覆水盆に返らず
張偉はその後いくら待っても戻ってこなかった。
最初のうちは、元の身体に戻れるかも知れないという期待の方が大きかったが、それはいつの間にか、彼が戻ってきてくれることへの希望へと変わっていた。
きっとゲーム内外の時間の流れが違うせいだと決めつけて、二人は辛抱強く待ったが、数時間が経過して、ついに日が傾いて来ると、流石にそうも言っていられなくなった。
これはもう間違いない。多分、張偉は宣言通りにちゃんとゲームを終了させたが、二人は元の身体に戻れなかったのだ。
今、現実世界の自分たちの身体がどうなっているかは分からないが、少なくとも、ゲームが起動していようがいまいが、二人の精神はこの世界に取り込まれたまま帰れない、ということがこれで確定してしまったようだった。
諦めの感情が場を支配し、有理は長いため息を吐いた。
現実世界と連絡が取れなかったこの4日間は、出口の見えないトンネルに入り込んだみたいで何をやっても希望が見いだせなかった。だからここへ来てやっと見えた光明に、思った以上に気がそぞろになってしまっていたのかも知れない。本来なら取らなくてもいいリスクを取って、逆に泥濘にはまり込んでしまったようだった。なんであんな行動を取ってしまったのだろうか。今となっては悔やんでも悔やみきれない……
「ごめんなさい……私が余計なことを言ったせいで……」
そのため息が思ったよりも大きかったのだろうか、振り向けばマナが青ざめた表情で立っていた。有理は慌てて首を振って、
「何いってんの。俺だって同意したんだから、椋露地さんのせいじゃないよ」
「でも……」
「そんなこと言ったら、最初にゲームをしようって言って巻き込んだのは俺なんだし、それに、この状況がそもそも俺の魔法のせいかも知れないんだから……って、待てよ? ホントにそうなら、俺が頑張れば案外なんとかなるかも知れないじゃないか。元に戻れる可能性がまったく無くなったわけじゃないんだ。だから元気だそうぜ」
有理が空元気を装ってそう言うと、マナも愛想笑いを返してきたが、その顔色は相変わらず優れなかった。
実際、マナは自分が悪いと思っているようだが、有理は有理で、自分がこの状況を引き起こしている元凶だと考えていた。彼があの日廃工場で発動した魔法の、その影響と結果はまだ何も判明していなかった。もしかしたら、これこそが彼の魔法かも知れないのだ。だからどっちが悪いと言い出すと水掛け論になりかねない。
それに、それは最初の日に焚き火を囲みながら、既に二人で話し合ったことでもあった。今はそんなことをやってる場合ではない。二人は改めてそれを確認し合うと、これからどう行動するかについて議論を始めた。
まず、現実との連絡手段については、もうこちらからアプローチするのは不可能だと思っていたほうがいいだろう。というか、手がかりが無さすぎて、どうすればいいか考えていたら、精神的にもたないだろうという判断である。
また、この4日間は、きっと張偉が帰ってくると信じて、最初の町の周辺をうろつき回っていたわけだが、実際に彼がログインしてきたとき、システムがそれを通知してきたことから、特にこの場所に拘る必要はないだろうと思われた。これからは一箇所に留まるより、もっと広範囲を探索して、現実世界に帰れる方法を探したほうがいいだろう。
怪しいのは、まだゲームには未実装と言っていた森の外と、どこからでも見えているあの軌道エレベーターだ。有理は、特に後者が怪しいんじゃないかと睨んでいた。これと言った理由はないのだが、なんとなくゲーマーの勘とでも言おうか、案外、あの塔の上に登ったら世界の真実が明かされて、あっさりと元の世界に戻れるんじゃないかという、そんな気がするのだ。
幸い、路銀の方は冒険者ギルドのクエストを受ければなんとでもなりそうだった。戦闘面ではマナの弓が頼りになるし、彼女には及ばないが有理もナイフと語魔法が使える。ゲーム世界に閉じ込められてしまったお陰で苦労しているわけだが、ここがゲームの世界であることが、翻って彼らの希望にもなっていた。
