張偉の母
張が居なくなった後、有理は彼の母親から話を聞くべく、桜子さんと学校の応接室へと向かっていた。
午後になって雲が出てきたのか薄暗い廊下を、アオバとかいう女に連れられ歩いていた有理は、いささか緊張していた。これから張の母親に会うわけだが、彼の話からすれば、相手は中国政府の高官の妻でありながら、異世界人の男と不倫をして生んだ子供を、何食わぬ顔で18年間も育てさせていた、ふてぶてしい女なのだ。きっと贅沢三昧で、人を人とも思わないような嫌なやつが出てくるに違いないだろう。
応接室の前に立ったアオバがドアを叩くと、中からどうぞという声が掛かった。一体、どんな化け物がそこに待っているのやらと、気を引き締めながらドアをくぐると、中に居たのは思っていたのとは全然違って、穏やかな表情をした少し丸顔の、優しそうな女性だった。
張と同じ黒目黒髪で、女性にしては肩幅が広くてがっしりとした体格をしており、スラリと背が高い。真っ先に目を引いたのはその美貌で、左右の均等の取れた作り物めいた美しさは、どこか桜子さんのような異世界人を思わせる。それでいて、北方騎馬民族のような丸顔に切れ長の目をした、妙に親しみやすい顔をしていた。見た感じ、高校生の息子がいるとは思えないくらいに若々しく、本人が張の母だと名乗らなければ、代理の人間が来たと思っていたかも知れなかった。
そんな風に思いながらしげしげと張の母のことを眺めていると、よく見れば部屋にはもう一人別の男が立っていた。最初は付き人かとも思ったが、どうも様子が違う。男は赤い袈裟、いわゆるラマ服というものを羽織った小柄な男で、短く刈った胡麻塩頭に丸メガネという、一目でアジア系だと分かる顔をしていた。そして、その顔に張り付いたような穏やかなアルカイックスマイルは、彼が仏教に帰依していることを雄弁に語っているかのようであった。
ウダブと名乗るその男は、桜子さんと握手を交わしながら、実際にチベットから来た僧侶だと名乗った。しかし、なんでそんな人物がこの場にいるのだろう? と首を捻っていると、一通り挨拶を済ませた母親が待ちきれないと言わんばかりに話しかけてきて、疑問はうやむやにになってしまった。
「それであの子は……張偉はどうしたんでしょうか? 何故、あの子はいないんですか?」
桜子さんに取りすがり、そんな風に切実に訴え掛ける声は、確実に母親のそれだった。桜子さんもだいぶ印象が変わったのだろう、少々戸惑った風に彼女のことを宥めながら、
「まずは落ち着いて。チャンウェイのことだけど……彼はあなたが来てると聞いたら、会いたくないと言って飛び出していっちゃったみたいなのよ」
「飛び出して……?」
「ええ。彼はチャンウェイのクラスメートなんだけど……有理、その時の様子をお母さんに話してくれる?」
桜子さんが丸投げしてきた。有理は少々気後れしながらも、あとを引き継いで教室での出来事を話して聞かせた。その際、有理は以前、張から日本に来た理由について聞いており、彼は母親の不義を責めているのだと遠回しに指摘した。ところが、
「それは全部誤解なんです。あの子は間違いなく張敏と私の間に生まれた子です。今日はそのことについて、ちゃんと話してあげるつもりでここに来たというのに……」
「どういうことです?」
事情がよくわからない有理たちが促すと、母親は泣きそうな表情で続けた。
「あの子は、私たちが父に捨てられたのだと思っているのでしょうが……本当はあの子の父張敏は、息子を政争の具にされまいとして、わざと嘘を吐いて私たちを日本へと逃がしたのです」
母親によれば二人が父に日本へ追いやられた顛末は、張偉に聞いていたものとは全く別物というくらいに違っていた。
いつか彼が言っていた通り、張偉の家系は、世界でも有数のゲーム会社・天穹互动のオーナー一族だった。彼は、それが衝突後の苦難の時代、外貨を稼げる数少ない企業として国内で優遇されていたと言っていたが、実態はそんな単純なものではなかったようだ。
天穹は今はコンピューターゲームを主力商品として扱っているが、元々はマカオのカジノやその他の娯楽も手広く手掛ける、いわゆるエンタメ企業だった。つまり西側の文化を扱っているから、実は相当締め付けがきつかったらしい。そんな状況下で会社の拡大と存続を図るには、政治家と癒着するのが手っ取り早いから、必然的に会社は多額の献金をしており、結果的に一族は党内でかなりの発言力を得るまでになった。
張敏はそんな一族の中でも、特に若くて弁が立つという理由で党との窓口にされたのだが、しかし彼は元々政治には殆ど関心がなく、家業を継ぎたいから仕方なくやっていたというのが実情だったようだ。
そんなやる気もない成り上がり者の彼は、党の有力者たちに相当煙たがられており、彼自身もいつ辞めても構わないといった姿勢でいたらしい。ところが、そんな彼に転機が訪れる。
やる気のない人物というのは、大概、懲罰的な辞令をされがちなもので、一時期、彼は内モンゴルの広大なステップ地帯の監督官という閑職に追いやられていた。仕事はそれこそ、そこにいる羊の数を数えるようなもので、例えていうならパソナルームに配属されたようなものだった。張敏はもちろんやる気もなく、反抗的な態度を続けていたが、そんな時、彼は運命の出会いをする。
内モンゴルには鳳麟国とは別の異世界少数民族が住んでいたのだが、衝突時の彼らは鳳麟国とは戦争状態にあった。中国政府だって全てを敵に回したいわけじゃないから、敵の敵は味方であると言って、そんな彼らを目こぼししていた。戦後も、遊牧生活を続ける彼らを、殊更刺激する必要もないからと無視していたのだが、やがて彼らは現地のモンゴル人と結びつき、そして張偉の母が生まれた。
そんな異世界人とのハーフに、張敏は一目惚れをした。元々、家業を継ぎたかった彼は西側の文化が好きで、エルフみたいな異世界人の見た目を好ましく思っていたのだ。そんな異世界人の彫刻のような美しさと、遊牧民の素朴さが結びついた彼女に、張敏はメロメロになって猛アタックを敢行し、間もなく二人は結婚の約束を交わす。しかし、党内では異世界人との結婚はご法度である。自分一人だけならいざ知らず、家業のことを考えればそんな勝手は許されなかった。
そこで彼らは母の出自を誤魔化すことにした。元々、中国国内には異世界人は居ないはずなのだから、偽装は割と簡単だった。母は内モンゴル出身の異民族ということにして、そして二人は結婚し、やがて張偉が誕生した。
息子に関しても当然、その出自がバレないよう周囲には内緒にしていた。もちろん、張偉にもである。そうやっていつか大人になって、本人の理解が得られるようになるのを待っていたのだが……そんな張偉も18になり、勉学に励み、アスリートとして活躍もし、自分の力で人生を切り開いていけるくらい強くなった。
だから、両親もそろそろ真実を話してやろうと思っていたのだが、ところがそんな時、チベットで異世界人たちの暴動が起きたのである。