もって数分
時を遡ること数十分前、有理は桜子さん達をタクシーで追いかけていた。隣には関が座っていて、久々のシャバの空気を満喫していた。
宿院青葉に思考を操作された有理は、我に返るとすぐに桜子さんを追おうとしたが、一人では学校を抜け出せそうもなかった。それで一度は諦めかけたが、そこへたまたま関が通り掛かったので、こいつにならいくらでも迷惑掛けていいやと思った彼は、「女を紹介してやるから」と口八丁手八丁で騙し、ホイホイついてきた関に壁を乗り越える手伝いをさせたあと、「またな」と言って別れようとしたのだが、「パイセン、女紹介するって言ったじゃんよ」と食い下がられ、仕方なく行動を共にしていた。因みに、目的地には青葉もいるだろうから、ちゃんと紹介してやるつもりではある。紹介するだけだが。
学校を抜け出した有理はタクシーを拾って、それからメリッサの案内で三浦半島の岬までやって来た。追いかけ始めた時は、桜子さんたちが出ていってから既に何十分も経過した後だったから、追いつけないかもと思っていたが、彼女たちが神奈川県内をあちこちぐるぐる回っていたせいか、思ったよりあっさり追いついてしまった。
メリッサの情報では、後いくつか峠を越えた先に彼女らは居るらしい。さて、追いついたは良いものの、来るなと言われたのに勝手に追いかけてきたからには、きっと文句を言われるだろう……何か言い訳を考えておかないとと考えていると、キキッとブレーキ音が響いて、ぐんと体が前方に傾いた。
「お客さん。この先は危険だ」
タクシーの運ちゃんの緊迫する声に顔を上げれば、フロントガラスの向こう側に、火炎が空へと舞い上がっていく光景が見えた。遅れてドンドンと爆発音が鳴り響いて、あれは桜子さんの魔法に違いないと見た有理は、嫌がる関をタクシーから引きずり下ろすと、徒歩で目的地までやって来た。
すると案の定、峠を越えた先にあった廃工場の前で、桜子さんたちが何者かと戦っているのが見えた。超人魔法合戦を目の当たりにした二人は、もちろん物陰に隠れておっかなびっくり眺めていたが、やがて彼らは工場の中に入ってしまって見えなくなった。もう帰ろうぜと言う関を無視して、こっそり近づいて工場を覗き込んだら、なんと青葉が男たちに捕まっていて、その横では何故か張偉と桜子さんが口論をしていた。
「やっぱり、あいつ中国のスパイだったんじゃないの?」
有理の肩越しに関の緊張した声が聞こえる。彼は警察に通報しようと提案してきたが、もちろんそうするつもりではあったが、
「それより関。あそこに綺麗なお姉さんが捕まってるのが見えるか?」
「うん」
「あれ、俺の知り合いなんだ。お前に紹介してやるつもりの」
「マジで?」
関はキラキラとした瞳で食いついてきた。有理はフレンドリーに彼の肩を抱きながら、
「でもその前に、俺たちが彼女を助け出せたら、カッコいいよな?」
「おいおい……パイセン、何考えてんの?」
「なに、簡単なことだ……今から俺が連中の注意を引き付けるから、お前はこっそり裏口に回って、あそこにいる男の口を塞げ……あの、念仏を唱えてる男だ」
さっきから見ていたところ、どうもあの念仏男が桜子さんの力を封じているようだった。有理がそんな危険すぎる提案をすると、流石に関も我に返ったのか、
「いやいや、ぜってえ嫌だよ、危ねえから、警察に任せろよ」
「大丈夫。おまえならやれる。って言うか、俺には出来ないから頼んでるんだよ」
有理は嫌がる関の瞳をまっすぐに見据えながら、
「見たところ、あそこにいるのは全員魔法使いで、俺が出ていったところで一発殴られたらそれでアウトだ。でも、おまえなら俺と違って機敏に動けるし、不意を突けば一人くらいなら無力化出来るはずだ。状況を変えられるのは、おまえだけなんだよ」
「無茶苦茶言うなよ。俺はやらないからな?」
「それならそれで構わないぞ。今度こそ、俺は一生おまえのことを恨むだろうな。とにかく俺は俺のやれることをやるから、お前はお前でよく考えて逃げるなりなんなりしてくれ。じゃあ、頼んだぞ」
「あ、おい! ずりぃぞ! 俺はまだやるって言ってないからな!?」
有理はそう言い残すと、後先考えずに廃工場に飛び込んだ。そして張と一緒にいた男を論破したところ、どうやらやりすぎてしまったらしく、
「関っ!! 行けっ!!」
叫んだ時には後の祭りで、ものすごい衝撃が全身を貫いていた。
***
「ユーリーーーッッ!!!」
桜子さんの前で、有理は面白いように吹っ飛んでいった。紅がまるでゴルフの練習みたいに軽く棍棒をスイングすると、それは有理の腕にあたってメキメキと音を立てて粉砕し、そのまま彼はものすごいスピードで宙を飛んで壁に激突した。あまりの手応えのなさに、やった本人が驚いているくらいだった。
壁に激突した有理の頭からは血が吹き出し、四肢を投げ出し、変な方向に曲がった腕はだらりと落ちて、光が消えた瞳は何も映さず、虚空を見つめている。完全に意識を失っていて、死んでいてもおかしくないような状態だった。
どうして彼がここにいるのか、なんでこんな危険な真似をしたのか、そんな疑問はどうでもよかった。それよりも早く駆けつけて彼を介抱しなければマズイことになると、そんな考えが頭の中でぐるぐる回っていた。しかし、さっきから魔法を封じられていて、力は本来の半分も出ない。なにかこの状況を抜け出す方法はないのか? 焦りが募る一方で、打開策は何も見えず、彼女は絶望に押しつぶされそうになった。
