それだけ
「物部さんにはもう殆どバレてて効きづらいですし、今更ですからねえ。物部さんは、あれ、私が能力を使ってあなたの精神を操ったとか、思考を捻じ曲げてるとか思ってるんでしょうけど、実はそんな特別なことはしてないんですよ」
「嘘でしょ?」
「ホントですって」
「そんなこと言われても、信じられないんですけど」
有理は疑り深そうにミラーを覗き込んでいる。彼女はそんな彼に向かって、ずる賢そうな笑みを浮かべながら、
「ちょっとした心理学の実験なんですけど……例えばあなたが、5枚の女性の写真をとある被験者に見せて、どの人が好みですか? って聞いたとします。被験者は5枚の写真を見比べてその中から1枚を選び、あなたに渡します。受け取ったあなたはその写真をすり替えて、別の女性の写真を見せながら『この人のどこが気に入ったんですか?』と尋ねます。すると結構な確率で、被験者はすり替えに気づかず、自分がどうしてその人を選んだのかと、熱く語り出すんだそうですよ。
実は人間ってこれくらい行動に一貫性がないそうなんです。たった今、自分で決めたことなのに、それをもう忘れて別のことをし始めても、おかしいことに気づかない。悲しくて泣くんじゃない、泣くから悲しいんだって言葉がありますが、実は人間ってのは、いつもただ眼の前にある出来事に対応しているだけで、必ずしもロジックで行動してるわけじゃないそうなんですよ」
「……本当なんですか? それ」
「ええ、信じられないかも知れませんけど、ちゃんとした実験結果です」
有理は本当かな? と思いもしたが、人間の脳が案外いい加減だという話には納得がいったし、身に覚えもあった。例えばAIは、それで会話が成立するなら、平気で嘘の答えを返してきたりする。そして間違いを指摘すると、簡単に謝るのだ。普通、そこまで堂々と嘘をつく人間はいないから、我々はそんなことをされるととてもびっくりするわけだが……
実は今のところAIは表面的な会話のパターンを真似ているだけで、真の推論能力はない。AIは人間に質問をされると、古今東西のあらゆる文献から似たパターンを統計的に見つけ出してきて、それっぽい答えを返しているだけであり、実は何も考えていないのだ。
ところが、そんなAIと会話をしていても、人間は殆ど違和感に気づかなくなってきている。それどころか、このまま学習が進んでいけば、いずれAIと人間の区別はつかなくなるだろうと言われている。ところでAIが人間の脳を模して作られているなら、人間も同じことをしている可能性は高いはずだ。実際その通りで、突き詰めれば人間もAIと同じように、昔の会話の中からそれっぽい返事を探してきて、機械的に返しているだけらしいのだ。
こんなことを言うと、まさかそんなわけがないと頭の中の『意識』が否定するわけだが、冷静に考えるとこの『意識』というものは、『母国語』によって形成されているものなのだから、最初から全部模倣であることに違いはない。つまり、今頭の中で考えていることも、実はいつか誰かが考えたことの模倣に過ぎないわけだ。
こう言われてもまだ納得いかないだろうから、もう一つ例をあげれば、ボクサーがどうやって相手のパンチを交わしたり、ガードしたりしているのかという状況を考えてみよう。
まず前提として、人間の脳は神経細胞のネットワークによって稼働している。ところで、この神経細胞は、細胞内では電気信号で情報伝達をしているのに対し、別の細胞同士は電気信号が届かないので、脳内物質を交換することによって通信を行っている。
これがいわゆるシナプス結合というものだが、電気信号とは違ってシナプス結合は力学的な現象だから、情報伝達手段としては遅すぎるのだ。このせいで、実際に頭の中で『ああしたい、こうしたい』と考えてから行動に移るまでには、大体0.5秒くらい掛かってしまうそうである。
これは日常生活を営むうえではそこまで困らないかも知れないが、例えばボクサーがパンチを避けたりするには遅すぎて話にならないだろう。ボクサーのパンチは飛んでくるまで0・1秒もかからないので、見えた瞬間にはもう避け始めていなければ、避けるなんて絶対に不可能だ。
だから実際に、ボクサーは考えるより先に行動しているのだ。相手の手が動いた瞬間、ボクサーの視神経がその情報を脳に送り、情報を受け取った脳はパンチを避けるか受けるかという判断を(過去の記憶から自動的に)下して、その決断を運動神経に送る。そして運動神経は命令に応じて筋肉を動かす。
意識はその後にようやく立ち現れてきて、仮に脳が避けるという判断を下していたなら、『パンチが来るぞ、避けなきゃ』と考え、受けるという判断をしていたなら、『ガードしなくちゃ』という考えが遅れて立ち現れてきているのである。
