急襲
桜子さんたちが出ていった後、有理は残された二人と一緒に黙ってソファに座っていたのだが、そのうち居た堪れなくなって、教室に戻るからといって応接室を辞した。息子を案じる母親からは不安が伝わってくるし、チベットの僧侶はひたすら超然としていて、一緒に居ても息が詰まるというか、肩が凝るのだ。
ようやくこの空間から解放されると、ホッとしながら教室に向かって歩いているとき、そう言えば、どうして自分はあんな場所に居たんだっけ? とふと疑問に思って、
「……あの女……」
有理はさっきの会話の途中で、自分がいつの間にか意見を変えさせられていたことに気がついて、舌打ちをした。
最初、意識している内はなんとかなったが、途中、まったく関係ない話を振られた後にはもう、当初の目的を見失っていた。元々は桜子さんと一緒に行くつもりだったのに、たった今までそうしようとしていた事自体を忘れてしまっていた。
どうやらあの宿院という女は、会話を誘導するとか、意見を無理矢理捻じ曲げてしまうとか、そういう特殊技能の持ち主らしい。会話をはぐらかされて、別のことを考えた瞬間にはもうそうなっているのだ。
しかし、そのカラクリが分かったところで後の祭りだった。時計を見れば、彼女たちが出ていってから数十分が経過していた。
どうしよう、追いかけるべきだろうか……メリッサの情報は共有している。しかし今から追いかけて行っても、追いつく頃にはもう片がついているかも知れない。それに、彼女の言う通り、有理が行ったところで足手まといにしかならないのは、本当だった。どうせ邪魔をするくらいなら、学校で待っていた方がいいんじゃないか……
有理はブンブンと首を振った。
確かに、彼女の言うことにも一理はある。だが、それは追いかけない理由にはならないだろう。有理だって自分が無能なことくらいは知っている。桜子さんの邪魔をしたいわけじゃない。自分は単に、友達が居なくなるのを黙って見過ごしたくないのだ。
GPSを見るからに、彼は車で移動していた。それは彼が中国に帰ろうとしているからだ。教室を出ていく時の様子からして、それは間違いないだろう。それが彼の意思だとしても、もしかして誰かに唆されているのだとしても、問題はこれが今生の別れになってしまうかも知れないことだ。
彼がこの国に来た経緯は聞いた。それが嘘であったことも、さっき母親から聞いた。ちょっとした不幸なすれ違いがあって、彼は母のことを誤解しているのだ。このままでは、彼は何も知らないまま母を一生恨むことになりかねない。それは正すべきだ。ただ、誤解が解けたからって、それが彼が日本に留まる理由になるかは分からないが。
いずれにせよ彼が中国に帰ってしまったら、もう会えることはないかも知れない。あっちに戻っても彼が自由でいられる保証はないのだ。彼は今、並々ならぬ決意で国に帰ろうとしているのかも知れない。それを止めることが本当に正しいのかも分からない。でも何か一言でもいいから、行って声を掛けるべきじゃないのか。例えそれが別れの言葉になるとしても。
とは言え、追いかけようにも自分一人ではどうしていいか分からなかった。桜子さんが居なければ、自分はこの壁に囲まれた学校から出ることすら叶わないのだ。有理は魔法使いじゃないから、壁を超えられるような跳躍力は持っていない。もちろん、外出許可なんてもっての外だ。何しろ今は授業中なのだから。
「あ、パイセン。こんなとこいたの?」
と、その時、背後から人をイラっとさせる声が聞こえてきた。
「なんか自習がいつまで経っても終わらないからさ、俺もフケてきたんだけど。あんたも暇してんなら、購買行かない? 購買」
振り返れば、アホの関がそこにいた。
***
その頃、桜子さんたちは細い鎌倉の小路をぐるぐると回らされ続けていた。
メリッサが次々と上げてくる白いワゴン車の画像は、明らかに追跡を警戒しているかのように、車通りの少ない道ばかりを選んで走り続けていた。そういった道は、彼女が利用できるカメラも少ないことから、進路予測が難しかった。感覚的には、山寺の参道に入ったと思ったら、次はワープしたかのように山の向こう側に現れるのだ。その追跡者を撒こうとする動きは、明らかに素人のものではなかった。