しかし、その時、全身から力が溢れてきて、急に思考がクリアになってきた。もしかして、魔力封じが破れているのか? 驚いて顔を上げれば、さっきまで彼女の魔法を抑えていた第2世代魔法の使い手が、地面に這いつくばって昏倒していた。その背後には何故かバールのような物を手にした関が、アワアワと慌てふためきながら立っている。
「このガキ! どこから入り込みやがった!?」
状況を察知した黒と呼ばれた男が、慌てて関に向かって銃口を向ける。その一瞬の隙を逃さず、青葉は自分の脇の下から背後に向けて躊躇なく銃撃を加える。パン! パン! パン! と、乾いた銃声が幾度も幾度も鳴り響いて、いくら豆鉄砲とはいえ至近距離から食らった男の体がくの字に折れた。
「桜子さん!」
青葉は最後に残った一人に飛び蹴りをかましながら叫んだ。その声に振り返った紅が状況が変わったことにようやく気づいて焦りの色を見せる。しかし、気づいた時にはもう、桜子さんは間合いに入っていた。
「lourcqngpaui soirqzt qkelta rcarkwnuri poejaiwmnas!!」
彼女の背後には信じられない熱量と数量を誇る火球が渦巻いていて、今まさに彼に襲いかかろうとしていた。轟音を立てて飛んでくる火球を紅は棍棒を使って必死になって叩き落とそうとしたが、と同時に、地面を縫うように飛び込んできた桜子さんのアッパーカットを腹に食らって吹っ飛んだ。
ズドドドドド……と地響きのような音を立てて、次々と火球が着弾する。ものすごい衝撃に意識が吹っ飛びそうになるのを、それでも必死に耐える紅の顎にコメカミに鼻に心臓に肝臓にみぞおちに睾丸に、容赦なく叩き込まれた桜子さんの鉄拳に、タフな男もついに地面にひれ伏した。
猛烈な熱が廃工場内の空気をかき乱し、まるで竜巻のような風が吹き荒れた。それは積年の間に積もりに積もった綿埃を全部吹き飛ばして、風が止んだ後、全てが新品のように輝いていた。差し込む光にキラキラと光る水蒸気があらゆる物を包んでいく。
しかしそんな風景に見とれている場合ではなかった。桜子さんは紅にトドメの一撃を叩き込んでから、すぐ振り返って有理の元へと駆け寄った。
「ユーリ! しっかりしてよ、ユーリ!!」
紅に壁に叩きつけられた有理は、頭から血を流して意識を失っているようだった。抱き起こそうとすると糸の切れた人形のようにグニャリと曲がって、そのまま真っ二つに折れてしまいそうだった。慌てて背中を支えると、するとその時、彼はゲホゲホと咳き込みながら一瞬だけ体を強張らせ、目を開けた。それを見て桜子さんは喜びの声を上げようとしたが、しかし、咳に続いて飛び出してきた大量の吐血を前に、彼女は全身の血を凍りつかせた。
彼の口から吐き出された血液はどす黒くて、今まで見たこともないような色をしていた。内蔵をやられているのは間違いなく、見ている間にも彼の顔はどんどん青ざめていく。彼女は堪らず叫んだ。
「ユーリ!」
しかし彼は呼びかける桜子さんの声が聞こえていないのか、まるで見当違いの方へ目を向けて、やけに清々しい微笑を浮かべながら、誰にともなく呟くように囁いた。
「今度は……逃げなかっ……た……」
殆ど聞き取れないくらいの弱々しい声でそう呟くと、全身から力が抜けていって、そして今度こそ彼は意識を失った。首はぐったりと項垂れ、瞳からは光が失われて、口からはもう吐血はしていなかったが、呼吸をしている感じもしなかった。
「ユーリ! 起きてよ、ユーリ!!」
どんなに名前を呼んでも、彼はもう返事をすることはなかった。桜子さんはそれでも彼の名前を呼びながらその体を揺さぶった。
「ちょっと、桜子さん! 動かしちゃ駄目ですって!!」
すると青葉がやって来て、慌てて彼女を引き剥がした。頭を強打している者を下手に動かすのは危険である。脳内出血をしている可能性もあり、そのまま死ぬことだってあり得る。とにかく今は安静にしておかねばならない。青葉は有理の体を横向きに地面に寝かせると、慎重にその首の下に枕代わりのカバンを置いた。
しかしそこまではテキパキと応急処置も出来たが、彼女はその後、何することも出来ずに固まってしまった。横たわる有理の顔の表情筋は弛緩しきっており、まるで死人のようだった。薄っすらと開いた目は落ち窪んで光を失い、額から真っ赤な血を流して、唇はカラカラに乾いている。
両手足はぐったりとしていて、呼び掛けても返事はなく、辛うじて呼吸はしているようだが、耳を近づけても聞き取るのは困難だった。脈を測ろうとしても弱々しすぎて、もう動いてるんだか動いていないんだか判別不能だった。しかし心臓マッサージしようにも、人工呼吸しようにも、内臓をやられて吐血している状態では、かえって致命傷になりかねない。今すぐ病院に運ぶ以外、彼が助かる見込みは、どう考えても無さそうだった。
「物部さんは、大丈夫なのか……?」
「パイセン?」
彼女の肩越しに、張と関がこわごわ覗き込んでいる。青葉は自分が嫌な役を買ってでなければいけないことを呪いつつ、振り返って、真っ白な顔で立ち尽くしている桜子さんに向かって言った。
「非常に危険な状態です……このままだと、もってあと数分かも知れません……」
「数分で、何が起きるっていうの……?」
桜子さんが呆然と聞き返す。青葉は少しイライラしながらも根気よく返事した。
「物部さんは……死にます。その可能性が高いです」