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酒を求めて寮を抜け出す

 その後、授業で分からなかった点をいくつか質問してから、有理は教授の部屋を辞した。去り際、次の授業で返してくれればいいからと参考文献を何冊か渡され、早速読もうと思いながら寮まで帰ってくると、部屋の中で桜子さんがブルブル震えていた。


「寒いよー。いくらなんでも部屋寒すぎだよー。せめて設定温度上げようよ」

「馬鹿を言え、そんなことをしたら太郎が熱暴走してしまうじゃないか。なあに、そのうち慣れる。夏なんてこれでも暑いくらいなんだから」

「だから、それまで少し温度上げようって言ってるの」

「俺は寒くないんだよ。つーか服着ろ、服。Tシャツに短パンなんて格好でいるから寒いんじゃないのか。痴女か」

「家ん中で窮屈な格好したくないでしょ。自分の部屋ではさ、こう、ラフな格好で、リラックスして、ダラダラ過ごしたくなる気持ち、わかんないかなあ?」

「いつからここはあんたの部屋になったんだ?」


 他人の部屋でわがまま放題の異世界人と口論していると、据え置きのスピーカーから声が聞こえてきた。


「私のせいで不自由な思いをさせてしまい申し訳ございません、桜子。差し支えなければ、室温設定を、1℃、上げましょうか」

「ああん、あんたのせいじゃないからいいよ。飼い主の融通の効かなさが悪いんだよ。あーもう、わかったわかった、ちょっとくらいなら我慢するから。そんなに気を使わないで」


 桜子さんは、まさかAIから謝罪を受けるとは思わなかったのか、慌てて言い訳をすると渋々といった感じにベッドに置いてあったシュラフに包まった。だから服着ろよ。


「あんた、太郎の言う事は素直に聞くのな」

「だってこの子いい子だよ。寝っ転がってても漫画読み上げてくれるし、わかんない漢字あったら教えてくれるし。有理より賢いし」

「まあ、概ね同意するが、言い方が腹立つなあ……」

「それより、太郎って名前変えてあげたら? なんか適当につけたって感じがして可哀相になるんだよね」

「え? そうかなあ」


 有理はカバンを下ろすと中から借りてきた参考書を取り出して、早速太郎に読ませた。人間と違ってAIは一瞬だから、こういう時は本当に羨ましくなる。彼は作業を続けながら、イモムシみたいにゴロゴロしている居候に向かって言った。


「そういや桜子さん。AIと話すのに抵抗ないなら、これからは異世界語で話しかけてあげてくれないかな? 学習させたいから」

「なんで? アストリア語なら、もう喋れるでしょ?」


 有理は振り返って、今日、教授と話して、自分がいかに狭い世界を見ていたかを思い知ったと滔々と語った。


「今日、面白い先生と知り合ったんだよ。その先生が言うには、魔法ってのは言語を使ってイメージ出来る世界ってのが重要らしいんだ。俺達の世界には今、魔法が存在するわけだけど、少なくとも旧人類はそういう目で世界を見ていなかった。だから言語が存在しないから、俺は魔法が使えないんだって言うんだよね」

「どういうこと?」

「うーん……つまり、俺の頭の中にはまだ魔法が使える世界の概念が存在しないんだよ。元々俺達の世界には魔法が存在しなかった、それが魔法文明と融合したからってすぐに使えるようにはならない。俺だけじゃなく、俺達、科学世界の住人がみんな魔法を受け入れるようになって、はじめて使えるようになるんじゃないかって、そう言うんだな。なるほどなーって思ってね。元々無い概念が、使えないのは当たり前のことだ。それが使えるようになるには、パラダイムシフトが必要だって。そう考えたら、もしかしてシンギュラリティが起きなかったのも、それが原因だったんじゃないかって思ってね。AIも俺達と同じ言語で思考するなら、俺達の世界には存在しない概念ってものまでは学習できないわけだろ?」

「何いってんだかよくわかんないんだけど、要はアストリア語で話せばいいの? それくらいなら構わないけど」

「うん、よろしく。あとはクレオール語ってのが知りたいんだけど、俺、友達がいないからなあ……」


 有理は作業しながらブツブツと独り言をつぶやいている。内容は自虐的だが、その顔からして真剣に悩んでいるようだ。思えば、こんな有理を見るのは、彼がここに来てから始めてのことだった。桜子さんは、よっぽどいい出会いだったんだろうなと思って、何気なく尋ねてみた。


