
「それじゃ、椋露地さんって両親ともに異世界人? つまり、ルナリアンだったの?」
「……そう。それで髪の毛の色でバレないようにって、子供の頃から染めてたのよ」
「耳も異世界人みたく長くはないよね?」
「でも、地球人みたいに巻いてないでしょう」
「確かに……なんかちょっと違うなとは思ってたけど」
「これも早産だったせいね。実際に、相当危なかったらしいのよ。少なくとも、地球の技術がなければ絶対に助からなかったくらいには」
出産直後は心身ともにボロボロの状態だった母親であったが、保育器の中の我が子に会えたことがよほど刺激になったか、その後、驚くべき早さで回復を始め、マナが保育器から出る頃には母親も健康な体を取り戻し、母子は一緒に病院から退院した。
しかし、長きに渡る亡命生活の中で、マナの誕生は家族にとっては行幸であったが、鳳麟帝国の民にとってはそうでもなかった。
亡命当時こそ、大陸から逃れてきた帝国人たちもいつかは国に帰れるという希望を持っていたが、しかし50年もの時が経過して、世界の趨勢が決まり、もはや国には帰れないという現実を受け入れるしかなくなった彼らには、かつて周辺の小国でしかなかった蓬莱国に保護され、草木も生えないメガフロートで這いつくばるように、辛うじて生きていくことしか出来ないという屈辱のみが残された。
そんな彼らの中には、不当に蓬莱国を恨んだり、国家を守れなかった貴族を憎んでいる者もいた。丁度、欧州では革命派が民主革命を唱えており、そんな彼らに迎合した者たちは、露骨に貴族を糾弾し始めた。
「本当に、何も知らない子供の頃は良かったのよ。家ではいつもママと二人きりで、ご飯を食べたり、ご本を読んで貰ったり、ママは私が飽きて寝てしまうまで、いつも遊んでくれたのよ。欲しいものは何も無かった。ママさえ居てくれればそれで良かったの。でも、いつまでもそうは行かないわよね」
マナが大きくなって学校に通うようになると、母は娘を守るために働きに出なければならなくなった。娘が本当に小さいうちは補助金も出たが、大きくなるとそれも打ち切られた。
母はそれで軌道エレベーターの修復作業員へと転身した。貴族出身の彼女がそんな肉体労働に従事するのは、時代が時代ならありえないことだったが、帝国が残っていれば彼女は貴族だったかも知れないが、メガフロートでは貴族も平民もないのだ。
しかし、作業員は軌道上に常駐しなければいけないため、ほとんど単身赴任のようなものだった。まだ幼い娘を残して家を開けなければならないのは苦痛であったが、彼女には資格もなく、頼れる者もなく、他にやれる仕事もなかったから、こうするしかなかった。
ずっと一緒だった母子は、それ以来、ビデオ通話越しでしか会話することが出来なくなった。それでも、マナにはそんな母との時間が慰めであった。
小学校に上がったマナは、教師から髪の毛を真っ黒く染めさせられた。どうしてそんなことをさせられるのか最初は分からなかったが、目をつけられないようにする措置だった。しかし、そうやって隠していても人の口に戸は立てられず、すぐに彼女の正体は暴かれてしまい、おまけに両親不在の彼女はイジメの格好の餌食にされた。
彼女は同い年の子と比べても身体が小さくて、ずっと母と二人きりだったせいか世間知らずだった。その無知が憎むべき貴族を連想させ、更にはどこから漏れたか知らないが、彼女が人工授精で生まれたことが知れ渡ると、地球人の手に取り上げられた子供だと言われて、親たちにまで忌避された。
幼い彼女は孤立無援で、いつも一人で泣いていた。しかし母との通話では絶対それと悟られないよう、いつも明るく振る舞っていた。先生たちは表面上は助けてくれたが、解決しようとは誰もしなかった。どんなに親切そうに見えても、結局、自分以外に頼れる人間はいないのだと、彼女は早いうちから学ばざるを得なかった。
だから彼女はこの理不尽が一日でも早く終わるよう、できる限り急いで大人になろうとした。どんなに他人に馬鹿にされても、一生懸命勉強して、そして誰よりも先に学校を卒業しようと決めた。
義務教育が終われば就職が出来る。そうしたら、母と同じ軌道作業員になって、自分も宇宙へ上がるのだ。そうしたら、母と一緒に暮らすことが出来る。そうしたら、もう誰にも馬鹿にされることもない。だから一日でも早く、大人になるのだ。
そして孤独な少女は必死に勉強を続け、飛び級に飛び級を重ねて、ついに高校卒業資格を得るまでに至った。神童と呼ばれた彼女のことを、教師たちはもちろん進学させるつもりでいたようだ。ところが、そんな彼女が就職希望であると知ると学校は大騒ぎになった。
