皇帝テンジン11世の結末
大衝突後、中国との戦争に敗れてネパールへと逃れた皇帝テンジン11世は、そこでウダブの働いていた安宿へと這々の体でたどり着いた。付き人たちは皆殺害され、何もかも失った彼は、噂されているように憎しみの炎を燃やし……たりはせず、最初の頃はただただ放心状態だったらしい。
まるで死人のように瞳は虚ろで、自力では立つことすら出来ず、日がな一日横たわったまま微動だにしない。放っておけば食事すら取らないので、気の毒に思ったウダブは伯父に反対されるのも構わず、皇帝の世話をすることにしたそうである。
そんなウダブの献身的な介護もあって、皇帝は徐々に我を取り戻すと、この親切な青年に礼を言うために言葉を覚え、そして彼に勧められるまま仏門に入り、そこで仏の教えを知ることとなった。
国を失い、財を失い、家族を失い、億を越える臣民を失い、この世のあらゆる苦しみを受けてきた彼に、仏教は合っていたのだろう。
彼は伽藍に入ると、高弟の導きにより八正道を実践し、解脱への道を歩み始めた。暫くすると精舎から出て、風吹きすさぶ岩山へと修行の場を移し、そこでこの世の苦しみについてひたすらに考え始めた。
朝、托鉢によりその日の糧を得ると、あとはひたすら岩の上に座って考えた。石の上にも三年というが、その人は三十年間、来る日も来る日も岩の上に座って考え続けた。雨の日も、風の日も、嵐が吹きすさぶ暗い夜も、灼熱の昼も。ひたすらに考え続けた彼は、そしてついに悟りを得たのだ。
ある日、ウダブがいつものように皇帝の世話をしにやってくると、その人の背中から後光が差していた。まばゆい光を見た彼は驚いて、すぐに高弟たちに伝えたが、彼らはテンジン11世は異世界人だから魔法を使っているだけだと言って取り合わなかった。それでもウダブは皇帝が尊い何かになったのだと信じ、じっと岩の上で瞑想を続けるその人に尋ねた。あなたは涅槃にたどり着いたのかと。
すると皇帝は、自分は悟りを得て間もなく入滅する。しかし、その前に自分の世界の全ての人々を苦しみから解放するための請願を立てたと言った。この世にいる限り、人は苦しみから逃れられない。だから彼は三千世界に入り、そこで憎しみの輪廻を断ち切り、同胞たちを救うと決めたのだという。
そして背後から差すまばゆい光に包まれると、彼はそのまま跡形もなく消え去ってしまった。彼の消え去った後には、まるで実体があるかのようなくっきりとした光の礫が残っていた。ウダブが恐る恐るそれに触れると、光は急に空へと舞い上がっていき、上空で弾けると、まるで太陽のようにヒマラヤの山々を明るく染めたそうである。
ウダブの話はそこで終わった。有理はたった今聞いた奇妙な話が中々飲み込めなくて、暫くの間固まったように動けなかった。さっきまでいた背広の男たちもいつの間にか居なくなっており、周囲は静けさに包まれていた。
有理は最初、この僧侶が冗談を言ってるんじゃないかと疑ったが、彼の何もかもを受け入れるような澄んだ瞳を見ていると、どうやら本気だとしか思えなくなって、面食らいながらも尋ねてみた。
「それじゃ皇帝は、18年前に死んだんじゃなくて、別世界に行ってしまったってことですか?」
ウダブは厳かに頷いて、
「テンジン様はブッダとなられて、今もあちらの世界から私たちを見守ってくださっているのです。同胞たちがこれ以上、不幸で苦しまないように」
「それは流石に信じられないわね……」
桜子さんが率直な感想を漏らす、するとウダブは間髪入れずに切り返した。
「しかし、あなたも別世界から来たのではありませんか? 私たちの住む世界とはまた別の地球から」
確かに、そう言われてしまうと、二の句が継げなくなる。何しろこの世界は本当に、異世界同士が衝突した過去があるのだ。