それでも、メリッサの水を漏らさぬ追跡から、段々と相手の行き先が分かってきた。領事館には辿り着けないと判断したワゴン車は、どうやら三浦半島の先端を目指しているらしかった。その先には何もなく、海が広がっているだけだが、おそらくはそれが目的なのだろう。彼らは船に乗り換えて海路を行こうとしているのだ。流石に海の上には監視カメラはないから、そうなってしまうとメリッサにもお手上げである。
「でも、それならアオバの仲間にヘリで追跡してもらえばいいんじゃないの。海の上じゃもう逃げ場はないでしょう?」
「そう簡単には行きませんよ。今からヘリでとなると合流までに時間がかかりますし、その間に海に出られたらお終いです。桜子さんは、何も無い海上ならすぐに見つかると思ってるんでしょうけど、実際には海は広いですからね。何の手がかりもない状態で一艘の船を特定するのは不可能に近いんですよ。例えば、湖の上に浮かぶ木の葉を思い浮かべてください。見つけるのも困難なら、どれが目的のものなのかなんて見分けがつかないでしょう?」
「そっか……なら船で逃げられる前に、なんとか足止めしないといけないってわけね」
ワゴン車もかなり迂回を続けていたから、そろそろ追跡者を撒けたと判断したのか、段々と進路も素直になってきた。このまま行けば、車は三浦半島先端のとある岬へ辿り着きそうだった。
オンラインマップで航空写真を見れば、そこは民家が殆どない過疎地で、何年も前に廃業したかまぼこ工場がぽつんと一軒立っているだけだった。お誂え向きに、その工場から海に直接繋がる桟橋まで掛かっている。
狭い峠道をいくつも通り抜け、岸壁みたいな海沿いの道を走って、二人はようやく目的地へとたどり着いた。周りは畑くらいしかない、やたら見通しのいい道路のど真ん中に、ぽつんとその廃工場はあり、横付けすると明らかに目立ちそうだったから、100メートルほど手前の木陰に車を止めた。
目を凝らしてみれば、廃工場の入口の鉄扉が開かれており、その奥に写真の中で幾度も目にした白のワゴン車が見えた。周囲に民家はなく、自分たち以外に車が通りかかる気配もなかった。もう少し近づいて、中の様子を探ってみたいところだったが、下手に近づくと気づかれてしまいそうで、なかなか踏ん切りがつかなかった。
しかし、躊躇している場合では無さそうだった。よく見れば工場の裏手の桟橋に、漁船が止まっているのが見えた。エンジンが掛かっているのか、上空には蒸気がゆらゆらと立ち込めている。さっきも話した通り、あれに乗って海に出られたら最後だ。
こうなっては腹を括るしかない。応援が来るまで数十分。相手の人数も分からなければ、そもそも、本当に張が居るのかさえまだ確認出来なかったが、これだけコソコソしているのだから、まともな相手じゃないことだけは確かだろう。
桜子さんは車外へ出ると、出来るだけ目立たないようにガードレールの影に隠れるよう身をかがめて近づいていった。ガードレールは工場の前で途切れていて、そこには出入りする車両のためのミラーが立っていた。丁度、そこから中が覗けるので様子を窺っていると、ミラーの中に張偉の姿を捕らえた。その彼の前を先導するように、何者かが船の方へと歩いていく姿が見える。
どうやら時間的な余裕は無さそうだった。ここは先手必勝とばかりに、飛び込むしかない場面だろう。振り返ると、すぐ後ろで青葉が拳銃の装弾を確認している。準備は整っている。後は、どのタイミングで飛び込むかだが……
「桜子。何者かがあなたの背後に回り込もうとしています」
と、その時、イヤホンからメリッサの声が聞こえてきた。ハッとして振り返れば、今まさに彼女の背後から、棍棒を振りかざした男が急襲してくるところであった。
「うおおおおおおーーーっっ!!」
雄叫びを上げながら振り下ろされる棍棒を避けると、ドンッ! と地鳴りがして、土砂が宙に舞った。二人はゴロゴロと回転受け身の要領で距離を取る。見ればたった今桜子さんが居たアスファルトがえぐれて、下の地面がむき出しになっていた。
どうやら先手を取られたのは自分たちの方だ。桜子さんはぺろりと下唇を舐めると、魔力を練り始めた。