ホームルームは始まらない
クラスの日本人と中国人のヤンキー同士のぶつかり合いは、だんだんヒートアップしてきた。元々彼らの喧嘩はかなり過激で、普通の人間だったら怪我人が出るだろうというくらい酷かったが、なんやかんやでそこまでの悲劇は起きず、なんなら体育の時間に鈴木が上手いこと発散してくれたらそれで収まる程度のものだった。
それが最近は鈴木も手を余す程となり、収集がつかなくなって一度は授業が潰れるくらいにまで発展していた。有理はそれを見ても、一般生徒はとばっちりだなくらいにしか思っていなかったが、実際には裏で結構深刻な事態が起きていたらしい。
彼らの喧嘩はいわばネトウヨの主張だ。その国の大衆の一方的な妄言を代弁してるだけだから、中身がなく、世相によってはかなりぶれまくる。つまり、深刻な事態は彼らにではなく、国の方に起きていたのだ。
ある日、中国で大規模な暴動が勃発したというニュースが世界を駆け巡った。ここ最近、中国政府の異世界人への締付けは厳しく、国内の混血児への差別的な政策は批判を浴びていたらしい。そんな中、チベットで不法労働をしていた異世界人たちが、党の方針転換で職を奪われたことで暴動を起こし、そのまま独立運動にまで発展してしまったのだ。
この事態に際し前責任者は責任を取らされて左遷、党は暴動の鎮圧のための治安部隊を派遣したのだが、その新たな責任者が現場でドジを踏んで孤立し、暴徒に殺されてしまったというのだ。
それが張の父親、張敏だった。
一報が届いたその日は朝から不穏な空気で、中国人グループは特に殺気立っていた。普段ならおっとりした様子で挨拶に来る張はピリピリとして席を動かず、日本人ヤンキー共も空気を読んでか大人しくしていた。職員会議が長引いているのかなかなか教師はやって来ず、殺伐とした空気が流れる中で、時間だけが刻々と過ぎていく。
張偉が苛立たしげに踵を鳴らすカツカツという音だけが響いている。そんな中で、ようやく鈴木がやってくると、彼は待ちくたびれたと言わんばかりに徐ろに教卓へと詰め寄り、
「なあ、先生。何があったか知ってるんでしょう。俺を中国に帰してくれませんか。今すぐ、国に帰りたいんだ」
「落ち着け、張。すぐにどうこう出来ることじゃないのは、おまえが一番良く知ってるだろう。今、あちこちに連絡を取って何があったのか確認しているから」
「そんなこと言って、俺を親の死に目にも会えない親不孝者にしようっていうのか?」
「そんなことするわけないだろう。先生たちも、おまえが国に帰れるよう、出来る限りのことはやっているから、信用してくれないか?」
二人が押し問答していると、教室のドアが開いて、また別の教師がやってきた。彼は教卓に詰め寄っている張の姿を見て一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに気を取り直したように、
「鈴木先生。たった今、張くんのお母さんが訪ねていらして、息子さんに会わせて欲しいと言っていまして」
「何ですって? ちょうど良かった。張、お母さんがいらしたそうだから、お前も職員室まで来い。話はそこで聞こう」
しかし、肝心の張は明らかに嫌悪の混じった顔をして、
「なんでここに母さんが来るんだ!? 俺はあの人とは縁を切ったはずだ。父さんが死んだのは、あの人のせいなのに。どの面下げて俺の前に来れるって言うんだよ!?」
「あ! おい、張! ちょっと待てっ!!」
母親が来たという知らせに張は反発し、力任せに教卓を蹴り上げた。破壊的な威力に教卓が吹っ飛び、天井でバウンドして教室の床に叩きつけられ、まるでケーキみたいにグシャリと潰れた。女生徒たちの悲鳴が轟き、知らせにきた教師は尻もちをついた。鈴木は慌てて張を羽交い締めしようとしたが、彼はそんな担任教師を振り切って、教室を飛び出していってしまった。
誰一人として動かない沈黙の中で、もうもうと埃が舞っていた。有理は張が出ていった教室のドアを見つめたまま、下唇を噛み締めていた。彼は張がこの国に来た原因を知っていた。だから、張が反発する気持ちが良くわかった。しかし、こんな時に母子が分かり合おうとせず、すれ違ったままで居ていいのだろうか? せめて張は、母が何をしに来たのか、言い訳くらいは聞くべきだったのではないか。
「先生はまたちょっと出てくるから、すまんがみんなは自習しているように。あ、それから、もし張が帰ってきたら、誰でもいいから職員室まで知らせにきてくれ」
鈴木はそう言い残すと、また忙しそうに教師と連れ立って教室を出ていった。途端にクラスメートたちは、たった今の出来事について興奮気味に話し合い始めた。誰も有理のことなど、気にも留めてない。彼は教室の後ろのドアから外に出ると、鈴木たちを追いかけて職員室の方へと歩き始めた。
自分が行ったところで何が出来るわけでもないが、多分いま張と一番仲が良いのは自分だろう。だから母親が彼に用事があるというなら、自分が代わりに聞けないかと思ったのだ。しかし、そうして職員室まで来たはいいものの、そこに鈴木の姿は無かった。どうやら彼は飛び出していった張の捜索にあたっているらしい。
「ユーリ!」
