パラダイム銀河
教授は有理が魔法が使えないのは、パラダイムが切り替わっていないせいだと言う。
「現在ではパラダイムという言葉は、『時代ごとに変わる思考の土台とか枠組みのようなもの』と捕らえられていますが、提唱者のトーマス・クーンによるとちょっと違うんです。人間というのはある常識の中で生きていて、その中にいる限り『真理』は変わる。『真理』はパラダイムによって決まっていて、パラダイムが変わる時、なんなら世界自体が切り替わってしまっているのだと、大胆に予言したんです。
まずは『真理』というものがどのような性質の概念であるか考えてみましょう。私たちは長い歴史の中で、真理というものは必ずしも絶対ではなく、時代によって移り変わっていくということを経験しています。
例えば私たちにとって地動説は常識ですが、昔の人にそんなことを言っても、馬鹿だと思われるのが落ちですし、なんなら異端であると火刑に処されてしまったかも知れません。コペルニクス以前の人々にとっては天動説のほうが真理であって、地動説は嘘だった。しかし、今や『真理』を知っている私たちからすれば、彼らの方が間違っている。どうすれば彼らに真理を教えてやることが出来るだろうか?
実際の歴史では、このあとガリレオが様々な観測結果からそれでも地球は回っていると言って、ケプラーが惑星の運行について著し、ニュートンの万有引力の法則の登場をもって、ようやく地動説を受け入れる準備が整い、結局常識が切り替わるのに200年近くもかかりました。とはいえ、時間はかかっても、科学というものは、こうして真理という最終目標に向かって、段階的に、徐々に進歩していくものだと、私たちは自然と受け入れているわけです。
ところが、クーンの考えは違ったんです。彼は『真理』という言葉はパラダイムによって相対的に決まる。極端な話、コペルニクスが地動説を唱えた瞬間、この世の真理という枠組みが切り替わったのだと考えたんです。それまで地上は亀の甲羅の上に乗った象が支えていて、天球がその周りをぐるぐると回っていたのが、一瞬にして私たちのよく知っている宇宙に切り替わったのだと。私たちが考えを変えたのではなく、世界が丸ごと入れ替わったのだと。
このような突飛な考え方ですから当然批判は多く、様々な矛盾点を突かれて彼は自説を撤回せざるを得なくなりました。それでパラダイムという言葉自体も取り下げたのですが、先述の通り便利な言葉として今は別の意味で定着しています。発案者の思惑と意味が変わっちゃってるんですよね。
ですが、私はこのクーンの考え方もあながち間違っちゃいないと思うんですよ。こういう突拍子もない考えが、案外、隠されていた真実の最後のピースになり得ることがあるんじゃないかと。特に魔法なんて不可思議な力を研究していますと、如実にそれを感じるんですよね」
教授はそういってお茶を啜った。その顔がほんのりと赤らんでいるのは、中に入っているブランデーのせいかも知れない。かといって、それで彼の頭脳が働いていないわけではないだろう。有理は唸り声をあげた。
「つまり、俺が魔法を使えないのは、この世界がまだ切り替わってないからだと……そういう感じですか?」
「概ね、そんなところです。天動説で生きている人には、地動説は絶対に受け入れられない考えだったんですよね。だから目の前に証拠を突きつけられたとしても、絶対に嘘だと考えもしなかった。それと同じように、私達の世界には、元々魔法なんて力は存在しませんでした。それが実際に目の前に現れたからって、すぐにそれが真理とはいかないわけです」
「……だから時間がかかると」
「そうです。私の考えでは、物部君は既に魔法が使えるはずです。試験の結果がそれを示しているのだから。なのに使えないのは、世界のほうがまだ受け入れられていないからじゃないかと思うんです。世界は言っている。私たちの地球には、魔法なんてものは存在しないのだと」
教授は涼しい顔でそう言い切った。それは有理を慰めようとして都合の良いことを言っているようには見えなかった。彼は本気でそう思っているのだ。それはまるで狂人じみた発想だったが、かといって有理にも否定できなかった。
魔法の理不尽さに関しては、自分だって嫌になるくらい知っているのだ。魔法が世界自体に紐づけられた固有の力だったとしても、それを信じることは造作もないだろう。
「先生がそう考えるようになった切っ掛けみたいなものは、何かあるんですか?」
ただ、頭から信じるわけにはいかなかった。何か根拠があるというなら聞いておかねばならない。有理は何気なくその点を突っ込んだ。
「ありますよ」
すると教授はそう断言した。なんなら、ただの勘だという答えさえ想像していた有理は、その強気な態度にちょっと驚いた。
「まずパラダイム論については、それを否定するのもまた骨だということです。コペルニクス以前、人々は天動説の世界に生きていました。地上は4元素が支配する物理法則に縛られ、天上の世界はそれとはまったく別の法則が支配していた。世界は正しくその通りに運行していた。
この考えをただ否定するのは簡単ですが、証明するのは難しいですよね。私たちは過去の出来事を、過去の記録でしか知ることが出来ない。ところが、過去の記録というものは、過去の常識によって書かれてるので、出てくる著述はみんな天動説を採用している。こうなってくると、過去の文献をもってその誤り指摘するのは困難でしょう。
私たちは、今、私たちが採用しているパラダイムを使って否定することしか出来ない。ところが、それは過去の人が異端であると退けた考え方なんです。
結局、過去の人たちが、自分たちの世界は天動説だと言うのなら、私たちはこのわからず屋! と返すくらいしか出来ることはない。極端な話、過去の人達がどのような世界に住んでいたところで、私たちは困らないわけですよ。世界は地動説が出てくるまで、天動説で回っていた。それでいいじゃないですか。ちょっと気持ち悪いだけで」
「はあ……」
「これと同じように、世界は50年前のあの時に切り替わった。それまで、この世界には魔法は存在しなかったが、あの瞬間に魔法の法則が生まれたのだと、そう考えるんです。すると、第2世代魔法というもののカラクリが見えてくるんです」