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時は行き過ぎ

 魔物が湧き出る森の外側を見たあの日から、およそ一ヶ月の時が流れた。あの後も、有理たちは刑吏ギルドの連中と共に旅を続け、今はいよいよ森の国の中央都市へと辿り着こうとしていた。


 この国の具体的な広さは地図がないから分からないが、おそらく関東平野がすっぽり入ってしまうくらいには広かったのではなかろうか。山の上から見た時はそれほど遠くは感じられなかったのだが、森の外縁部から中央へは、とても長い道のりだった。こんなにも時間が掛かってしまったのは、塔という巨大建造物のせいで遠近感が狂っていたこともあるが、やはり森の中を進むというのが思った以上に大変だったからだ。


 森はただでさえ視界が悪い上に、道も悪いせいで歩く速度もかなり制限される。上空から見れば何も無くとも、実は地形が複雑だったり、障害物があって通れなかったりして、まっすぐ進めるとも限らない。更には、町がある場所は決まっているわけだから、無理矢理まっすぐ進もうとすれば、逆に補給が絶たれて困窮する危険性があり、たとえ大回りになるとしても、結局は町から町へと遍歴を続ける刑吏の連中についていくのが、中央への近道だった。


 もちろん、この間、現実世界に帰るために何もしなかったわけじゃない。自分たちでも出来る限りのことは試したが、しかし結局、ゲームのシステム画面をいじっていても、何をしたって帰れないということが分かったくらいだった。


 現実世界からの救援も期待したが、あれ以来、一度も張偉からの連絡はなく、立ち寄った町に冒険者ギルドがあれば必ず伝言を残してきたが、返事が返ってくることも一度もなかった。まるでそんな人物など、始めから居なかったのだと思えてしまうくらいに、本当に何もなかった。


 だから嫌なことを考えてしまう。もしかして、本当は現実世界なんてものは無いんじゃないかって。実は、自分たちは二人共、現実世界から来たと思い込んでるだけの、ただ風変わりなこの世界の住人じゃないのかって。もしくは、現実世界の二人はとっくに起きていて、自分たちは精神だけが取り残されてしまったんじゃないかって……最近はそんなことを考えては、憂鬱になる日も多かった。


 ともあれ、この一ヶ月に起きた出来事を記そう。


 この一月は、刑吏の連中と行動を共にし、ほぼ1日に1町というペースで進んできた。町を素通り出来ればたまに2町進むこともあったが、大抵の町には必ずと言っていいほど罪人が居て、領主に頼まれて処刑をしなければならなかったからだ。


 求められると彼らは町の外にある水車小屋のような目立たない場所で仮面を付けて、楽器をちんどん鳴らしながら広場に入っていき、そして処刑を行うのだ。


 その際、どの町の住民も、熱狂的といえるくらいに受刑者に対して毒づいていたのだが、初めて見た時は圧倒されてしまったが、何度も見ている内に段々慣れきてしまった。だからといってあまり気分のいいものじゃないが、なんとなくではあるが町人たちがあんな狂ったように叫ぶ理由も、ほんの少し分かってきた気がする。


 というのも、この世界にはこれくらいしか娯楽がない……そう、彼らは処刑を本気で楽しんでいるのだ。罪人が首をはねられるのは、自分たちの絶対の正義の象徴であり、信仰を確認するための作業でもあったのだ。何を言ってるか分からないだろうが……


 この国で最も重い罪は殺人ではなく火付けである。あの外側を見たことで理解したが、この国に住んでいる人々は森を失えば、もう絶対に生きてはいけない。だから、森に火をつけることは最大の罪であると教会は教えており、人々はその教えを守って暮らしている。


 誰だって理解できるだろうに、ところが、それでもこの国では、森に火を付ける者が後を絶たないのだ。


 どうしてそんな馬鹿げた真似をするのか? といえば、やはりそれは抑圧されているからだろう。森に火を付けられないということは、焼畑が出来ないということであり、同じ理由で森を切り拓くことも出来ないから、実はこの国の人々は食料の生産手段を教会に握られているわけである。


 では足りない食料をどうしてるのかといえば、神の御名の下に教会から配給されている。そして実際に歩いてみて分かったが、町同士は非常に接続が悪く、隣町といっても交流があることは殆ど無い。彼らは鬱蒼と生い茂る森林に囲まれ、日夜、野生動物や魔物に怯えて暮らしているのだ。