どうしたものかと困っていると、横合いから声が掛かった。見ればいつもの土方姿とは違って、珍しくスーツを着た桜子さんが立っていた。その隣にはどこか見覚えのある女性が立っていて……確かあれは、有理をこの学校に連れてきた自衛官ではなかろうか? 鈴木が三尉とか呼んで、デレデレしていたはずだ。どうやら二人は最初からグルだったらしい。考えてもみれば当たり前の話だが、無理矢理連れてくる前に、一言あっても良かったんじゃないかと、少々拗ねながら近づいていく。
「桜子さんは、どうしてここに?」
「ユーリも知ってるでしょ。中国で騒ぎがあったから、その情報収集だよ。そしたらチャンウェイのお母さんが来てるって言うから、一緒に話を聞こうと思ってたんだけど」
「張くんは教室を飛び出して行っちゃったんだよ」
「らしいね。今、アオバから聞いた」
隣の女性がペコリとお辞儀をして見せる。アオバという名前なのか、憶えたぞと心に刻みながら、
「俺もお母さんに話を聞けないかと思って来たんだけど、鈴木と入れ違っちゃったみたいなんだ。桜子さん、あんたも行くつもりなら一緒に連れてってくれないか?」
「私はいいけど。アオバ、構わない?」
ここで拒否られてたまるかと、有理は反論しようとして口を開いたが、
「いいですよ」
と、あっさり受け入れられた。
「物部さんが、張さんと仲良しなのは知ってますし、特に拒否する理由もありませんよ。あ、でも、相手が嫌がるなら話は別ですよ?」
「ああ、もちろん、無理強いはしないよ」
「それじゃ、立ち話もなんだから早く行こう」
桜子さんが先を歩き出す。三人は、張の母が待つという応接室へと急いだ。
***
その頃、学校を抜け出した張偉は寮まで戻ってくると、自分の部屋には帰らず、隣の雑木林の方へと向かった。このまま帰ったところで、鈴木に追いつかれるのが落ちだし、今は誰とも話したくなかった。
張がやってくると、猫のジェリーがどこからともなく現れて、にゃーと泣きながら彼の膝へと乗っかった。彼はそんな猫の首の辺りをグリグリとちょっと乱暴に撫で回したが、ジェリーは気持ちよさそうにゴロゴロと鼻を鳴らしていた。
張はため息を吐いた。国に帰りたい……しかし、帰りたくても今の自分は祖国に国籍は無いし、ビザを取ることさえ出来ないだろう。それに仮に帰れたとしても、どこへ帰ればいいのだろうか。何しろ自分は、母の不義で生まれた子供なのだ……元々血縁がなかったのだから、一族が迎えてくれるわけがないのだ。
しかし、それでも父の死に目に会えないのは許せなかった。例え血が繋がっていなくても、彼にとってはたった一人の父なのだ。今まで育ててくれた恩義があった。どんなに否定されたって、父との思い出は色褪せたりはしない。なのに最後の別れすらさせてくれないだなんて、あんまりではないか。
「あの……」
と、その時だった。ムシャクシャする気持ちを猫を撫でて落ち着かせようと努めていた彼に、誰かが声を掛けてきた。顔を上げると、見覚えのない女生徒が立っていて、彼に向かって不安げな表情で軽く会釈してきた。
何者だろう? と警戒しながら動向を見守っていると、女生徒は緊張でもしているのか、若干震えながら彼の方へと近づいてきて、彼の耳元へ小声で囁きかけた。
「党から伝言を預かっています。緊急です」
多分、誰にも聞かれたくないのだろう。驚いて顔を上げると、女生徒はまるで暗唱でもするような感じで、一字一句区切りながら、
「あなたの父、張敏はまだ生きている。今際の際に、彼は息子に会いたがっているが、残念ながら正規の手続きを取っている時間的余裕はない。中国には違法な手段でしか帰ることが出来ないが、手はずは整っている。覚悟があるなら、例の公園へと向かうように」
「例の公園……?」
「わかりません。そう言えとしか……失礼します」
女生徒は伝えたいことを伝えると、逃げるように去っていった。張は後を追おうかとも思ったが、多分、彼女を問いただしたところで詳しいことは何もわからないだろう。それよりも、今はその伝言の中身だ。
父はまだ生きていて、自分に会いたがっている。本当だろうか? いや、例え嘘だとしても、多分、このまま学校の教師に任せていたところで、国に帰れる保証はない。父に会える可能性が1%でもあるなら、今は話に乗るべきだ。
問題は、例の公園だが……いつか有理と桜子さんと行った、あのコンビニ近くの公園しか思い浮かばなかった。なんでそんな場所を指定されたのかは分からないが、他に当てもないのだから、今はそこへ向かうとしよう。幸い、脱出経路は学習済みだった。彼は壁際まで行くと、以前、桜子さんがそうして見せたように、壁の上によじ登り、向こう側へと飛び降りた。
と、その時だった。まるで彼が壁の向こうから現れるのを待っていたかのようなタイミングで、一台のワゴン車が音も立てずに近づいてきた。こんな何もない場所を車が通りがかるはずはないのだが……張は少々不審に思いながら、車に進路を譲るつもりで脇に寄った。しかし、ワゴン車はそんな彼の前を通り過ぎることはなく、横付けするようにブレーキを踏むと、驚いている彼の眼の前で後部座席のドアが驚くような速さで開き、飛び出てきた男たちに中に押し込まれ、あっという間に連れ去られてしまった。