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物部有理は東大生である

 物部(もののべ)有理(ゆうり)は電車のドアに張り付いて、車窓を流れるトンネルの壁を睨みつけながら、ひたすら貧乏ゆすりを続けていた。その不機嫌オーラに中てられた人々が避けるようにして出来た半円の中で、彼は今日何度目かのため息を吐いた。昨日はよく眠れなかった。もういくら緊張したところでやり直しは出来ないというのに、それでも今日のことを思うと不安で眠れなかったのだ。


 渋谷駅から井の頭線に乗り換えて二駅、駒場東大前駅で下車し、流れる人混みに逆らうように駅の階段を駆け下りて、改札からすぐ脇の小汚い用水路が流れる鉄門を走り抜ける。誰もいない運動場横の階段を上ると、花見で浮かれた学生のグループがブルーシートの上で死んだように眠っており、品の良さそうな老人がそれを見ながらニコニコと通り過ぎていった。


 そんな長閑な光景を若干羨ましげに見ながら、青々とした銀杏並木を真っ直ぐ進んでいくと、終点の広場に複数の掲示板が立っていた。その掲示板をまたぐるりと取り囲むように、制服の見本市みたいなとりどりの高校生たちが不安げにそれを見上げており、またその高校生たちを物色するかのように、少し遠巻きにブーメランパンツの半裸の男たちとラガーマンたちが様子をうかがっていた。


 そして時折、悲鳴のような歓声が上がっては、胴上げされた高校生が宙に舞った。その隣では、ため息を吐いて肩を落とした涙目の高校生がトボトボと去っていった。今日は東京大学の合格発表日だったのだ。


 ここにいるということは、有理も同じ受験生だった。尤も、彼は制服は着てない私服の浪人生だったのだが。思えば、去年は自分もあの高校生と同様、涙目でこの場から立ち去るしかなかったのだ。そして人目を避けるように進んでいたら、さっき通ってきたあの裏門を見つけたのだ。また、あの時のような気分を味わいたくなんてない……彼は去年のこの日の悔しさを思い出して、キリキリと胃が痛みだした。歯を食いしばり、その痛みに耐えながら、彼は鼻息荒くカバンの中から受験票を取り出した。


 その様子を半裸集団が目ざとく見つけてロックオンし、ラガーマンたちがタックルの準備を始めた。仮に合格したとしても、あんなのには祝われたくない……彼は出来るだけ顔には出さないよう、咳払いをして十分に気を落ち着けてから、ゆっくり掲示板へと近づいていった。


 しかし、彼のそんな目論見は早くも無駄に終わってしまった。自分の受験番号なんて、それこそ夢に見るくらい脳に焼き付いていたから、だから、掲示板に視線を向けた瞬間にはもうそれを見つけていて、彼は高々と天に向かってガッツポーズを決めていた。


「おめでとうございますっ!!」


 その瞬間、間髪入れずに飛びかかってきた半裸男とラガーマンたちに、彼は揉みくちゃにされていた。でももうそんなことは気にならなかった。あの日、涙目で立ち去るしかなかったこの場所で、彼はまたあの日と同じように涙を流していた。


***


物部(ものべ)っち~」


 カバンに入り切らないくらい大量のサークル勧誘チラシの束を抱えて途方に暮れていると、背後から軽薄そうな声が聞こえてきた。もうこれ以上の勧誘はお断りであると、そんな決意を秘めて振り返れば、見覚えのある男がニヤニヤとした笑みを浮かべながら近づいてきた。


 名前は確か小鳥遊(たかなし)とか言っただろうか。知り合ったのは予備校の夏期講習でだったが、要領の良い男で、仮面浪人をしながら東大を狙っていた男である。もし落ちたのならコソコソと帰るだろうし、話しかけてきたということは、彼も合格したのだろうか?


「人の名前を省略するなよ」


 不機嫌そうに振り返り、合否はどうだったのかとジロジロ見ていたら、小鳥遊は小脇に抱えていた入学案内のパンフレットをチラつかせながら、


「おっす、久しぶり。もーのーのーべーだっけ? 言いにくいじゃん。いやあ、それにしても盛大に祝われてたね~、おめでとう!」

「なんだ。見ていたんなら助けろよ」

「あそこに割って入る度胸はないでしょ。なあに? サークルもう決めちゃった感じ?」

「まさか。まだ入学もしていないんだぞ。丁重にお断りしたさ。君こそ、どうやら合格したみたいだな。おめでとう」

「いやあ、これから毎晩渋谷で遊びまくれると思うと胸が踊るね」


 冗談みたいに聞こえるが、本当にこれが彼の志望動機だった。小鳥遊は地方出身で、東京に憧れて上京したはいいものの、大学のキャンパスというものが殆ど西の方に固まっていると知って幻滅したらしい。毎晩、1時間も電車に乗って遊びに来るのが億劫だから、それで都心にある東大を目指すことにしたそうだ。因みに予備校で一緒になったのも、都心にあって遊びに行きやすいからだと言っていた。


 絶対に受かるまいと思っていたが、大したものである。動機が不純でも、やはり目的がある者は違うということだろうか。そんなことを考えていると、彼は思い出したように、


「そうそう、ところで物部っちって、もうM検受けた?」

「はあ? M検?」


 M検とは、かつて東大合格者が受けさせられたという屈辱的な身体検査のことである。その昔、まだ一高と呼ばれていた時代に、地方から東京に出てきたばかりの若者たちが、入学前の景気づけにと吉原に行っては性病を貰ってくるという事件が相次ぎ、腹を立てた学長が始めた制度だそうだ。


 因みにM検のMが何を意味するかは誰も分からないそうで、きっと魔羅様のことじゃないかと、実しやかに囁かれたらしい。戦後になっても続けられていたが、非人道的だからという理由でだいぶ前に止めたはずだが……そんな時代錯誤な性病検査がまた復活したとでも言うのだろうか?


「違う違う、そっちじゃないって。M検のMは魔法力のMだってば」

「魔法力だって?」


 有理はそう言われて思い出した。魔法力測定検査、通称M検とはほんのつい最近、国大合格者に義務付けられた制度のことである。異世界との衝突からおよそ半世紀、この日本にも異世界人との混血児が増えてきたのだが、大抵、彼らは自分が混血であることを知らないか、もしくは隠しているから、それをあぶり出すための措置であった。


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