キモいですね
病院からの帰りにデモ行進に捕まってしまった。警官が誘導しているようだが、隊列は一向に途切れず、渋滞はまだ続きそうだった。黙っていると車内がどんどん暗くなっていくからなにか話そうと思うのだが、これといって会話の糸口が見つからない。周囲を見回せば、ドライバーたちのイライラした表情がいくらでも見つかった。あのデモ行進が自然発生したものかどうかは、その顔が物語っているようだった。
「うるさいから何か音楽でもかけましょうか? 何かあったかな……」
「ああ、それならこれをかけてくれないか?」
青葉がダッシュボードを探ろうとして手を伸ばしていると、そんな彼女の前に張偉がスマホを差し出した。受け取った彼女は矯めつ眇めつすると、自分のと入れ替えにホルダーにそれを差し込んだ。
すると数秒のノイズの混じった無言の後に、そんな暗い空気を吹き飛ばすかのような、やけに甘ったるい声が車内に響き渡った。
『高尾メリッサの、MerryMerryラジオー! 第51回~! ……どうもー! 高尾メリッサです。メリメリー! 今日も始まりましたこの番組、高尾メリッサの好きなこと楽しいこと嵌まってることやりたいこと、色んな、したい! をお届けするバラエティとなっております。いつも番組を盛り上げてくれてるリスナーの皆さん! 今日もいっぱいメールが届いてます。ありがとうございます。早速読んでいきたいところですが……ねえ? 昨日……見てくれましたか? えーと、実は録音中はオンエアまだなんですが、あはは。蒼のエクソダス放送第20回。いよいよ物語も佳境に差し掛かって……』
有理にとってはお馴染みの声が車内に響き渡って、条件反射的に目尻が垂れ下がる。どうやら張偉は、有理が入院中ラジオを聞けなかったんだろうと、気を利かせてポッドキャストを持ってきてくれたようである。
「おお! わざわざ持ってきてくれたの? ありがとう! そうそう今週は検査のせいでリアタイで聞けなかったんだよな……くそ、あの医者どもめ。思い出したら腹たってきた」
「多分、そうだろうと思って。喜んでくれたなら良かったよ」
「なんです、これ?」
後部座席の二人が盛り上がっていると、運転席の青葉が一人だけフラットな声で話しかけてきた。有理はウキウキした声で、
「俺が毎週楽しみにしているインターネットラジオですよ。高尾メリッサって言って、最近売れてきた声優さんです。今や押しも押されぬアイドル声優なんですが、とにかく演技力がすごいんですよ。俺はどっちかっていうと、そっちの方を推してて……」
「へえ……物部さん。こういうの好きなんですね。意外ですね」
「ええ、まあ……って、なに? そのキモいとでも言いたげな表情は!?」
「別にそんなこと思ってませんよ。妄想で怒鳴るのはやめてください」
有理が藪睨みで様子を窺っていると、張偉が苦笑交じりに聞いてきた。
「もうじき公開録音だけど、やっぱり見に行くつもりなんだろ?」
「え!? 駄目ですよ、物部さん。あなた、つい先日死にかけたばかりでしょうに、外出許可なんて出来ませんからね!?」
有理が返事をしようとするよりも前に、青葉がものすごい勢いで反対してきた。機先を制された彼はちょっとムッとしながらも、
「そんな風に行動を縛られるのも癪ですけどね……まあ、安心してください。元々、行くつもりはなかったですから」
「そうなのか? 俺は絶対行くってゴネると思ってたのに。好きなんだろ?」
今度は代わりに張偉が聞いてくる。有理は頷いて、