「2500年前、お釈迦様がブッダとなられて以来、仏教ではこの世でただ一人、釈迦牟尼だけがブッダになり得るのだと、そう言われるようになりました。簡単に言ってしまえば、神様はこの世に一人きりってことですね。しかし、それでは我々仏教徒は、何のために修行をしているのか分からない……そう考えた大昔の大乗仏教の人々は、この世ではなく異世界でならブッダになれる、という抜け道を作り出しました。例えば日本で広く信仰されている阿弥陀如来とか薬師如来とかは、異世界の神様なのですよ。私は今まで、それを馬鹿げた考えだと思っていましたが……50年前、実際に2つの世界が衝突してからは、一概にそうとも言い切れなくなりました。特に私はテンジン様が解脱されたのをこの目で見ていますから、間違いなく異世界はあると考えておりますよ」
ウダブは沈黙する人々に向かってそう言うと、オホンと咳払いを一つしてから、
「話が脱線しましたね。今話した通り、テンジン様は中国に対する憎しみなど、とうに捨て去っていたのです。ですので、穏健派の方々も中国には思うところがあっても戦争は望んでいませんでした。なんやかや、あの土地で生きていくということは、中国と付き合っていくということでもありましたからね。ですが、こうなってしまった以上、あそこから出ていくしかもう選択肢はないんですよ。まず、仕事がありませんし」
「でも、メガフロートに行ったからって仕事があるとは限らないわよ」
ウダブが淡々と話を続けていると、それまで黙って聞いていた椋露地マナが、ボソッとそんなことを呟いた。桜子さんの話では、彼女はメガフロート出身だそうだから、その現状について思うところがあるのだろう。
しかし、そのメガフロートを運営している王家の者の前で、批判的なことを言っても良いのだろうか。ウダブもそう思ったのか、桜子さんの方をちらりと見てからマナに何かを言いかけようと口を開いたが、その時、彼は別の何かに気づいたかのように一瞬目を見開いてから、
「おや……あなたは、もしや鳳麟国の方でしたか?」
いきなりそんなことを言い出した。するとマナは不快そうに顔をしかめて、
「違うわ。生まれも育ちもメガフロートよ……」
「そうでしたか……その光に透けると真っ赤に燃え上がるような髪の色は、テンジン様とそっくりだったもので、つい懐かしくなってしまいました。御親戚に鳳麟国の出身者はいませんか?」
「……もしかしたらそうかも知れないわ」
ウダブに悪気はないようだが、マナは心底迷惑そうな顔をしている。すると桜子さんにしては珍しく空気を読んだのだろうか、彼女が慌てるように話題を変えた。
「マナの言う通りね。だから穏健派の人たちが露頭に迷わないよう、あたしの方でも出来ることはするつもりよ。それじゃウダブ、ここじゃなんだから応接室に戻りましょうか。何人か侍従を紹介するから、今後の話はそっちにしてもらえるかな」
「ありがとうございます」
ウダブは恭しく合掌する。桜子さんは有理の方へ目をやって、
「有理はまた研究棟の方に行くつもり?」
「ん、ああ……そういや、張くんを待たせているんだった。ちょっと時間食っちゃったかな」
「なら、あたしも用事が済んだら行くかも知れないわ。あんたとはあれ以来、全然話せてなかったし、色々聞きたいこともあるから」
「あ、そう? どうせ今日も泊まりだろうから、好きな時に来てくれ。それじゃ椋露地さん……って、あれ?」
「なにしてんの、物部。早く行くわよ」
有理が桜子さんと別れて研究棟へ行こうとマナに話しかけようとしたら、彼女はとっくに廊下のだいぶ先の方を歩いていた。急かすような口調からして、早くこの場から立ち去りたい匂いがぷんぷんしていた。さっきからなんだか居心地が悪いというか、落ち着か無さそうな素振りをしていたが、何かあるのだろうか? よく分からなかったが、他人の詮索をするのも趣味が悪いし、有理はウダブに軽く挨拶をすると、黙って彼女の後を追いかけた。