高度3万6千キロメートル
午後のお茶会を終えて、ロザリンドは仕事に戻っていき、部屋には有理とマナの二人が残された。
今日は塔に侵入するために情報収集をしていたわけだが、ステファンのお陰でその目処もたち、後はギルドで依頼を受ければいいだけだから、日も暮れてきたのでもう外出は控えましょうということになり、有理はパティオでダラダラと惰眠を貪り、マナはベッドの上でゴロゴロしていたが、よく考えたらどうして同じ部屋に宿泊しているのだろうか。宿屋なんだから別々の部屋に泊まればいいではないか。
受付を通さなかったものだから、当然のように同室に通されてしまったが、今からでも変えたほうがいいだろうか。しかし、旅の間は幾度となく同室で寝泊まりしていたし、今更意識する間柄でもないので、一応、本人に尋ねてみたら、
「馬鹿じゃないの?」
と一刀両断されてしまった。実際、金の無駄だし、いい部屋に通してくれたオーナーの厚意を無下にするだけだから、このままでもいいのだが、なんだか腑に落ちない気分であった。
夕食後、またロザリンドが遊びに来て、女子高生たちが和気あいあいとお喋りしているのを横目にしながら、有理はベッドに寝転がって、今まで覚えてきた語魔法の確認をしていた。
ここまでかなりのスキルポイントを得てきたから、結構な数の魔法を使いこなせるようになっていたが、語魔法は組み合わせ次第では意外な効果が生まれたりもするから、一覧を見ながらあれこれ想像するだけでも結構面白く、いい暇つぶしになるのだ。
例えば名詞のつもりで習得したbookに予約するという動詞的な意味があったり、goを表す「イル」はgo onとgo offで全然別の意味になったり、属性との組み合わせ次第で新たな効果が生まれたりすることもあり、色々試しがいがあるのだ。
そうやってベッドに寝そべりながら、新魔法を作れないか考えているうちに、いつの間にかまどろみに落ちていたようで、目が覚めたら部屋が真っ暗になっていた。
あくびをしながら体を起こせば、ロザリンドはとっくに退席しており、隣のベッドでマナが寝息を立てていた。
久しぶりに柔らかいベッドで寝たせいか腰が痛く、伸びをしてからベッドを降りると、窓から月明かりが差し込んでおり、その明かりを頼りにパティオに出れば、そこには現実を彷彿とさせるような夜景が広がっていた。
この中央都市は森の他の町とは違って、唯一電気が通っている。流石にネオンサインのようなものは無いが、今もあちこちの建物から煌々と光が漏れ出していて、往来には人通りもあり、ここが眠らない街であることを誇示しているかのようだった。
どうして中世レベルの国の中で、ここだけ電気が来ているのかは疑問であったが、やはり軌道エレベーターがあるからだろうか。現実世界でも、軌道エレベーターにはメガソーラーが併設されていて、宇宙空間から地上へ電力を供給していた。ここもそれと同じように、神の国から電気が流れてくるというわけだ。
たしかこのゲームは現実世界の未来という設定らしいから、その可能性はあるだろう。ゲーム開発者も妙なところに力を入れるものだと有理は思ったが、と同時に違和感を覚えた。よく考えれば、このゲームはまだα版で、本来、この軌道エレベーターはテクスチャだけで、そこまで設定が練られているわけじゃないのだ。
なのにどうしてこんな細かな設定まで存在するのだろうか。そもそも、有理たちは未実装エリアを違和感なく旅してきたが、これらのフィールドもまたどうやって生成されたものなのだろうか。確か張偉はNPCがリアルすぎるのは、サーバーのスペックが高いからだと言っていたが……
「眠れないの?」
ぼんやりとそんなことを考えていたら、背後から声が掛かった。振り返ればマナがあわあわと片手で口を隠しながら欠伸をしていた。
「悪い、起こしちゃったか?」
彼女は有理の言葉には何も答えず、ティーテーブルの空いた席に座ると、
「メティ ファイロ プレニ アクウォ ラス ヴィ メティ タイ」
そらで語を唱えて、空っぽのポットにお湯を注ぎ、ティーバッグを2枚取り出すと別々のカップに入れた。香ばしい紅茶の香りが鼻腔をくすぐり、有理の前に運ばれてくる。
「どうもありがとう。まるで本物の魔法使いみたいだね」
「忘れてるかも知れないけど、こう見えて本物の魔法使いなのよ。現実世界もこれくらい簡単ならいいんだけれど。あっちに戻ったら苦労しそうだわ」
「そういやそうだったなあ」
こっちの世界に長いこと居たせいですっかり忘れてしまっていたが、現実世界でも彼女は魔法使いだった。ただし、あっちでは彼女はステファンたちみたいに限定的な能力しか使えず、第2世代魔法も使えるが、ゲームほど万能とは言えなかった。有理なんかは魔法自体が使えなくなってしまうので、戻ったら戻ったでそのギャップに苦しめられそうである。
