森の中で女性を助ける
バシャバシャと水を蹴飛ばしながら、一人の少女が夜の森を駆けていた。背後には彼女を捕まえようとする無数の手が迫ってきており、時折彼女の体に触れては、暗い森の中に下卑た嫌らしい笑い声が響き渡るのだった。ゴブリンだ。
この邪悪な魔物に捕まってしまったら最期、ただ殺されるだけでは済まないことは、子供の頃から嫌と言うほど聞かされてきた。そのおぞましい行為の数々を思い出し、彼女は半狂乱になってその手を振りほどいては、また必死に暗闇の中を逃げ惑うのであった。
またゴブリンは最弱の魔物としても有名であった。だから彼女の足でも逃げ切るのは十分に可能なはずだった。だが、今は状況が悪かった。彼女は今日ここへ来たばかりであり、慣れない土地の知らない森の中で、これだけ大勢の魔物に囲まれてしまっては、とても逃げ切れるものではなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。水浴びをしたくて、ほんのちょっと小屋を離れただけなのに……彼女は自分の軽率な行いを呪った。
誰もいない森の中は静謐で、川のせせらぎは穏やかで、びっくりするくらい水が澄んでいて、木漏れ日のように差し込む月明かりが幻想的だったから、つい時間を忘れて水浴びを楽しんでいた。そして気がつけば、いつの間にか彼女はコブリンの群れに取り囲まれていたのだ。
もちろん、すぐに助けを呼んだが、誰も来てはくれなかった。せめて、仲間に気づいて貰えるくらいの距離で水浴びをしてればよかったのだが、逆に仲間に覗かれるかも知れないのを嫌って、森へ入りすぎたのが災いしたのだ。
彼女は取るものも取りあえず逃げ出したが、ゴブリン共は分かってやっているのか、小屋の方へは近づけそうになかった。だから逆の方へ逆の方へと逃げる羽目になってしまったのだが、こうなってしまうともう仲間に気づいて貰うのは絶望的だった。
河原という場所も最悪だった。一見すると見通しが良くて逃げやすそうに思えるが、ぬかるんだ地面とゴロゴロした岩が多く、走るには不適な場所で、かといって川に入れば水が足にまとわりついて、すぐに追いつかれてしまう。
いっそ、森の中へ逃げこみたくなるが、暗い森の中では道を見つけることすら困難であり、もしも薮に突っ込んで身動きが取れなくなったら、それでおしまいである。
だから河原を逃げ続けるしかないのだが、見通しが良いということは、相手からも見えやすいというわけで、分かれ道もないからいつまで経っても振り切ることが出来ず、彼女はかれこれ30分近くも、この不毛な追いかけっこを続けていた。
既に膝も足もガクガクで、何度も転んで全身が血まみれ状態だった。息も上がって脳は酸欠状態で、まともに考えることも出来なかった。もう何度目だろうか、彼女は足がもつれて転倒するのを見るや、ゴブリン共は奇声を発して手にした棍棒を振り下ろしてきた。激痛が走り、気が遠くなる。それでも彼女は手近な石を掴んで魔物を殴りつけると、どうせ無駄だと思いつつも、必死に助けを呼んだ。
しかしもう体力はとっくに限界に達していた。その悲鳴は森のざわめきにかき消され、川のせせらぎの方がまだ聞こえるくらいに小さいものだった。自分がもうどこに居るのかもよくわからない。仲間には絶対に声は届かない。もう駄目だ……彼女はついに心が折れそうになった。と、その時だった。
「諦めずに走って!」
必死に腕を振り回している彼女の耳に、誰かの声が飛び込んできた。もうそんな期待は完全に捨て去ってしまっていた彼女が、驚いて声のする方を見れば、月明かりが反射する川の向こう岸に、弓を構える少女の姿が見えた。
そして、その瞬間、彼女に伸し掛かっていたゴブリンの頭に矢が突き刺さったかと思えば、悲鳴を上げることすら出来ず、ゴブリンは光の塊になって虚空へと消えていった。少女の射撃は恐ろしく正確で、彼女に覆い被さろうとしていたゴブリン共が、次々と倒されていく。
しかし、それでも人数だけを頼りにする魔物だけあって、河原にはまだとんでもない数のゴブリンが集中していた。邪悪な魔物は仲間がやられて、はじめは金切り声を上げて怒り狂っていたが、やってきたのがまた女性であることに気づくと、今度は歓喜の声を上げた。
そして魔物たちは既に手負いの彼女よりも、新たにやってきた獲物の方へと狙いを変えて、一目散に川を渡ろうとした。ところが、
「イル エレクトロ!」
ゴブリンの集団が川の真ん中まで進もうとした時だった。対岸の少女……マナとはまた別に、岩陰にこっそり隠れていた有理が呪文を唱えると、川に電流が流れて水の中に居た魔物たちはみんな感電した。
強い衝撃音が辺りに轟き、一瞬眩しい閃光に包まれたかと思えば、次の瞬間には川を渡ろうとしていた魔物たちはみんな光の塊になって空へと上がっていった。
この奇襲で残った魔物はもう数体だけであり、負けを悟った連中は泡を食って逃げ出そうとしたが、そうはさせじと飛びかかる有理と対岸のマナの射撃で、ゴブリンの集団はあっという間に蹴散らされていった。
無数の光がまるで蛍のように川の上をぐるぐる飛び回っている。それが宙にかき消えるように無くなると、川はまた元の静けさを取り戻していた。