「それにしても、あんたがそこまで生き生きしてるのも珍しいよね。その先生ってのはそんなすごい人だったわけ?」

「ああ、徃見(いくみ)っつって、東大で魔法学を教えてる教授なんだけど……」


 有理はそこまで反射的に答えてから、ふと思い出した。


「そうそう、その徃見教授から聞いたよ。あんたのその桜子ってあだ名を付けてくれたのが先生なんだって? 昔はよく一緒に飲み歩いたって、懐かしそうにしてたよ。いやあ、世間は狭いね。あんたらが友達だったなんて知らなかったからびっくりしちゃったよ」


 有理がそう言ってから彼女の反応を見ようと振り返ると、桜子さんはベッドの上でイモムシ状態のまま、目を丸くして固まっていた。その表情が心なしか硬く見えるのは、何かまずいことでも言ってしまったのだろうか? 有理は困惑しながら、


「えーっと……あんたら、知り合いだったんだろ?」

「……まあね」

「そうだろうとも。先生、懐かしそうに話してたよ。彼がこの学校に教えに来てるの、知らなかったの?」

「ええ、知らなかったわ」

「あっそう……向こうは知ってたみたいだけど。週イチで学校来てるからさ、そのうちあんたも訪ねてみるといいよ。研究棟の9階に部屋があるんだ」

「そうね。それもいいかも知れないね」


 桜子さんは白けた表情で素っ気ない返事をする。その態度からして話題を変えろと言ってるようだった。もしかして二人の過去に、なにかあったのだろうか? 教授の話しぶりからして、まさか桜子さんがこんな風になるとは思わず、有理はちょっと面食らった。


 このまま相手の嫌な話題を続けてもしょうがないので、有理は取り敢えず彼女が食いつきそうな話題を投げた。


「そういや今日あんた、珍しくシラフだけど、ビールは飲まんの? 付き合うぜ」


 有理がビールを勧めると、桜子さんは彼が気を使っていることに気づいたのか、表情を緩めてノッてこようとしたが……シュラフから肩を出したところで、すぐに体を竦めて、


「ブルブルブル……そうしたいとこだけど、この部屋の温度じゃ凍えちゃうよ。熱燗が欲しくなる」

「桜子、やはり室温設定を上げましょうか?」


 AIの太郎が気を利かせて提案してくる。有理も、しょうがないからそうしろと言おうとしたが、それを遮るように桜子さんが言った。


「いいっていいって。それより言ってたらなんかホントに熱燗が飲みたくなっちゃった。せっかくだからコンビニ行かない?」

「いいね。そろそろお菓子のストック無くなってきたし、買い出し行こうか」


 有理はそう応じると、外出する準備を始めた。


 実はパンツを買いに行って以来、二人はちょくちょく寮を抜け出してコンビニに行っていた。だから3階の部屋から雨樋を伝って降りるのにももう慣れていた。彼はAIとの通信用に蝶ネクタイ型マイク……は目立つから、ボタンマイクをつけて窓を開けると、ぴょんと窓から飛び降りた桜子さんに続いて雨樋をスルスルと滑り降りていった。


 寮を取り囲む芝生に着地し、ロビーに常駐している鈴木に見つからないよう腰をかがめて、ビルの前の道路を素早く突っ切って、生け垣を飛び越えて雑木林の中へと入る。ここまで来ると木陰に隠れて、よほど目を凝らさなければ見えないから、普通に歩いて大丈夫のはずだ。有理は、ふぅ~っとため息をつくと、背筋を伸ばして腰をぽんぽんと叩いた。


 すると、第一関門を突破したと思って気を抜いていたら、いきなり桜子さんにぐいっと引っ張られて頭を押さえつけられた。


「しっ……静かに」


 何事かと驚いていると、桜子さんは、しーっと唇に指を当てるジェスチャーをした後、それを前方の林の方へと向けた。指先をたどってみれば、薄暗い木々の間に何者かの影が見える。自分たちの他にも先客がいたのだろうか? と、じっと目を凝らしてみれば、見覚えのある姿がそこにあった。


「あれは確か……張偉(チャンウェイ)ってやつじゃなかったっけ?」

「知り合い?」


 有理は頷いた。


「知り合いっつーか、うちのクラスの中国人リーダーだよ。ほら、いつも玄関先でヤンキー共が揉めてるでしょ。あれだよ、あれ」

「ああ」


 桜子さんの目が鋭く光った。


 ヤンキー共と言えば、有理のことを必要以上にコケにしていた連中である。その親玉がこんなところでコソコソ何をやっているのだろうか。もしも良からぬことを企んでいるのなら、大事になる前に止めねばなるまい。彼女はそう判断すると、見つからないように彼の後を追いかけ始めた。


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