「うーん、好きは好きなんだけど、なんつーか、複雑なんだよ。俺は声優さんの演じるキャラが好きだから、中の人にはあんまり目立って欲しくはないんだ。実はアイドル声優とかも正直微妙に思ってて……なんていうんだろう、2次元と3次元って別物じゃん? 例えば好きな2次元キャラが居たとして、『わあ、この子生きてますー!』って喜んでるところに、『あ、どうも中の人です』って3次元がしゃしゃり出てきても、白けるっていうか、脳がバグるっていうか、2次元と3次元がどうしても結びつかないんだよ。だって、絶対3次元より2次元の方が優れているに決まってるじゃないか! だったら、最初から中の人なんか居ないって思ってたほうがマシだっていうか、幸せっていうか……」
張偉は若干引き気味に、
「そ、そうか……その割にはラジオは聞くんだな?」
「だって声だけじゃん。こういうキャラを演じてるんだって思えば全然平気だよ。放送作家の台本も面白いし、何より高尾さんが可愛い! 声がいい! わあ、高尾さん(キャラ)が生きてるーって思うと幸せな気持ちになるんだ。でも3次元はNGな」
「はあ……そういうものなのか?」
「変かな?」
「いや、まあ、別にいいけどさ……じゃあ、本当に公録には行かないつもりなんだな?」
「うん」
「ふーん……じゃあ、俺もやめておくかな」
「え? なんで? 張くんは見に行きなよ」
「いや、俺は物部さんが行くってつもりだったから。一人で行ってもつまらんよ」
「別にそんなことないだろ。高尾さん凄い可愛いらしいから、きっと見てて幸せになるんじゃないかな」
「……あんた、見たことないんだろ?」
「うん」
二人がそんな会話を続けている時だった。有理がふと視線を感じて顔を上げると、バックミラー越しに青葉のものすごく冷たい視線が突き刺さった。彼は襲いくる悪寒にブルブルと震えながら、
「な、なんですか、そのキモいですねとでも言いたげな目は」
「……キモいですね」
「あー! やっぱりキモいって思ってるんじゃねえか、こんちきしょう!」
「キモいですね」
有理が運転席をガタガタ揺らしている間もデモ行進は途切れることなく、渋滞はずっと続いていた。
***
デモ隊をやり過ごしたら道路はスムーズに流れだし、戸塚付近で若干の渋滞に巻き込まれた以外は、特に何事もなく学校まで戻ってこれた。いつも抜け出して来るコンビニの角を曲がり、いつぞやみたいに片側だけ高い壁が延々と続く殺風景な道路を進んでいくと、やがて刑務所みたいな門にたどり着く。ちょうどラジオ放送も終わったところで、車を置きに行くと言う青葉と別れると、有理と張偉の二人は通用門をくぐり抜けた。
いつ見てもだだっ広い道路を寮に向かって歩いていると、ここが首都圏であることを忘れそうになる。学校の敷地内は緑が多いせいか、空気も澄んでいるような気がした。そんな空気を胸いっぱいに吸い込みつつ、帰ってきたぞと伸びをしていた有理は、突然、その場にヘナヘナと崩れ落ちた。張偉がぎょっとして尋ねる。
「おわ!? いきなりどうしたんだよ?」
「いや……ここに帰ってきただなんて、ホッとしている自分が情けなくて……」
思い返せば、最初に連れてこられたときは、今すぐ出ていってやるんだと心に誓ったはずなのに、いつの間にこんなに馴染んでしまったのだろうか。あの屈辱を忘れてはならない。まあ、食堂の飯が美味いのは確かだから、今となってはちょっと気に入ってはいるのだが。
そんなことを考えながらエントランスをくぐると、ロビーで屯していたクラスメートがやってきて久しぶりだと声を掛けられた。軽く駄弁ってからエレベーターホールで待っていたら、年の若い生徒が通りすがりにペコリとお辞儀をしていった。いくら嫌だと思っていても、今やここが根城なのだ。そんなことを確認しながらエレベーターに乗り込み、彼は3階のボタンを押しているとき、ふと思い立って張偉に聞いた。
「そういえば、メリッサは? あいつどうしてんの」
「……え?」
すると何故か彼はビクッとしながらそっぽを向いてしまった。わざとらしい反応に首を傾げながら、