卒業を間近に控えた彼女のことを、教師たちは何度も呼び出して説得を続けた。しかし、彼女の決意が変わらないのを見ると、今度は母に電話して説得してくれるようにと呼びかけた。母も教師と同じように、マナに進学をして欲しがったが、彼女の返事が頑ななのを知ると、諦めて好きにすればいいと突き放した。
どうせ、年齢からして中学生でしかない彼女を雇ってくれるような企業なんてないのだ。みんなそう思っていた。
しかし、彼女の志望先は母と同じ軌道作業員。常に宇宙線に晒される危険な職場で、放射能に強い異世界人ならそれだけで資格があった。そして彼女は筆記試験で蹴られる心配もなかった。それを知った学校はまた邪魔をしようとしたが、彼女は教師の反対を押し切り、試験をパスし、集団面接を受け、晴れて母と同じ職場に就職が決まったのだが……
就職も決まって意気揚々と引っ越しの準備をしていた彼女の元へ、ある日、一通の手紙が届いた。それはいわゆるお祈りメールというやつで、中にはこう書かれてあった。
「私は身長が足りないって」
「身長が……? 足りない……?」
「ええ、そう。私は身長が足りなかったのよ」
彼女は吐き捨てるようにそう言った。
「軌道エレベーターの修復をするには、宇宙空間へ出ることだってあるでしょう? その時、宇宙服を着る必要があるんだけど、規格が決まっていて、私が着れるようなサイズはないんだって。
私、嘘だってすぐに分かったわよ! 確かに私は小さくて、一番小さなサイズでもブカブカかも知れないけど、入らないことはないの。っていうか、そんなの試験を受ける前から、こっちはとっくに調べがついているのよ。面接の時にも聞いて、それで問題ないって言われていたの。だからもう、このメールを送ってきたのは、誰かの差し金としか思えないのよ。学校なのか、ママなのか、それとももっと別の誰かの嫌がらせなのか……
それで呆然としている私のところへ、ある日、蓬莱国の偉い人がやって来たのよ。日本で学校を作るから来ないか? って。私、断ろうかとも思ったけど、無駄だってすぐに悟ったわよね。誰が描いた筋書きかは知らないけど、逆らったところで、また別の誰かがやって来るだけよ。それに、元帝国貴族である私が、蓬莱国の要請を断ったらどうなると思う? しかも、私はその帝国人からも嫌われているから、もうあの島にいるのは限界だった。だから、桜子の誘いに乗って魔法学校へ編入したわけ」
彼女はその日のことを思い出して苦々しそうに、
「でも、そんな私が魔法学校へ編入するって決まったら、今度はあれだけ必死に止めていた教師たちが嫌そうな顔するのよ。自分たちがあれだけ説得しても言う事聞かなかったくせに、蓬莱国に言われたら言う事聞くんだってね。それじゃ私はどうすれば良かったのかしら……? シークレットブーツでも履けばよかったのかしら」
マナはそこまで言うと、ピタリと口を閉ざして沈黙した。多分、言わなくてもいいことまで愚痴ってしまったことを恥じているのだろう。そんな彼女に有理は何も言わず、ただ風の音を聞きながら黙って紅茶を啜っていた。
やがて彼女は目の前に聳え立つ塔を見上げながら言った。
「だからやっぱり、あの塔の上には何も無いはずよ。あの施設を維持するためには、今この瞬間にも、数万人っていう人が空の上で待機していなければならないの。でも、そんなものはどこにもいない。私も、あなたも、あそこにはたどり着けないわ」
大衝突時に現れた異世界人はおよそ7億人だったと言われている。そのうち2億人を中国人がぶっ殺したとしても、まだ5億人が存在するはずだった。地球人口と比較しても、結構な数だ。
でも、有理は生まれてからこの方、日常生活の中で彼らを見かけることは殆どなかった。コンビニや電車の中や、毎日大勢の人が行き交う町の往来でも、異世界人の姿を見ることはなかった。せいぜい工事現場の片隅に見かけるくらいだ。だから、彼らがどこに住んでいるかなんて、あんまり考えたことも無かったが……
見上げれば、塔の上には月が輝いていた。でも、その中間にいるはずの異世界人の姿を見ることは出来ない。今、この瞬間にも、現実世界には何万人という異世界人が空の上で暮らしているというのに、誰もそのことに気づいていない。
ルナリアンという言葉を思い出す。案外、それも的はずれな言葉じゃないのかも知れないと、彼は思った。