 本当にこれでいいのか? 自分たちは教会に騙されているんじゃないのか? と考える輩は当然出てくるだろう。しかしその反逆は、実際に外側を見てきたから断言するが、とんでもない裏切りであった。


 だから人々は熱狂するのだ。罪人に死を。彼らは自分たちを殺そうとしたのだから当然なのだ。


 そして人々は奇跡を見るのだ。首を落とされた罪人は、魔物のように光となって消えてしまい、その光は塔の上へと飛んでいく。


 その光景を見れば、教会を信じるには十分だろう。だから人々は競う合うように罵るのだ。一番、悪を断罪した者が、一番、神の信仰が篤いのだ。


 それはジョージ・オーウェルの小説に似ていた。1984年のオセアニアで、党員たちは裏切り者に向かって二分間、殆ど気が狂ったようにヘイトを投げかける。ビッグブラザーは統治のためにそれを強制していたわけだが、果たしてこの世界の教会は、どこまで意識してやっているのだろうか。


 いや、分かっているのだ。自分でもこんなことは考え過ぎであると。何故ならここはゲームの中なのだから。あれは何らかの演出に過ぎないはずなのだ。なのに、どうしてもあの奇妙な光景が、ただのゲームのイベントだとは割り切れない自分がいる。


 実際、それを裏付けるものはあった。


 この一ヶ月の間に、元々は真っ黒だった椋露地マナの頭髪が、徐々に明るい色に変わっていった。元々、日に透けると赤く見えることから、純粋な黒ではないと思ってはいたが、今では完全に色落ちして、茶を通り越してピンクブラウンみたいな色をしている。流石にこの変わり方は異常だから、もしかしてこの世界の水に問題でもあるんじゃないかと最初は疑ったのだが、なんてことない、彼女の髪は元々こういう色をしているそうだ。彼女は普段、ずっと髪を黒く染めていたのだ。


 何故かといえば、実はこの髪色は、中国に滅ぼされた鳳麟帝国では貴族にしかない髪色だそうで、メガフロートで暮らしていく上では、目立って仕方なかったからだそうだ。彼女の身の上については詳しいことは分からないが、色々複雑な事情があるらしい。


 それはともかく、元の髪色に戻っただけだと彼女は言うが、冷静に考えればそれもおかしな話である。ここがゲームの中だとすれば、どうしてそこまで再現出来るのだろうか。


 元々、有理とマナの二人の姿が元の世界のままであることも変な話だが、それはゲームにログインする際にスキャンされたと考えれば分からなくもない。だが、その後、ゲームの時間が経過するにつれて髪の色まで変わっていくなんて、ただ外見をスキャンしただけでそんなことが可能だろうか?


 しかし、ここが現実だと考えるのも馬鹿げている。もし、ここが現実だとしたら、どうしてゲームのメニュー画面なんてものが見えるのだろうか。大体、有理は現実では無能力者だが、この世界では魔法が使えるのだ。そしてこの世界のルールは現実世界とはかなり異なっていた。


 空の上には神が住まう天の国が存在する。神は地上を創造するにあたって火風水土の四元素を地球に置いた。火は軽いから瞬く間に天へと上がって太陽となり、こうして温まった天球が回転を始める。天球が回転を始めると温まった風が吹き始め、水は蒸気となって空へ上がり、神は水と水の間に青空を置いた。水の蒸発はさらに進み、やがてその下にあった地上が見えてくる。空に昇った水は凝集し始め、様々な天体や星々となって、地上に残された水が様々な生命を作り出す。こうして四元素によって、あらゆる地上の生き物が作られたと言われている。


 あの軌道エレベーターは、その神の国へ通じる唯一の道だそうだが、この世界にトマス・アクィナスは存在しない。どうしてこの世界にこんな神話が生まれたのかは分かっていない。ただ、始めからあったとしか考えられない。そしてその教義を、教会とやらがどこからか持ち出してきたのだ。


 教会は中央都市にあって、神の塔を管理しており、天に住まう神の声を授かってこの国を統治しているそうである。しかし、現代人であれば誰だって知っている。軌道エレベーターの上にあるのは神の国なんかじゃない。宇宙空間だ。だが、ここはゲームの世界で、あそこに何があるかは定かではない。


 だから実際に行ってみるしかない。そこに旅の終着点があるかどうかも分からないが、目的地はもう目の前に迫っていた。


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