おまえらは嘘を吐いている
灯が消えて久しい廃工場は閑散としていて、思いのほか良く声が響いた。背後から聞こえてくる声にギョッとして振り返れば、そこに有理が立っていた。開け放たれたドアから差し込む光がカーテンのように伸びている。
突然、現れた新手に男たちが警戒して身構える。こうならないよう学校に置いてきたのに、まさか自力でここまで来てしまうとは……有理は自分たちと違って戦闘能力は皆無なのだ。うっかり連中を刺激したりしないでくれと、桜子さんがハラハラしてる前で、彼はいつもと変わらぬ視線をまっすぐ張偉に向けた。
「おまえは嘘を吐いている。おまえは中国人だし、故郷が恋しいのは本当だろう。だが、国の危機だとか、父の仇だとか、そんなのはただの自己欺瞞だ。そんな嘘を吐いてまで、急いで国に帰ったところで後悔するだけだ。やめておけ」
「俺が嘘を吐いているって? 馬鹿な! 何も知らないあんたが、何故、そう言い切れる!?」
突然現れ、いきなり厳しい言葉を投げつけてくる有理に、張は戸惑うと言うよりも少しムキになって反論した。有理はまるでそんな相手の苛立ちを煽るかのように、わざとゆっくり落ち着いた口ぶりで続けた。
「おまえはさっきから故郷だの異世界人だのと言っているが、そんなのはおまえの本質とは何も関係がないだろう。本当のおまえはアニメやゲームが好きで、猫を飼っていて、アスリートとして体を動かすのも好きだ。優しい両親の下で何不自由なく育ち、衣食住は保証され、高い教育を施され、将来の不安など、ましてや政治がどうだなんて、今まで考えたこともなかったはずだ。それが急にそんなことを言いだしたのは、自分の将来が見えなくなったからだ。いきなり国を追い出され、アスリートとしての道は絶たれ、母に裏切られ、父からは勘当された。何もかもを失ってしまったおまえは、それで急に祖国だなんだと言い出したんだ。他に縋るものがないからな。でも、そんなのは長く続かない」
「黙れ!」
張偉は顔を真っ赤にして叫んだ。
「俺は本心から祖国の危機を憂えている。父を殺されたんだぞ? その俺が愛国心を語って何が悪いっていうんだ! 何故、そうやって人の神経を逆なでしようとする。俺がどうなろうと、あんたには知ったこっちゃないだろう」
「そんなわけ行くか」
「どうして!?」
「そんなの、俺たちが友達だからに決まってるだろうが」
有理のそんなストレートな言葉に、張は不意を突かれたように固まった。彼は反論しようとして口をパクパクしていたが、やがて落ち着きを取り戻すように、二度、三度と深呼吸をしてから、いつもの冷静な口調で言った。
「物部さん……あんたが俺のことを思って、そう言ってくれるのは嬉しいよ。でも、あんたに俺の何が分かるっていうんだ? 俺たちは生まれてきた国も違えば、生きてきた環境も違う。あんたは、突然、夢が絶たれたり、家から追い出されたり、父に死なれたことなんてないだろう。なのに俺の気持ちなんて分かるわけがないよ」
「いや、分かるよ」
すると有理は、そんな張の反論を遮るように、
「そりゃ全部が全部ってわけじゃないけど……俺だって居場所を奪われた者の気持ちは知っている。信じてきた世界が否定される気持ちも、出来ないことを無理矢理やらされる気持ちも、自分を押し殺して生きようとする気持ちも知っている。今だけ耐えればそれでいいと思った。耐えられると思った。でもそんなことしても、確実に心を蝕まれるだけだった。結局、分かったのは、人は自分にしかなれないってことだけだった。精神の自由を奪われた時、人は簡単に壊れるんだ。自分じゃない何かになろうとしたところで、何にもなれない空っぽの人間が残るだけだ」
