一夜明けて
事件の翌日も首都圏の混乱は続いていた。電力は復旧していたが、信号機故障のせいで公共交通機関が未だに使えず、経済活動は停滞、流通にも支障を来たし、市民たちがスーパーで列を作った。テレビやインターネットは使用可能だったが、利用できる電子機器が少なくて、災害情報が行き届いているとはとても言い難かった。突然の休校に子どもたちは喜んでいたが、昼食の用意すらままならない主婦は学校の対応に不満を漏らした。とはいえ、住宅地は概ね落ち着いたもので、普段の日曜の朝とあまり変わりなかった。
二次災害が頻発し、警察と消防は交通事故と火事の対応に追われ、治安の悪化が懸念された。市町村が避難所を解放したが、お年寄りは主に医療機関に殺到し、さながら野戦病院のようになってしまっていた。横須賀が機能不全に陥っているという噂が世界に広まったせいで、ロシア軍機がしつこく領海侵犯を繰り返し、その度に自衛隊がスクランブル出動する騒ぎが起きた。ところが、いつもなら猛々しい中国は沈黙を続けており、かえって不気味だった。
人々はこの事態が何故起きたのかを、せいぜい魔法犯罪の一つだという噂くらいにしか知らなかった。政府の発表が遅れに遅れ、職務怠慢を怒っている人も多かったが、普通なら暴動の一つも起きそうなものだが、やけに落ち着いているのは、やはり日本人が災害慣れしているからだろうか。
桜子さんは、公人としてそんな街の風景をぐるりと視察した後、宿院青葉と別れて、一人で神奈川県内の病院へとやってきた。異世界人の彼女がふらりと現れると、待合室に詰めかけていた人々の目が突き刺さった。彼女はそんな好奇の視線を気にせず受付まで歩いていくと、目的の病室の番号を聞いてエレベーターに乗った。公共施設はまだあちこち停電の影響で止まっていたが、やはり病院は最優先で復旧されていたらしく、もう平常通りのようである。
人々は他に行き場がないのか、一般病棟の廊下も見舞客で溢れていて、ぺちゃくちゃとおしゃべりの声でざわついていた。陽光の差す廊下を進んでいき、四人部屋の病室のドアをノックしてから入ると、窓際のベッドの上でぼんやりと外を眺めている張偉の姿が見えた。手元のサイドテーブルの上には、携帯と辞書が開かれていて、何か調べ物でもしていたようである。彼女が近づいていくと、彼は来客に気づいて、視線を窓からこちらへ向けた。
「桜子さん! 良かった。あんたも無事だったか」
「おかげさんでね。そっちも元気そうで何よりだわ」
桜子さんたちはあの後、駆けつけてきた青葉の同僚に救出され、各々近くの病院へと運ばれた。
面白い……と言っていいのかどうか分からないが、あれだけのことがあったというのに、廃工場は崩れることなくそのまま建っており、周辺の建物の崩壊もなかったことだ。かと思いきや、現場から半径200メートルあまりの地面は、空から見ると明らかにクレーター状に陥没しており、地形が変わっているのがはっきり見て取れた。まるでその力を加える対象を選んでいるかのようにだ。
そしてあの場にいた人間に対する選考もかなり働いていた。桜子さんは、猛烈な重力に押しつぶされて気を失ったわけだが、目覚めた時には体に傷一つついていなかった。それは自分が異世界人で頑丈だからかと思いきや、どうやらそうではなく、あの場に居た有理の仲間とでも言おうか、張偉、青葉、関の3人も気を失っただけで同じようにほぼ無傷であったのだ。
対して、敵である四人はひどい有り様だった。特に有理を瀕死に追い込んだ紅は生きているのが不思議なくらいの状態で、今も病院の集中治療室にいるらしい。そのくせ、青葉に銃弾をお見舞いされて瀕死状態だった黒は、腹の中から銃弾が綺麗サッパリ無くなっており、死にそうではあるが、命に別状はないらしい。
この結果はまったく恣意的としか思えなかった。彼は魔法を行使したのではなく、因果を捻じ曲げたと言ったほうが正しいのかも知れない。そしてこの事態を引き起こしたであろう張本人であるが、
「それで桜子さん。物部さんは無事なのか?」
桜子さんは肩を竦めて、呆れるように言った。
「それがもうケロッとしたもんよ。俺、また何かやっちゃいました? って感じでピンピンしてんの」
あの後、現場から運び出された有理は、一旦は近くの救急病院に運ばれたのだが、検査したところ心身に異常は見あたらず、健康そのものだったらしい。しかし、あの時、彼は間違いなく瀕死……いや、殆ど死んでいたはずだ。桜子さんもその目で確かめた。
青葉からそんな証言を得た防衛省は、すぐさま彼を都内の研究機関へ転送し、またいつぞやみたいな検査のたらい回しをしているらしいが、結果は芳しくないようである。
「物部さんは、結局、重力魔法の使い手だったのか?」
