暗い雑木林で猫をキメる
有理と桜子さんが寮を抜け出し、酒を求めてコンビニに向かっている最中、暗い雑木林の中でクラスの中国人ヤンキー(中国人なのにヤンキーとはこれいかに?)の張偉という男を見かけた。こんな夜更けにコソコソと怪しすぎる。自分たちのことを棚に上げて不審に思った二人は、彼の目的を探るべく後を尾けることにした。
張偉は夜目が効くのか、それともよっぽど慣れているのか、暗い林の中でも脚色は衰えることなく、ずんずんと先を進んでいった。二人はそんな彼に見つからないよう、音を立てずに追いかけていたから、何度も姿を見失いそうになったが、それでもどうにか尾行を続けていると、やがて張偉は林の切れ目の小さな空き地へと入っていった。
月明かりが彼の姿を真っ白く照らす。すると張偉は周囲をぐるぐると見回しながら、チッチッチッと舌打ちを繰り返し、何かの合図を送り始めた。見つからないように身を屈めていた二人が、その不審な行動をよく見ようと身を乗り出していると、その時どこからともなく、
「にゃ~ん……」
と甘ったるい声が聞こえてきて、広場の中に尻尾をピンと立てた猫が入ってきた。張偉が屈んで手招きすると、猫はのたのたともったいぶるような足取り近づいていったかと思えば、彼の膝小僧に額を擦り付けるように何度も何度もぶつけだした。
張偉はそんな猫の背中を優しく撫でると、ポケットの中から何やら取り出して、猫の前に差し出した。猫は彼の手の上にある何かをクンクンと嗅いでから、むしゃむしゃと一心不乱に食べ始めた。多分、食堂の残り物か何かだろう。つまりこれはあれだ。
「飼ってるな……」
「あれは飼ってるね。間違いなく」
「学生寮では飼えないから、ここで餌付けしてんだな。かわいいな」
「あー……こういうの何ていうの? ギャップ萌え?」
「そうそう。不良がこう、普段見せないような優しい姿をこっそりさらけ出すのが、腐女子にはたまらんのですよ、みたいな」
「おい、そこに居るのは誰だ!」
有理と桜子さんが小学生並みの感想を言い合っていると、よほどうるさかったのか張偉にバレてしまった。その声に驚いた猫がびっくりして彼の膝の上に飛び乗る。二人はどうしようかと顔を見合わせたが、あの猫の懐きっぷりからしても、隠れる必要はないだろうと判断すると、広場にのこのこ出ていった。
「あんたは確か……同じクラスだったか」
張偉は、出てきたのがある意味有名人の有理だと知って意外そうに呟き、更にその彼に続いて出てきたのが異世界人であることに驚いて困惑の表情を見せた。まあ、その気持ちは分からなくもない。有理は彼に向かって頷いて見せると、
「あー、俺は物部。こっちは土方の桜子さん」
「どうもー。そこでビル作ってんの。よろしくね」
桜子さんがフランクに挨拶すると、彼はますますわけが分からないと言った表情でフリーズしていた。有理は仕方ないので追いかけてきた経緯を話した。
「いや、俺らちょっとコンビニまで酒でも買いに行くつもりでいたら、なんか君とかち合っちゃったみたいでさ。俺達も見つかるわけにいかないから、それでコソコソ追いかけてきたら、ここにたどり着いたってわけ。他意はないんだ。たまたま行き先が同じ方角だったんだよ」
「コンビニだと? まさかあんたら、壁を越えようとしてたのか」
「そう言われるとなんか壮大なことをしてるように聞こえるな。ところで、かわいい猫だね。君が飼ってるの?」
二人が近づいていって覗き込むと、猫は更に張偉の懐の奥の方に潜り込んでしまった。
「違う。これはたまたま今日ここで見つけただけだ」
その懐き方からして飼っていることは明白なのだが、彼はそっぽを向くとそんなことを口走った。
「別にチクったりしないよ。この子のご飯、君がわざわざ持ってきてあげたんだろ?」
「違う」
「めっちゃ君の手から食べてるじゃん」
「……太らせて食べるつもりだったんだ」
「そうねえ、食べちゃいたいくらい可愛いもんね。よしよし、名前はなんて言うの?」
張偉は何が恥ずかしいのか、自分は猫など飼っていないと言い張っている。しかし、桜子さんはそんなのお構いなしに、彼の膝の上で震える猫を抱き上げると、遠慮なくグリグリしながら尋ねた。
張偉はそんな桜子さんから猫をひったくるように奪い返すと、
「ジェリー」
ボソッと呟くように言った。桜子さんはそれを聞いて違和感をもたなかったようだが、
「ジェリー? ふーん、いい名前だね」
「いや、なんでやねん。猫って言ったらトムだろ、普通は」
有理がツッコミを入れると、彼女はぽかんとした表情で言った。
「なんで? 何がおかしいの?」
「そういう子供向け番組があるんだよ。猫のトムはネズミのジェリーを捕まえようとするんだけど、いつも返り討ちにあって酷い目に遭うんだ。ジェリーはネズミの名前なんだよ」
「へえ、そうなんだ。でも、トムは酷い目にあうんでしょ? ならジェリーでいいじゃない」
「いや、よくないよ。トムはトムで意外といいやつだったりするんだよ。彼はただ、御主人様に褒められたくってジェリーを捕まえようとしているんだけどね。その辺の微妙な関係性を描く回もちゃんとあったりして目が離せないんだ……あー、焦れったいなあ。これだから教養のない異世界人は」
「あ、それルナリアン差別だからね。出るとこ出たらあんた尻毛まで抜かれるよ。徹底的にやるからね」
「受けて立つと言いたいとこだが、凄い弁護団がついてきそうだよな」
二人がやいのやいのとやっていると、最初は警戒していた張偉も呆れてきたのか、
「あんたら仲いいな。付き合ってんのか」
「恐ろしいこと言わないでくれる!? ただの不良外人と、その家主だよ。それだけの関係だよ」
「そうそう、有理は童貞だし」
「どどどど、童貞ちゃうわ!」
「そ、そうか……なんだか知らんが、わかった」
張偉は案外素直なやつらしい。桜子さんもすっかり警戒心を解いたのか、彼女は猫のジェリーに向かってチッチッチッとやっていたかと思うと、突然じゅるじゅるとよだれを垂らしながら、
「これはあれだな。しんぼうたまらん。チュール買い行こうぜ、チュール」
「懐いてくれないからって、物で釣るつもりか」
「いいでしょ別に。かわいいは正義よ。ほら、早く早く」
「急に走り出すなよ」
桜子さんはぴょんと跳ね上がると、広場の反対側までタッタッタッと走っていってしまった。有理はパンパンと膝を叩いて立ち上がると、猫のジェリーにしがみつかれて自分も猫みたいに背中を丸めている張偉に手を差し伸べて、
「張くんも行こうぜ、コンビニ。行くだろ?」
「ああん?」
「ほらー、何してんの。先行っちゃうよ!」
桜子さんは今更声を潜めて手招きをしている。有理も張に向かって「早くしろ」と言うと、返事を聞かずに走り出した。残された張は困惑気味に猫のジェリーを地面に下ろすと、幾ばくかの逡巡の後に、二人の後に続いた。普通なら無視するところであったが、コンビニという言葉が彼の心をくすぐった。彼もこの施設に入れられてから、シャバの空気を知らないのだ。