戦場のポエム
「……死ぬ?」
青葉の口から出てきた言葉を、最初、桜子さんは上手く飲み込めなかった。それでも、眼の前で起きている光景が、それ以外に考えることを許さず、彼女の口からは自然とその言葉が漏れていた。
「死ぬって?」
彼女はそれでも、自分の口からこぼれ出た言葉が嘘なんじゃないかと、まるで自分に言い聞かせるかのように、同じ言葉を口にしていた。しかし、それを言った瞬間、今度は抗いようもない現実が押し寄せてきて、彼女は一瞬にして虚脱状態に陥った。
「冗談でしょう? さっきまでピンピンしてたんだよ? たった今、ここで普通に話してたのに……嘘でしょ? ねえ?」
「落ち着いてください、桜子さん。すぐ病院に運べばまだ間に合うかも知れません。今、救急車を呼びますから」
そうは言っても、青葉の頭の中は絶望一色だった。
心肺停止しても20分以内なら助かる可能性があるというのはよく聞く話だ。ただし、それも確実というわけではなく、仮に助かっても後遺症が残る可能性の方がよっぽど高いはずである。一生寝たきりでもマシな方で、最悪の場合は目を覚まさないなんてこともありうるかも知れない。
それに場所が悪かった。ここは人気の少ない半島の先端でアクセスが悪すぎて、救急車が到着するまで、かなり時間が掛かりそうだった。仮に来ても、この重篤の患者を受け入れられそうな病院は周辺になく、搬送されるまでどれくらい時間が掛かるか、さっぱり計算が立たなかった。いっそ自分たちが乗ってきた車で運んだほうがマシに思えるが、しかし、この状態の彼を不用意に動かすのは危険で踏ん切りもつかなかった。
青葉はまるで子供みたいに自分の爪を噛んだ。
だから……こうなる可能性があるから、絶対について来るなと言ったのに……教師に見張らせるなり閉じ込めるなり、もっと彼が来れないよう徹底しておくべきだった。自分たち、魔法使いと違って、ただの人間は無力なのだ。有理を吹き飛ばした紅の一撃は、例えば桜子さん旧世代なら大したダメージにはならず、自分たち第2世代も強化魔法で防御することは十分可能だ。だが、普通の人はモロに食らって、打ちどころが悪ければ即死することだってあり得る……いや、あり得るどころではない。現に、今、眼の前でそうなってしまっている。普通の人間が魔法使いに勝つことは絶対に不可能なのだ。
有理を連れてきた関は未だに状況が飲み込めずに立ち尽くしている。多分、彼は巻き込まれただけなのだろうから悪くはないのだが、どうして連れてきてしまったのかと恨みたくもあった。自分のために駆けつけてくれたことを理解している張は、有理の前で真っ青になって項垂れている。彼は一生、己の浅はかな行動を悔いることになるだろう。
いや、それは今ここにいる誰もが同じだ。青葉も、自分がもっとしっかりしていれば、最善を尽くしていれば、こんなことにはならなかったのじゃないかと、頭の中は後悔でいっぱいだった。
だから周囲への警戒は完全に疎かになっていた。
青葉に銃撃を食らって倒れた透明化能力者の黒は、そんな状況下で意識を取り戻した。とはいえ、腹の中には何発も弾丸が入っていて意識は朦朧としており、とても反撃できるような状態ではなかった。ただ幸運なことに、何故か敵は彼をほったらかして背中を向けており、まったく注意を払っていなかった。それに気づいた彼は、見つからないようなんとか透明化した。
しかし仮に逃げようとしても、この傷ではすぐ力尽きて捕まってしまうだろう。そもそも逃げたところで、任務を失敗してしまった以上、依頼主がそれを許すはずがないのだ。彼らは黒たちを切り捨てて、知らぬ存ぜぬを貫くだろう。どうせ死を待つくらいなら、ここで捕まったほうがマシと言える。とはいえ、自分もプロの端くれなら、せめて最後に一太刀くらい浴びせてやらねば気がすまなかった。
彼は痛みに耐えながらよろよろと起き上がると、すぐ手近に落ちていた自分の拳銃を手に取った。青葉が武装解除を怠ったのだ。どうしてこんなものまで都合よく落ちているのかと黒は不思議に思ったが、これも天の配剤と、彼はゆらゆらブレて上手く定まらない照準を張偉に向けた。
彼らは張偉の拉致を依頼されたのだが、もしもそれが無理なら、殺すように命じられていたのだ。依頼主は、張偉が自分たちの思い通りにならないなら、いっそ死んでくれた方がまだマシだと思っているのだ。黒は震える足を叩いて鎮め、殆ど力の入らない腕を必死に固定して、張偉の頭に照準を定めると、これでお終いだと指に力をこめた。
「my mom's gone already(私の母はもういない)」
しかし、その引き金が下りることは無かった。何故なら、彼の指は力をこめた方とは真逆の方向に曲がっていたからだ。突然、自分の関節がメキメキと音を立てて、本来とは逆向きに折れ曲がってしまった黒は、激痛に悲鳴を上げた。
「ぎゃあっ!!」