しかしまさか現実に戻ったほうが大変そうだなんて、そんな風に考える日が来るとは思わなかった。早く戻りたい、早く戻りたいと思っていたはずなのに……彼が苦笑いしていると、彼女の方も自分の言葉に思うところがあったようで、目の前に聳え立つ塔を指さしながら言った。
「ねえ、あんたはあそこに、本当に現実へ帰れるヒントがあると思ってる?」
彼女のその質問は、もちろん考慮しなければいけない最大の懸念事項だった。有理は慎重に言葉を選びながら、
「どうだろうか……でも、そう信じていなければやってらんないし、少なくとも何かがあるのは間違いないと思ってはいるよ。それに、もし今回がダメでも、まだ張くんが開発者に頼んでいる、ハウジング機能を使ったログアウト法が残っている。優秀な研究者も大勢集まってくれてるんだし、いつかは絶対に帰れると思うから、あんまり心配しないでよ」
彼女を落胆させまいと思ってそう言うと、すると彼女は首を振って、
「違う違う。帰れる帰れないって心配をしてるんじゃなくって、私が言いたいのは、あの塔に行く意味は本当にあるのかなってこと」
「……どういうこと?」
「あんたがあの塔に期待しているのは、あの塔の上にあるはずの宇宙ステーションの中に、何かがあるんじゃないかって、そう思ってるからよね?」
「ああ。そうだけど……」
「私は多分、あそこには何もないと思うのよ。きっと空の上には何もない。あの塔は、今見えてる部分しか実際には存在しない、ただのハリボテなんじゃないかって」
彼女のその言葉はあまりに消極的すぎた。だから有理は、彼女はもしかして失敗した時のことを恐れて、そうやって予め否定的なことを言ってるのではないかと思ったのだが、しかし横目で盗み見た彼女の表情にはどこにもそんな弱気な影は見当たらず、清々しいくらいさっぱりしていた。どうも彼女は本気でそう思っているらしい。
「どうしてそう思うの?」
彼が疑問を投げかけると、彼女は塔を指さして、
「この都市に来てから一度も、あのエレベーターが稼働しているところを見たことがないからよ」
「……それって、外から見ただけで分かるようなものなのかい?」
有理は彼女が本物の軌道エレベーターがあるメガフロートの出身であることを思い出し、訊いてみた。彼女は力強く頷いて、
「普通の人はエレベーターって響きで勘違いしてしまうんでしょうけど、軌道エレベーターって言っても、ビルの中にあるような上から吊り下げられた箱のことじゃないのよ。今現在、太平洋上にある軌道エレベーターは全長5万キロメートル。地球を一周するよりも長くて、来年開港予定の宇宙ステーションだって、高度3万6千キロという高さに存在するの。
これってどういうことかわかる? 時速1千キロで高速移動したとしても、1日半もかかるってことなのよ。そんなのをビルにあるような数人乗りの箱の中で過ごしていたら、乗客は発狂するわよ。だから、軌道エレベーターってもっと宇宙船みたいなフォルムをしているの。一番近いのは、高速鉄道ね。新幹線とか、そういうの。
これだけの重量を上げるには、始発駅もかなり大掛かりなものになるわ。それこそ東京駅や新宿駅みたいなターミナルになっていて、そこから引っ切り無しに高速エレベーターが上昇していく姿が地上からも見えるものなのよ。ところが、この都市のエレベーターには、そんな設備が存在するようには思えないわ」
「……確かに」
「それだけの数のエレベーターが行ったり来たりするわけだから、地上から見上げたら一本にしか見えないけど、実際には複数の軌道が存在するのよ。本線、追い越し線、待避線、分岐線、支線。
カーボンナノチューブを撚り合わせて作った軌道が頑丈だと言っても、絶えず宇宙線に晒されていたらそうも言ってられないわ。定期的なメンテナンスが必要だし、突発的に発生するトラブルに対応するために、軌道上に常駐するスタッフも必要なの。
ここからじゃ見えないけど、そういう人たちが暮らしている宿舎が、宇宙空間にはいくつも存在しているのよ。でもそんな環境で働くのは、普通の人間には出来ないから、基本的にスタッフはみんなルナリアンなんだけどね……本当なら私も、この春から、そこで働くはずだったのよ」
「そうだったの?」
「ええ……そのはずだった。でも最終的には却下されて、私は日本の学校へ留学することになったの」
「それは……良かったんじゃないの?」
有理は悪気なくそう言ったつもりだった。しかし、マナは心底不快そうな顔をして首を振った。
「良くはないわよ。良くはない……私は、自分の意志でそこへ行くつもりだったのよ。でも、その意志は捻じ曲げられた」
そう吐き捨てた彼女の瞳は、今まで見たことがないくらい苦痛に満ちたものだった。その視線は目の前に聳え立つ塔の上をまっすぐ見据えており、今日も塔の上には月が輝いていて、そんな彼女の顔を青く染めた。