それは彼が経験してきたことを、そのまま口にしているだけだろう。張は、それとこれとは話の次元が違うと言いたかった。でも、言えなかった。確かに自分と彼とでは立場や状況が全然違う。しかし少なくとも彼の言ってることは本当だと、見てきた自分には分かってしまうからだ。
「おまえは父に愛されていた。母に愛されていた。世界は完結していた。おまえは祖国に帰りたいわけじゃない。思い出の中に帰りたいんだ。でも、そんなのはもうどこにもない。いくら探しても、もう、どこにもないんだ……だから行くな、張くん。おまえに帰って欲しくない。恥ずかしい話だが、あのクソッタレな学校で、おまえは初めて出来た友達なんだ」
ど真ん中のストレートが飛び込んできて、それを上手く打ち返せない。たった一人の友達と、故郷の何千何百万の人たち、どちらが大事かなんて比べるまでもない。どちらを取るべきかは明白である。なのに張偉はこんなありきたりな言葉で、自分がここまでグラつくとは思ってもみなかった。たったこれだけのことで後味が悪いと言うのに、自分は自分を殺して生きていけるなんて、本気で思っているのだろうか。
そんな張偉が動揺していると、紅は有理の言葉に耳を貸すなと言わんばかりに、背中をバンバン叩いてきた。
「ハハハッ! いきなりそれっぽく登場しやがって、何者かと焦ったが、ただの友達かよ。青臭いガキだな。張偉、友達が見送りに来てくれたぜ、なんか言ってやれよ」
紅はそう言い捨てると、ニヤニヤしながら張偉の顔を覗き込んだ。しかし、そんな彼の下品な笑顔はすぐ消えてしまった。彼はそこに迷いを見つけたからだ。
「おい、しっかりしろよ! 今更、迷ってんじゃねえ。おまえは祖国のために、自らを犠牲にしてでも立ち上がろうとしたんだろう。おまえが国に帰れば何百万という人間が助かる。立派なことじゃないか」
「あ、ああ……分かってる。大丈夫だ」
「そいつはどうだかね」
張はそれで一旦は迷いを捨てる素振りを見せたが、しかし有理はそうはさせまいと、二人の間に割って入った。
「張くんは最初から帰りたがっていたのに、おまえらはどうして正規の手続きを踏ませなかったんだ? 党は彼を利用したい、彼も利用されていいと言っている。利害は一致しているはずだ。なのにコソコソ連れ帰る理由なんてないだろう。学校は最初から、彼が国に帰れるように働きかけていたんだぞ? 本当に党が彼を必要としているなら、その要請に答えればいいだけじゃないか。さては、おまえら何か隠してるな。そうだろう?」
有理のそんな指摘に、紅はすぐには返事することが出来ず、不快そうに顔を歪めて何度も瞬きを繰り返していた。それを図星の証拠だと受け取った有理は、相手に隙を与えず間髪入れずに追求した。
「そうだ。党が本当に張くんのことを必要としてるなら、こんな回りくどいことなんてしなかったはずだ。お父さんが死んだから早く帰ってこいとでも言えば済む話だ。何故、そうしない。変だろう? いや……そもそも、おまえたちは本当に中国から派遣されてきたのか? 本当は、もっと別の何かなんじゃないのか?」
「黙れ」
紅はまるで追い詰められているかのように、額から大量の汗を垂らしていた。口では敵わないと判断したのか、さっきからしきりに棍棒をペチペチと叩いている。黙らなければ、叩き殺すぞとでも言いたげだ。有理はそれを見ているだけで心が挫けそうになったが、なんとか堪えて、そんな男の目をじっと見据えた。
「おい、どうなんだ? 物部さんの言ってることは、本当なのか?」
すると横で聞いていた張偉が不安になってきたのか、そんな男を問いただした。紅はその挑むような視線にドギマギしながら、最初は少し言い訳を探していたようだったが……暫くすると諦めたのか、まるで落ち着きを取り戻すかのように長い溜息を吐いて、残念そうに首を左右に振った後、