「それがよくわかっていないのよ。研究者に言わせれば、あれは魔法を使う前兆であって、実際の能力とは別の可能性が高いんだって。言われてみれば、確かに不自然な点が多いのよね。あたしや有理の怪我が無かったことになってたり、逆に連中の怪我増えてたり」
「もしかして、タイムトラベルとか、ヒール魔法だったとか?」
「それも分からない。少なくとも、あたしたち旧世代にはそんな魔法は存在しなかったから。とにかく、魔法を使ったってことだけは間違いないから、研究者たちはなんとか再現させようと頑張ってるらしいんだけど、でも本人が何も覚えてないせいか何も起こらないみたいね。まあ、あんなことがまた起きたら洒落にならないから、やるにしてももうちょっと慎重に、時間を掛けてやってよって要請しておいたわ。多分すぐ解放されるでしょう」
「そうか……なら良かった」
それを聞いて張はホッとしたのか、ベッドの背もたれに体を埋めてフーっとため息を吐いた。桜子さんはサイドテーブルの上を見ながら、
「それは?」
「ん……ああ。目覚めたはいいが、外で何が起きてるのかわからなくてな。情報収集していた」
「そう、何か分かった?」
「さっぱりだ。SNSは憶測が飛び交ってて当てにならないし、マスコミもテレビも役に立たない。まだ復旧していないサービスが有りすぎて、ネットが重くてどうしようもない状況だ。そうそう、メリッサに連絡を取ってみたが返事がない。もしかすると、物部さんのサーバーが落ちてしまったのかも知れないな」
「あー……それ聞いたら有理、発狂するかも知れないね」
二人はその様子が容易に想像できてしまい、思わず吹き出してしまった。桜子さんはクスクスと笑いながら机の上のもう一つの方を指差して、
「それは、辞書?」
「ああ、英和辞典だ」
「紙の辞書なんて珍しいね。随分久しぶりに見た気がする」
「調べ物をしたかったんだが、ネットがこの有り様ではな。それで看護師に相談したら貸してくれたんだよ」
「何を調べてたの?」
すると張偉は真面目な顔つきに戻って、周りに聞こえないように少し声を抑えて、
「あの時、魔法が発動する際、物部さんがブツブツ英語で何か言ってたろう。なんというか、詠唱というか、ポエムみたいな……」
「ああ、うん、言われてみれば……それどころじゃなくて忘れてたわ」
それに桜子さんは日本語は出来ても英語はまったく分からなかった。だから気にならなかったのだが、両方できる張偉は気になっていたらしい。
「殆ど中学英語だったから聞き取れたんだが、一つだけわからない単語が混じってたんで、それを調べていた」
「ふーん、それって何?」
「collide」
張偉は辞書の単語を指差しながら言った。
「衝突する、ぶつかるって意味だ。then the end would come when worlds collide。あの時、物部さんは『世界が衝突して、終わりがやってくる』って、そう言ってんたんだよ。これって、どういう意味だろうかと思ってさ」
「どういうって……そのままの意味でしょうけど……」
世界の衝突とは、50年前の大衝突のことを言っているのだろうか? その大衝突の結果、世界に破滅がやってくるというような意味であるなら、あまりゾッとしない話ではあるが……
「それをユーリが口走ったって考えると、確かに疑問ね」
「大衝突の結果、終りが来るなら、もう手遅れってことだよな。50年前のことなんだし」
「もしかして別の衝突のことを言ってるんじゃない?」
「俺もそう思ってネットで調べてたらさ、今度は同名の映画を見つけたんだ」
「映画?」
「ああ。when worlds collide。古いアメリカ映画で、惑星同士の衝突で地球が滅びてしまうって内容なんだ。なんか示唆的っていうか、嫌な感じがしないか?」
「うーん……流石に考えすぎだと思うけどね。一応、気に留めておくわ」
今の地球の科学力なら、もしもそんな衝突しそうな天体があるなら、とっくに見つけていそうな気もするが……
有理は他にも、母がもう死んでるとか、自分にはたくさん子供がいたとか、そんなことも口走っていたらしい。しかし彼の母親はまだ健在だし、独身の彼に子供なんかいるはずがなかった。だからあのポエムは、彼自身の事ではないという結論になったのだが、それなら何なんだろうと二人で知恵をあわせても結論は出なかった。
ともあれ、この話はおしまいだと、張偉は辞書を閉じた。窓の外を見れば病院のすぐ前の信号機はまだ復旧しておらず、警察官が手信号で誘導していた。街は落ち着いて見えるが、交通も流通も完全に元通りになるまでは、まだ時間がかかりそうだった。
「これからどうしようか……」
桜子さんがそんなことを考えていると、ベッドの上の張偉がふと漏らした。それは、今から何をしようかとか、これから街はどうなってしまうのかとか、そんなイントネーションではなく、彼自身が身の振り方を決めかねてるような、そんな響きを持っていた。