いきなり背後から聞こえてきた男の悲鳴に、有理のことで頭がいっぱいになっていた桜子さん達はハッと顔を上げた。自分たちはついさっきまで戦闘していて、まだ完全に安全になったわけじゃないのだ。彼女らは慌てて男たちの方へと顔を向けたが、しかし手にした銃を取り落として、地面を転げ回る黒の姿を見て、彼女たちは困惑の表情を浮かべるしかなかった。
見れば、男の腕はあり得ない方向にひん曲がり、その激痛に悶える彼の目からは血の涙が溢れ出している。まるで全身を雑巾みたいに絞られるような悲痛な叫びは、見ている者の恐怖を煽った。しかし、そんな真似を出来る能力者は自分たちにも、多分、相手にもいないはずだ。一体、何が起きているのだろうと戸惑っている中で、どこからともなく聞こえてくる声に、彼らは呆然と立ち尽くした。
「but I had a million children. (でも私にはたくさんの子どもたちがいた)it was so lively, it was never lonely.(とても賑やかで、寂しくはなかった)」
この、直接頭の中に響いてくるような声はなんなのだろうか……戸惑いの中で、しかし、桜子さんはその声に聞き覚えがあることに気がついた。そうだ、これは毎日のように聞いている、有理の声じゃないのか? そう思って、振り返ってみれば、さっきまで死にかけていた彼の唇が動いている。桜子さんは驚くと同時に喜びの声を上げようとしたが……
「ぐっ……がっ……!?」
有理の元へ駆け寄ろうとした瞬間、何故か急激に体が重くなって足が上がらなくなり、彼女は堪らず跪いて地面に手をつき、ついに四つん這いでいることすら出来ずに、叩きつけられるような勢いで地面に崩れ落ちてしまった。
一体、何が起きてるんだ? このままじゃマズイと、腕をついて起き上がろうとするのだが、その腕までもが地面に縫い付けられたかのように動かない。焦っていると、周囲からまた別の悲鳴が聞こえてきて、目だけを動かしてそっちの方を見れば、青葉たちもみんな同じように地面に這いつくばって、生まれたての子鹿みたいに藻掻いている姿が見えた。
「Then they left home,(いつしか子どもたちは家を去り) and I was left alone.(そして私は一人ぼっちになった)」
そんなわけの分からない状況下で、淡々とした声が響いている。その一字一句が聞こえてくるたびに、体の重さはどんどん増していき、胸が圧迫されて声を出すことはおろか、呼吸することすら難しくなってきて、終いにはガタガタと地面まで揺れ出した。
「in a million years of loneliness(100万年の孤独の中で) I had lost what to do.(私は何をしていいか分からなくなっていた)」
今や地面はまるで乱気流に飲まれた飛行機みたいに暴力的な振動音を立てて揺れ動いていた。そんな中で彼らは地面に縫い付けられたように這いつくばり、ひたすら襲い来る重力に耐えることしか出来なかった。肺は押しつぶされて、もう空気を吸うことすら叶わず、意識が遠のいていく。苦しみ藻掻いていると、今度は視界がシュワシュワと真っ白く染まっていった。どうやら血管すらもこの重力に押しつぶされて、脳が貧血を起こしているみたいだった。
「So I did what they did,(だから彼らがそうしたように)stir the spilled milk,(こぼれたミルクをかき混ぜる)stir it round and round.(ぐるぐるかき混ぜる)Then the end would come(そして終りが来るだろう)……」
そんな中でも相変わらず聞こえてくる淡々とした声に、めまいを覚えながら必死に有理の姿を探し求めていると、薄れゆく視界の片隅で、ふわりと宙を浮かぶ彼の姿を見た。この指一本すら動かせない中で、まるで一人だけ重力の軛から逃れたかのように、ふわりふわりと軽やかに、そして自由に、彼は空中を漂っていたのだ。
「when worlds collide.」
そしてその言葉が耳に届くと同時に、ドンと地面に押し込まれるような衝撃が襲ってきて、桜子さんは意識を失った。
***
それから後のことは人づてに聞くしか出来なかったが、ただこの時、何が起こっているのかは彼女にも分かっていた。言うまでもなくこの現象が起きたのは、有理がついに魔法を使ったからだ。彼は本当に、魔法を使うことが出来る、ただの地球人だったのだ。
この時の重力の影響で、半径200メートルは壊滅状態になり、神奈川県全域で停電が起こって、首都圏の電子機器は殆ど使い物にならなくなった。信号機が止まってあちこちで玉突き事故が起きたが、救急車両もろくに動けず、街はパニックになった。航行中だった船舶は身動きが取れない状態で相模湾を漂流し、管制塔との連絡がつかなくなった飛行機が上空をぐるぐると旋回した。事故が起きなかったのは、まさに奇跡としか言えない状況だった。
これがたった一人の青年が起こした出来事だということを、世界はまだ知らなかった。しかしそれを知ったところで、どうすることも出来なかったろう。何しろ魔法とは、まだ科学では解明しきれない謎の現象なのだ。