「俺のAIのことだよ。いや……さっきまでラジオ聞いてて思い出したんだけど。入院中、何故か寮にアクセスしようとしても出来なかったんだよね。ファイヤーウォールの関係かな? それでちゃんと稼働してるか確かめられなくって」
「あー……そうなんだ。どうだろう」
「いや、どうだろうって君、アプリ入れてるからいつでも確かめられるじゃないか。気になってんだよ。それとももしかして、ダウンしちゃった? 神奈川県全域が停電したって言ってたからなあ」
「あー……そうだな。それはあるかも」
「他に何があるってんだよ?」
張偉はやけに歯切れが悪い。有理が首を傾げていると、彼は少々後ろめたそうな目をしながら、
「……部屋を見れば一目瞭然だから。もうここまで来たんだし、自分の目で確かめてくれないか」
「なんだよ、不安になるだろ。何があったの?」
「……とにかく、俺からは気をしっかりと持てとアドバイスするくらいしか出来ない」
そんな話をしていたら、体がふっと軽くなってポーンと到着のチャイムが鳴った。エレベーターを降りて通路に目を向ければ、有理の部屋のある廊下の一角が、何故か若干暗めに感じられた。気のせいかな? と思いつつ、歩いて行けばそれは気のせいではなく、実際に彼の部屋の前あたりが他とは違って黒ずんで見える。煤がこびりついているような、なんかそんな色をしているような……
嫌な予感がしながら自分の部屋のドアを見れば、何故か警戒色のテープがバッテンに貼られていて、中への侵入を拒んでいた。よく見れば蝶番が外れており、閉じているというよりも立てかけてあるように見えた。
「おい、ちょっと待ってくれ……」
そう言いつつ、有理はその場に足を止めた。さっさと確かめたくもあるのだが、結果を知るのが嫌で足が動かない。ドアノブは変な感じにねじ曲がり、視線を落とせばドアの下の隙間から黒い煤が棒のように伸びていた。
もはや何があったかは考えるまでもなかったが、体が拒否するのをなんとか誤魔化して、何も考えずに無心でドアノブをひねると、有理は部屋の内部を覗き込んでから、
「うぎゃあああああーーーーーーっっっ!!!」
その場にもんどり打って倒れた。
部屋の中は、まさに黒一色だった。床から壁から天井まで、全てが黒い煤で覆われており、備え付けのベッドは天板の部分が剥がれ落ちて、下の収納の中身が見えていた。もちろん中も真っ黒である。
本棚に並んでいたはずの漫画がベチャベチャと水分を吸って膨らんでおり、アニメのパッケージの残骸が床に散乱し、今となっては貴重なパソゲーコレクションは跡形もなく炭化していた。そして鉄のサーバーラックはぐんにゃりとひしゃげており、そこに収まっていたであろうマシンの数々が、山奥に投棄された産業廃棄物みたいに部屋の隅っこにうず高く積まれていた。
「どうも、あの大規模停電が原因で、物部さんのサーバーが火を噴いたみたいなんだ。火災報知器は鳴ったんだが、部屋主がいないから誰も中に入れず、消防車を呼んだそうだが街が大混乱で一向に来る気配がなく、そうこうしているうちに火の手が勢いを増してきたから、焦れた寮監がドアを叩き壊して、みんなでバケツリレーしてなんとか延焼を食い止めたそうだ。ようやく鎮火したときにはもう部屋の中はこの有り様で、助かったのはそこのボストンバッグに詰めておいたそうだが……」
張偉に言われて足元を見ると、有理がここへ来た日に持ってきたバッグが置かれていた。開けて中身を覗いてみたら、パンツが10枚くらい入っていた。
彼はパンツを取り出すと、それを頭からずっぽりと被り、そのまま部屋の中央に向かってダイブした。まだ消火活動してから日が経っていなかったせいか、クッションフロアが水を含んでいて気持ち悪かったが、彼にはもう起き上がる力は残っていなかった。