「やれやれ……大人しくついてきてくれれば、良かったのによ!!」
ため息混じりにそう言うなり、いきなり手にした棍棒を張偉の脇腹に叩き込んだ。
「グァッッッッ!!?」
殆ど予備動作なしに振るわれた棍棒をまともに受けた張は、錐揉みするように床に倒れ伏すと、腹の中身をゲホゲホと吐瀉した。息が出来ずに涙目になって苦しんでいる張の背中に、男は更に棍棒を叩きつけた。
「おい、紅! 馬鹿野郎! 勝手なことするんじゃない!!」
するとそれを見ていた黒という男が慌てて彼を止めようとしたが、
「黙れ! もうこうなってしまったら、こいつを無理矢理船に乗せるしかない。五体満足でとは言われてないだろ!」
「それが難しいからこんな回りくどいことしてたんじゃないか!」
「ああ、悪かったよ! だからせいぜい殺さないように努力はするよっ!」
「くそっ……どうなっても知らないぞ! おい、女! そのままゆっくり膝をついて、床にうつ伏せになれ! 下手に動くんじゃないぞ!?」
黒は青葉の頭を銃口で小突きながら命令している。方針転換した彼らが何をするか分かったものじゃないから、彼女は言われた通り素直に膝をついた。その間、紅は無抵抗の張偉を滅多打ちにして戦意を削ごうと躍起になっていた。どうやら追い詰めすぎてしまったのかも知れない。
「ちっ……このっ!」
有理が何も出来ずに慌てふためいていると、それまで黙って様子を窺っていた桜子さんが、見るに見かねて張偉を助けに飛び出していったが、
「どけっ! この女!!」
「っっっつぅぅーーー!!!」
魔法を封じられた彼女は、反転した男にあっけなく吹き飛ばされてしまった。ガツンと鈍い音が響いて、床に転がる桜子さんから悲鳴が上がる。
「やめろっ!!」
有理はそれを見た瞬間、自分でも信じられない速度で、紅と桜子さんの間に飛び出していた。ついさっきまで床に足が縫い付けられているかのように動かなかったのに、自分よりもずっと強い桜子さんがやられてしまうなら、自分なんて何も出来るはずないのに、彼は自然と二人の間に飛び込んでいた。
「てめえ、このガキ……おまえが余計なことを言わなければ!!」
桜子さんを追撃しようとしていた紅は、いきなり飛び出してきた有理を見るなり、顔を真っ赤にして襲いかかってきた。こうなった原因は全ておまえにある。絶対にタダじゃ済まさないぞと言わんばかりに、男は見るからに重そうな金属製の棍棒を振り上げる。
有理はそれを受け止めようと腕をクロスする。しかし、自分の細い腕越しに迫りくる棍棒を見て、彼はそれが無意味な行動であることを瞬時に悟った。今からでも避けたほうがまだマシだろう。だが体がこわばって動かない。さっきはあんなに機敏に動いたというのに、どうして自分の体なのに思い通りに動いてくれないのか。
彼は心の中で自分の不甲斐なさを呪った。もはや出来ることは一つしかない。体が動かないなら叫ぶしかない。
「関っ!! 行けっ!!」
そう叫んだ瞬間、ドンっと衝撃が全身を貫いた。
当たったのは腕の一部だけだというのに、まるで全身をダンプカーで跳ねられたかのような……そんな経験なんて一度もしたことないのに、何故かそうとしか思えないような衝撃が襲ってきて、有理は自分の体が弾け飛ぶような錯覚を覚えた。そしてキリキリと宙を舞った彼は、後頭部から壁に激突すると、ドシャン! と砂袋を叩きつけるような鈍い音を立てて、ズルズルと壁から滑り落ちた。
全身を激痛が支配し、あまりの痛みに脳が思考を拒否しているのか、何も考えることが出来ない。何も感じることが出来ない。そして眼の前が急に暗くなってきて、
「ユーリーーーッッ!!!」
桜子さんの絶叫が聞こえたのを最後に、そしてそのまま有理の意識は途絶えてしまった。