「大丈夫ですか?」
覚えたばかりの魔法で周辺をサーチして、近場にはもう危険そうな動物がいないことを確認した有理は、対岸のマナに合図をしてから追われていた女性に駆け寄った。
女性は自分が助かったのがまだ信じられないのか、呆けた表情のままで有理の顔を見上げている。着てる服も体もボロボロで、あちこちに血が滲んでいて見ている方が痛くなるほどだった。有理はまだ放心状態の彼女に、昼間ギルドで買ったポーションを手渡すと、それを飲むように勧めた。彼女はそれでもまだ暫くの間動きを止めていたが、やがて自分が助かったという実感が徐々に沸いてきたのか、安堵した途端にシクシクと泣き始めた。
こうなると男はどうして良いのかわからなくなる。有理がオロオロしていると、何故か両手いっぱいに魚を抱えたマナがやって来て、
「わっ! あんた何泣かしてるのよっ!」
彼女は立ち尽くしている有理を突き飛ばすと、泣いている女性に寄り添うように慰めの言葉を掛けはじめた。
***
「助けてくれて、本当にありがとうございました」
マナのお陰で、暫くすると女性は落ち着きを取り戻した。
女性の名前はロザリンドと言って、町の住人ではなく、今日ここへやってきたばかりの旅人だそうだ。ここに来たのは兄の仕事の都合なのだが、その兄が町で用事を済ませているあいだ、一足先に水浴びしておこうとしたところ、魔物に襲われてしまったらしい。
助けも呼べず、もう諦めていたところ、二人に助けてもらい、ホッとしたら涙が出てきたらしく、有理には悪いことをしたとしきりに謝っていた。その気持ちはよく分かるので気にしないで欲しい。
取りあえず、お礼も兼ねて兄を紹介するから、よかったら宿泊先まで来てくれというので、喜んでお供することにした。別にお礼が欲しいわけではなくて、彼女を一人で帰すわけにはいかないからだが、その折、二人が宿無しだと知った彼女が、今晩泊めてくれることになったので結果オーライである。
というか、あまりに都合がいいのでイベントなんじゃないかと勘ぐりたくもある。ここがゲームの中だと思えば十分有り得る話だが、明日また張偉に聞いてみよう。
因みにただで泊めてもらうのもあれなので、さっき手に入れたばかりの大漁の魚をお土産として持っていくことにした。なんでこんなものがあるのかと言えば、有理が川に電気を流した結果、魚がプカプカ浮いていたからだ。
まったくそのつもりはなかったのだが、川を渡るゴブリンを一掃しようと思って、電気の魔法を習得してみたのであるが、それが期せずして電気ショック漁法になってしまったらしい。下手したら、今回だけの一発芸になりかねないと思っていたが、スキルポイントを突っ込んだ甲斐はあっただろうか。
それにしても、ゴブリンは光になって消えたというのに、魚の死骸はそのまま残っているのはご都合主義にも程がある。ここが現実の世界ではなく、ゲームの中だと改めて実感させるような出来事であった。
「お二人は冒険者の方でしたか。道理で見たことない魔法を使えるわけですね」
「この世界の人たちは魔法が使えないの?」
「いいえ、使えますけど、冒険者の方と比べれば大した力はないんですよ。住む世界が違うからでしょうか?」
プレイヤーとNPCとで力の差があるというのもまた、いかにもゲーム的な印象を受けたが、それよりもロザリンドが、有理たち冒険者と自分たちは住んでいる世界が違うということを正しく認識している方に驚いた。
この世界のNPCは生成AIで、ある程度自発的な行動をするようだから、それを知らないという設定を突き通そうとすると、色々と齟齬が出てくるからだろうか。だったら最初から知ってることにしておいた方が無難というわけだ。
そんな話をしながら川岸を20分くらい歩いていたら、やがて前方が開けて、大きな建物が見えてきた。川沿いに建てられたその建造物の側面には大きな水車が回っていて、ガタゴトと規則正しい音を立てている。
町からそれほど遠くないことから、きっと町共用の粉挽き所か何かなのだろう。うっかり売春婦でも営業してたらバツが悪いから、有理は避けて通ろうとしたが、ロザリンドの目的地はその水車小屋のようだった。
どうやら彼女の兄は連れが多いらしくて、宿屋には泊まりきれないから、町に滞在する間は共同でここを借りているらしい。それならそうと早く言って欲しいと思いつつ、彼女の後をついていくと、その水車小屋の前に数人の男たちが屯しており、キョロキョロとあたりの様子を窺っているのが見えた。
すると彼女はその人影を見るなり、「兄さん!」と親しげに叫んで、パタパタ足音を鳴らして駆け寄っていった。
どうやら運良く彼女の兄に会えたらしかった。これでお役御免であるホッとしつつ、挨拶するつもりでその後をついて行ったが、しかし有理たちは数歩もしない内に足を止めてしまった。
ロザリンドが兄と呼んで抱きついている男が、ぬっと顔を上げてこちらを見た。だが、その表情は窺えなかった。それは辺りが暗いからというわけではなく、その男が仮面をつけていたからだ。
しかも、その仮面には見覚えがあった。それはあの町の広場に突然現れた男たちが着けていた仮面だった。なんと彼女の兄は、夕方に町で出くわした、あの気味の悪い処刑人だったのである。