ボクサー自身は、まず自分の頭で考えて、避けるか受けるかの決断を下していると思っているのだが、実は行動と思考の順序が逆になっているのだ。
そしてこれはボクサーだけの特別な能力ではない。どんな人間もこれと同じ思考プロセスをしていて、行動と思考の逆転現象は度々起きている。普通に暮らしていたって、人とぶつかりそうになって咄嗟に避けることもあれば、転びそうになって慌てて手すりを掴むこともある。考えても見れば、ただ二本足で歩くことだって、我々は意識しながら行動しているわけじゃない。
突き詰めると、どうも人間は漫然と目の前の出来事に対応しているだけで、行動を意識してコントロールしているわけじゃない。我々は常に考えてから行動していると思っているが、実際は行動してからそれっぽい考えをひねり出していることが多いのだ。
「もうお分かりかも知れませんが、私の能力は人間のこの一貫性の無さを突くものなんです。会話の最中に数々のすり替えを行い、それで相手が話に乗ってきたら、最初からずっとその話をしていたという暗示をかけちゃうんです。すると相手はさっきまで何を話していたかは忘れて、新しい話題に夢中になってしまうんですね」
「……それだけ?」
「ええ、たったこれだけで、人間の行動って誘導できちゃうものなんですよ。学者さんが言うには、私がやってるのは結局、相手が会話に集中しやすいよう、ちょっと瞳孔を狭めたり、音を遮断したりとか、それだけなんだそうです。最初に聞いた時は笑っちゃいましたよ。魔法って言うより、詐欺ですよね。あははは」
青葉の乾いた笑い声が車内に響く。彼女は楽しそうにしているが、有理にはなんとも重苦しい空気に感じられた。彼女の話が本当なら、彼女の魔法は、実は誰もがやってるような、ちょっとした会話のテクニックでしかない。都合が悪い話をはぐらかしたり、嫌な話題を強引に変えようとする時、誰もが同じようなことをやった経験はあるのではないか。なんなら、セールスマンは毎日やっているだろうし、特殊詐欺の常套手段と言われればしっくりも来るだろう。結局、能力は使う人次第だということには変わりない。
しかしそれでも有理は、彼女がそういう力を持つということだけで、彼女のことを嫌っていた。彼女が第2世代だというだけで、薄気味悪いと思ってしまっていたのだ。これが普通の人間の感覚なのだ。
きっと、彼女は最初、何も知らずにこの能力を使っていたに違いない。普段の会話でも自分の主張を通しやすいわけだから、自然とリーダーとなり、誰かを説得したり、なかなか決まらない方針を決定したりしてきたのだろう。その時、彼女は無意識に他人を誘導して、いつも良い結果を得てきたはずだ。そしてそれを自分は人心掌握に長けているくらいにしか思っていなかったはずだ。
だが自分が第2世代であることを知った瞬間、それは魔法の力だったのだと自分で気づくわけだ。それは一体どんな気分だったのだろうか。そして、今まで彼女のことを頼れるリーダーだと思っていた人たちは、どう行動しただろうか。彼女も言っていた通り、中には攻撃的な態度を取るものも居ただろう。
ずっとそんな感情を浴びてきた人間が、反社会的になっていくのは無理もない話なのかも知れない。張偉を誘拐しようとした4人のようになってもおかしくないのだ。そうならなかった彼女は、とても強い人間なのだろう。自分も考えを改めなければならない。彼女が悪に染まらなくて良かった。まあ、人の気持ちを手玉に取るのは玉に瑕だが。
そんなことを考えていると、それまで流れに乗っていた車がブレーキを踏んだ。前のめりになって踏ん張っていたら、あちこちからクラクションの音が聞こえてきた。なんだろう? と思って窓を開ければ、遠くの方からピーヒャラピーヒャラ音が聞こえてきた。見れば、2つ先の交差点を、ちんどん屋みたいなデモ行進が横断していて、それを警察官たちが誘導している姿が見えた。
『戦争はんたーい! 増税もはんたーい! 異世界人実習生は日本を混乱させる悪制度! 今すぐ異世界人を帰国させよ! 中国みたいになる前に、第2世代を隔離せよ!』
中国チベットの騒動以来、日本でも反異世界人デモは増えているらしかった。入院中、ロビーのテレビでそんなニュースを見かけた。今までもデモはあるにはあったが、どこでやってるのか不思議なくらいだったが、こうしてただ車を流しているだけで遭遇してしまうくらいだから、本当に異常なくらい増えているのだろう。何しろここはなんでもない幹線道路なのだ。
信号はもちろん青だがいつまで経っても進まなかった。急いでいるのか、他の車がうるさいくらいクラクションを鳴らしていた。窓を開けていると耳が痛いのでそっと閉じる。運転席では青葉がハンドルに頬杖をつきながら、うんざりするようなため息をついていた。