そんなわけで、当面の方針は、まずは世界の外側を確かめに森の外縁部へと向かい、それから軌道エレベーターのある中央へ向かおうということになった。そこは未実装エリアだから、たどり着けるかは分からないが、それも含めて調べよう。どうせ、他にやれることなんて何もないのだ。
方針が決まったところで、今日の寝床を探す必要があった。気がつけば太陽はすっかり沈んでしまっており、森は数歩先も見えないくらいに真っ暗になっていた。尤も、この4日間ですっかりこの暗さにも慣れしまっていたから、道に迷う心配はなかった。なんなら魔法で明かりを作り出すことだって出来る。
問題は、これから町に戻って宿を探すのは不可能だということだった。この世界は、元から人の往来が少ないこともあって、飛び込みの宿みたいなものは存在しないのだ。そして田舎の夜は大抵早いものである。だから今日も野宿かなと覚悟したのだが、
「この前の水車小屋って借りられないかしら? 外で寝るのはそろそろきついわ」
とマナが言う。
確か、前回、出掛けに鍵を返しに行ったので、小屋番の家は知っていた。ダメ元で訪ねてみたら案外こういうことがあるのか、すんなりと貸してくれたので、今日は水車小屋に泊まることにした。まあ、結構ぼったくられたような気はするのだが。
ともあれ、一晩の寝床は確保出来たので、今夜は久しぶりにぐっすりと眠れそうである。ゲーム内のこととはいえ、暗い森の中で野宿するのは警戒が必要なので、このところはろくに眠れていなかったので嬉しい限りだ。ゴブリンくらいにはもうやられはしないが、流石に寝ているところで不意打ちを食らったらどうかは分からない。そういえば、死んでリスポーンするかどうかもまだ分からなかった。攻撃を受けると普通に痛いから、試したくとも試せないのだ。
そんなことを考えながらウトウトしていたら、マナが水浴びをすると言って小屋から出ていった。彼女のほうが強いのだから心配ない思うが、一応警戒しておこうかと、魔法を唱えかけたが止めておいた。探知魔法は光で表現されるから、シルエットはばっちり見えてしまう。別にそれで彼女の裸が見えるわけじゃないのだが、なんだかノゾキをしているみたいで気が引けるのだ。
というか、このところずっと一緒だったから意識していなかったが、マナとは特別仲が良いわけでも、兄妹ってわけでもない。こんな暗い小屋の中で二人きりだというのは、冷静に考えてまずい状況なんじゃないだろうか?
彼女とはもはや一蓮托生で、今となっては現実世界との繋がりは彼女の存在しかない。もしも彼女がいなくなってしまえば、もはやここがゲームか現実かの区別がつかなくなってしまうかも知れないのだ。だからそんな彼女と気まずい関係になるのは、絶対に避けねばならないだろう。
相手が女の子だと思うから意識してしまうのだ。ここは1つ、ゲームのキャラクターだと思うのはどうだろうか……いや、駄目だ。現実世界の女なんかより、2次元の方が好みまである。なんだ。逆に彼女は三次元の女だと思えば大して困らないじゃないか。思えば桜子さんと毎晩狭い部屋で寝ていたくせに、今更意識するほうがどうかしている。
などと下らないことを考えていた時だった。
「きゃあああああーーーーーっっっ!!!」
暗い森の中に、甲高い悲鳴が轟いた。テーブルに頬杖をついて、うたた寝をしていた有理はその瞬間に現実へと引き戻された。
今のはなんだ? マナの悲鳴か?
今更、気後れなんかして探知魔法をかけずに警戒を怠ったことが悔やまれた。彼は椅子を蹴っ飛ばすようにして駆け出すと、扉を蹴破るような勢いで小屋から飛び出した。外は月明かりで仄かに青く光って見えた。キョロキョロと周囲を見渡すも、人の姿は見当たらなかった。
彼女はどこだ? 川で水浴びをしているはずだ……相手はゴブリンか? それとも他の魔物だろうか……
有理は探知魔法を掛けつつ川の方へと駆け出したが……しかし、その勢いは数メートルしか続かなかった。
「よう、有理! また会ったなあ」
短距離走からジョギングへと速度が落ちていく。見れば、川の方から誰かが手を振り歩いてくる。それは以前、この水車小屋で出会ったステファンだった。彼の背後には刑吏の仲間たちもいて、
「きゃああーーーっ! マナ! また会えて嬉しいわ!」
そして、きゃあきゃあと女子高生みたいに嬌声を上げている、マナとロザリンドの姿があった。